【連載】反−万博論 対抗の地図を描き出すために 

万博の暴力とその起源——第5回内国勧業博(1903)をめぐって

  原口剛

 


 

1.「万博は現代の新しい暴力である」

 万博の開催から5か月が過ぎたが、このかん次々に発覚した問題の悪質さは、私の想像をはるかに超えるものだった。たとえば、パビリオン建設を請け負った下請け業者への工事代金未払いの問題である。被害者の訴えによりこの問題が発覚することで、あるケースではパビリオン建設の元請がそもそも建設業者ではなく、フランス資本のイベント会社「GL events Japan」だったという驚愕の実態が明るみとなった。国家ぐるみの詐欺といっていいこの事態に対し、吉村大阪府知事や万博協会は「民民問題」という言葉で責任を逃れようと躍起である。また、8月13日には地下鉄の故障により1万人以上の来場者が徹夜で孤島に取り残されるという、とんでもない事態が起きた。マスメディアは「オールナイト万博」という言葉でお茶を濁そうとしているが、万博の「いかさま」と無責任さは誰の目にも明らかである。

 こうした状況を目の前にして、万博への批判の声は日増しに高まりつつある。もっとたくさんの人が、多様な声を上げるべきだろうとおもうし、私もそのひとりでありたい。だが他方で私の胸には、やりきれない感情が日々高まっていることもたしかだ。ひとつには、これほどの異常な事態を目の前にして、しかし、多くの人々は――なかでも研究者やアーティストは――依然として批判するでも肯定するでもなく、ぬるりと肯定しているように思われてならない。そして第二に、たしかに「この万博」に対する批判は高まりつつあるが、その批判の多くは「70年万博に比べていかにずさんか」という図式をとることが多い。この図式のなかで、過去の万博はかえって神話化されているように思えてならないのだ。

 ここで、こうした空気を一撃で吹き飛ばすような一冊の本を紹介したい。アート集団〈ゼロ〉次元の中心メンバーとして70年万博に対峙し、直接行動の力をもって「反万博」を叫んだ加藤好弘の文章や作品を収めた著作集『反万博の思想』である(図1)

図1 『反万博の思想』書影

この本を手に取った私は、たとえば「万博は現代の新しい暴力である」との言葉にはっとさせられた(加藤 2025: 253)。その言葉を、過去のものとみなすことなどできるだろうか。じっさい酷暑の最中に半強制的に人びとを炎天下の会場へと動員する姿は「人身御供」の光景と言わねばならないし、会場から離れた場所であっても都市空間では貧困層やマイノリティは排除の暴力にさらされているではないか(序を参照)。なにより加藤の宣言は、過去の万博の神話化に抗い、万博そのものの暴力に目を向けるよう訴えかけている。つまり私たちに必要なのは、「この万博」を批判することだけではない。近現代の万博の歴史に目を向け、それぞれの時代に博覧会が刻み込んだ暴力をあらためて問うことが、いま求められているのだ。

 これまで本連載では、1980年代のイベント・オリエンテッド・ポリシーの分析にかなりの時間とエネルギーを注いできた。以後の連載では──閉幕まで残された時間はわずかではあるが──、このような問いに導かれつつもっと時間をさかのぼり、万博の暴力を捉えてみたい。とくに取り上げたいと思うのは、1903年の第5回内国勧業博覧会および1970年の日本万国博覧会である。今回は、前者の第5回内国勧業博を取り上げよう。それは、事実上「日本初」となった万国博覧会であり、したがって現在までつづく博覧会の歴史の起源である。そしてこの最初の万博は、植民地的暴力を都市に深く刻み込んだのだ。なかでも重要なのは、「人類館事件」と、木賃宿街・長町の解体というふたつの出来事である。以下では、それぞれの出来事の概要を示しながら、「最初の万博」が刻み込んだ暴力の具体的な様相を浮き彫りにしていこう。

2.「人類館事件」をめぐって

 明治新政府は、権力を掌握した直後にすぐさま博覧会の開催を目論んだ。すなわち1877年に上野公園を会場として第1回の内国勧業博覧会を開催して以降、第2・3回の内国勧業博を同じ上野公園で開催し、第4回を京都・岡崎公園で開催した。これらの博覧会の名称に「内国」が冠せられたのは、いまだ国内の政治的統一すらままならず(たとえば第1回の内国博は西南戦争のただ中で開催された)、欧米に伍する国力も持ちえなかったからである。これに対し大阪の地で開催された第5回内国勧業博は、「内国」を冠した最後の博覧会であると同時に、事実上の最初の「万博」であったと評される。

 1903年の第5回内国勧業博が「内国」博から「万国」博への転機となった事実は、入場者数の推移をみれば明らかである。東京・上野公園を会場とした勧業博の入場者数は、45万4168人(第一回)、82万3094人(第二回)、102万3693人(第三回)と推移し、京都・岡崎公園を会場とした第4回勧業博(1895年)では113万6695人を数えた。これに対し第5回勧業博の入場者数は435万693人に達し、その敷地は前回の2倍以上の規模へと拡張された。こうして、第1回勧業博の約10倍、第4回と比しても約4倍もの人びとが殺到したのである。

 このような博覧会への求心力は、さしあたり電気を応用した夜間イルミネーションやエレベーター付きの高塔、ウォーターシュートやメリーゴーラウンドなどで構成されたスペクタクル空間の斬新さゆえのことと考えられるだろう。だがもちろん、それだけではない。この博覧会の開催が日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)に挟まれた時代だったことは決定的に重要である。日清戦争はまず、帝国日本に産業革命をもたらす画期となった。この戦争を機に日本資本主義は急拡張し、「日清戦役を以て労働問題の新紀元となす」と横山源之助が論じたように(横山 1985: 353)、軽工業を中心として多数の賃金労働者を生みだした。そればかりか、世紀の変わり目という時代にあって資本主義の勃興は、明治日本を帝国主義へと転化させ、「万国」すなわち世界への拡張へと駆り立てた。この博覧会の帝国主義・植民地主義的性格をもっとも赤裸々に示したのが「人類館事件」であった。

「人類館事件」

 そもそも1851年のロンドン万博から、帝国主義・植民地主義は博覧会に欠かせない展示の要素であった。回を重ねるごとに植民地展示は拡大し、1889年のパリ万博では現地の住民の身体を展示する「人間の展示」が出現したのだった1。1900年パリ万博では帝国主義諸国が植民地パビリオンを競い合い、日本帝国も植民地支配した台湾の展示をもくろんでいた(松田2002: 57)。こうした経緯を経て1903年の第5回内国勧業博において、植民地パビリオン台湾館が大々的に登場した。のみならず、博覧会場正門前の「場外」余興地には民間パビリオン「学術人類館」が開設された。この「学術人類館」において、帝国日本がすでに支配した植民地のみならず、領有を企てようとする土地の住民の、生身の身体が展示にさらされたのである。展示を主導した東京人類学会による「人類館開設趣意書」は、その狙いを次のように記している。

文明各国の博覧会を観察するに人類館の常備あらざるはなし之れ至当の事と信す然るに今回の博覧会は万国大博覧会の準備会と称す可き我国未曾有の博覧会になるにも拘らす公私共に人類館の常設を欠く我輩等の甚だ遺憾とする所なりここに於いて有志の者相謀り内地に最近の異人種即ち北海道アイヌ、台湾の生蕃、琉球、朝鮮、支那、印度、爪哇ジャワ、等の七人種の土人を招聘し其の最も固有なる生息の階級、程度、人情、風俗、等を示すことを目的とし各国の異なる住居所の模型、装束、器具、動作、遊芸、人類、等を観覧せしむる所以なり。(演劇「人類館」上演を実現したい会 2005: 34より引用)

このうち清国(「支那」)の展示は、事前に計画を知った留学生と領事館からの抗議を受け開館前に取り下げられ、「朝鮮」については開館直後には展示を目撃した朝鮮人および韓国公使からの抗議を受けて中止された。また「琉球」の展示をめぐって開館後に『琉球新報』をはじめとする抗議キャンペーンが繰り広げられ、開館後2か月を経た段階でようやく取りやめられた。一連の「事件」はこうした経緯をたどったのだが、その他の「土人」と称せられた人びとは展示されつづけた。先行研究が明らかにしたように、ここには「鑑賞する側」と「展示される側」との絶対的な非対称性を生みだす「まなざしの権力」が見てとれる。

 だがそれ以上に強調したいのは、一連の「事件」に見いだされる植民地主義の動的編成である。演劇「人類館」上映を実現したい会の検証が明らかにしたように、沖縄からの声の内実は、他の民族と同列に扱われることへの抗議であり、展示が具現する植民地主義権力そのものに対してではなかたった。むしろその抗議の声は、植民地主義の意識を連鎖的に再生産させた(演劇「人類館」上演を実現したい会 2005: 中村 2020)。同様のことは、台湾館に具現された認識の図式にも言えることだ。この図式について、松田京子は次のように指摘している。

日本「内地」に比べれば「遅れている」が、日本「帝国」の指導のもとで「内地」に近づく可能性のある植民地台湾という認識が展開されている。ここで注意したいのは、認識過程のなかでの、より「遅れた」朝鮮という比較が、抽象的なレベルで展開されているということだ。(松田 2002: 79)

つまり人類館の展示は、文明化の度合いを尺度としてアジア諸国の優劣を配置しただけでない。そこには、帝国日本への接近度合いに応じてその優劣が変化する可能性が含まれていたのである。

マッキンダーの地図——帝国主義の地政学

 この点は、植民地主義とは国家権力の問題であると同時に、資本主義の問題でもあることを想起するよう私たちに促しているように思われる。1904年にイギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダーは、王立地理学協会で行った講演「歴史の地理学的な回転軸」(The Geographical Pivot of History)のなかで、「パワーの自然的配置」と題する世界図(図2)を示しつつ、のちに「ハートランドの理論」と呼ばれる議論を提起した。

図2 マッキンダーの地政学図(「パワーの自然的配置」)

近代地政学の始原として知られるこの議論においてマッキンダーは、「シーパワー」と「ランドパワー」という相対立する勢力がユーラシア中央部にあたる「ハートランド」の争奪戦を繰り広げる図式を示したのだった(高木 2020)。ここで注意すべきは、このマッキンダーの地図作製は世界をたんに写し取ったのではなく、ある世界像を能動的に創出したことである。そこに見いだされるのは、国家と資本主義とを関係づけ、新たに編成しようとする帝国主義的な〈知〉のプロジェクトである。

 たとえばマッキンダーは、このような地政学図を示しつつ次のように述べる。「あらゆる社会的力の爆発は……地球上の遠く隔たった場所からの激しい逆流にさらされ、その結果として世界の政治的・経済的組織のうち脆弱な部分は砕け散るだろうるだろう」。その言葉に示されるとおり20世紀初頭の帝国主義は、あらゆる場所や地域が弱肉強食の世界のなかで生存を競い合うような、不安定な土台のうえに構築された。というのもニール・スミスが指摘するように、見た目には不動であるようにみえる領土を描き出したマッキンダーの地政学的地図の背後には、じつのところ世界市場を飛び回る資本の流動性が潜んでいたのである(Smith 2003)。そのような流動的かつ不安定な状況だからからこそ、帝国日本は「遅れ」を巻き返して西欧諸国に肩を並べることを追い求めた。かつ、没落しないためには膨張しつづけるしかない強迫的な環境ゆえに、その反面として「文明と野蛮」の分割はより強固で固定的でなければならなかったのだし、植民地を従属させる力はどこまでも暴力的なものとなった。

「世界人種地図」——人種による世界の分割

 重要なのは、かような近代資本主義の編成において植民地主義およびレイシズムは不可欠のコードであったこと、そしてこの過程において地図が無視しえぬ役割を担ったことだ。その事実は、「人類館」の主導者である人類学者の正五郎をめぐるエピソードをみれば明らかである。前述したように人類館は計画段階から抗議を受けていたわけだが、日増しに高まる批判と抗議の声を受けて坪井は、「人類館」を「学術人類館」と改称することで展示が学術的実践であることを強調し、またその正当性を訴えるために巨大な「世界人種地図」を製作してパビリオン内に展示した。つまり坪井にとって地図とは、パビリオンがたんなる見世物ではないことを訴えるための手段であったわけだ2

 坪井らが作成した「世界人種地図」は、こうした19世紀以来の「学術‐地図」の共犯的な実践を受けついでいた。1902年に作成された「人種地図」(図3)は、学術人類館に展示された「世界人種地図」の原型となったものと考えられる3

図3 「人種地図 東半球之部」 出展:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/832909)

世界地図の透明な平面に「人種」を配置させたその地図は、「人類館」を学術的であると説得する効用が期待されていたわけだ。

 と同時に「人種」と「地図」とを組み合わせた作図は、「人種」のコードに則って世界を分割し、位階化する実践でもあったといえる。「人種地図」に付された解説書である『人種誌』(図4)では、たとえば「亜細亜系統人民(Asian Race)」の大項目のもと「日本種族(Japanese)」や「沖縄人(Loo-chioo islanders)」や「韓族(Coreans)」が別項目に分類され、それぞれの「特性」が解説されている。たしかに図4の「人種地図」には国境が書き込まれてはいない。

図4 『人種誌』表紙 出展:国立国会図書館デジタルコレクション(https://lab.ndl.go.jp/dl/book/832911)

だが、「項目」による人種の線引きは、地図に翻訳されたならば政治的境界へと投影されることは明らかである。じじつ「人種地図」が描かれたのと同じ時代に帝国日本は、「内国図」とは区別された地図を「外邦図」と呼び、その名のもとに植民地の地図作製に取りかかっていたのである。

 けれども他方では、坪井らがどれほど「学術」であると言い張ろうと、パビリオンが人間を見せ物にするというむき出しの差別であった事実に変わりはない。会場を訪れた見物人は、坪井らが望んだように、世界を知ることの学術的な喜びを感じたのかもしれない。あるいは、他者の肉体や所作をのぞきみる愉悦にひたったのかもしれない。いずれにせよパビリオンでの視覚経験は、見る者の内面に植民地主義的な差別意識を植えつけたはずだ。またこのような差別は、当時あらわれつつあった資本主義の論理と深いところで結び合わされていた。こうして学術人類館に設置された「世界人種地図」は、他者の肉体へのやましい欲望を「科学」へと偽装しつつ、帝国主義的征服と植民地支配への欲望へと接続させた。いわばそれは、人びとの地理的想像力を捕獲し、マッキンダーが提示したような地政学的世界へと絡めとっていく装置だったのだ(図2を参照)。そしてこのような世界への地理的想像力は、都市を理解する枠組みにも反映されたのである。

3.木賃宿街・長町の解体をめぐって

 第5回内国勧業博に見いだされるもうひとつの原体験は木賃宿・長町の解体であり、この出来事は直接に釜ヶ崎の成立にかかわっている。長年のあいだ釜ヶ崎は建設労働や港湾労働に従事する日雇い労働者の住処であり、「寄せ場」とも「ドヤ街」とも呼ばれてきた。「寄せ場」という言葉がこの地域の日雇い労働市場としての側面を指すのに対し、「ドヤ街」とは安価な宿泊施設の集積地としての側面を指す。この「ドヤ街」としての釜ヶ崎は、約120年の歴史をもっている。けれども大阪における「ドヤ街」の歴史はずっと古く、その起源は17世紀初頭の江戸期にまでさかのぼる。当時「木賃宿」と呼ばれた江戸期のドヤは、現在は電気街やアニメタウンとして知られる日本橋筋4~5丁目にあった長町(名護町)に集積していた。結論を先取りすれば、明治期に入って木賃宿街・長町の貧民は放逐され、その受け皿としてドヤ街としての釜ヶ崎が新たに成立したのである。そして、この貧民放逐の決定的契機となったのが、第5回内国勧業博覧会だったのだ。

貧民を人種化する

注目すべきは、この貧民放逐の契機において、植民地主義的な言説が立ち現れたことである。たとえば博覧会開催の前年には『大阪朝日新聞』には次のような主張が掲載された。

忍ぶべからず不体裁は南区日本橋筋四五丁目の貧民部落是なり、同所は先年府の長屋建築規則に拠り最も見苦しき家屋は家主をして家賃をも引上げし為多少貧民は減じたるも矢張同所に住めるは別種族にして汚くるしき身装の儘路傍に徘徊し而も博覧会正門の入口に当り梅田停車場より会場への要衝に当り其儘に存し置くは独り市の体面に関するのみならず実に国家の面目に係る次第なれば当局者に於て速かに此貧民を他へ移す方策を講ぜざるべからず。(『大阪朝日新聞』明治35年3月14日、加藤(2002)104頁より引用)

記事は、貧民は「別種族にして汚くるしき」存在としてくくり出し、かれらを立ち退かせるよう主張する。これに先立つ時期に、貧民を都心から遠ざけるべしとする「貧富分離」の思想が帝都・東京において台頭し、大阪においてもそれは目新しいものではなかった。新しいのは、かれら貧民を「別種族」として人種化するその語り口である4

 まず指摘しておくべきは、このような人種的な語り口は、ウィリアム・ブースによるロンドンのイーストエンドの調査報告『最暗黒の英国とその出路』(1890年)を構成するのと同じ言語を共有していることだ。ブースがイーストエンドを「最暗黒」として名指したのは、ヘンリー・モートン・スタンレーのコンゴ探検の「冒険的」記録であり、大ベストセラーとなった『最暗黒のアフリカ』(1890)に影響を受けてのことだった。つまり先進国が帝国主義的拡張へと向かう過程のなかで、「最暗黒」という表現には植民地主義的イメージが集約され、国外なのか国内・都市内なのかを問わず投影されたのである。

 特徴的なことに、国内や都市内に向けられた植民地主義とレイシズムには、「労働」の倫理が色濃く重ね合わされる。たとえばブースは次のように呼びかける。「酒に浸り、悪習に染み、あらゆる社会的並びに肉体的の疾患に蝕まれた住民、これらこそは、私が生涯をそのさ中で過ごした「最暗黒の英国」の居住者らである。そしてその人々を救助するために、私は今我々の国土の男性並びに女性の最善なるすべての人々を招集する」。では、どうやって「救助」するというのか。「更生」の機会を与えることによって、なにより「勤労」がもつ美徳の恵みに与ることよって、である5。このように都市内においては、流浪する貧民の群れを賃労働者として組織することが目論まれるなかで「貧民の怠惰」が強調され、かれらは「最暗黒」に住まう「異人種」としてくくり出されたのだった。

 つまり長町に対して投げかけられた「別種族」のイメージが示すのは、都市内植民地主義というべき同時代的な資本主義の精神だったといえよう。それでは、博覧会とともに立ち現れたレイシズムの言語は、いかなる物質的効果を発揮したのか。それを論じるにあたって、博覧会において頂点に達する排除の力学を読み解く必要がある。

博覧会と貧民街「長町」の解体

 木賃宿街・長町を解体しようとする動きは、博覧会以前から繰り返し立ち現われていた。1885~86年の大阪はコレラの大流行に見舞われ、長町では真っ先に多数の被害が出た。疫病の流行は近代都市の宿命というべき普遍的な現象だが、いつの時代も最初の被害者となるのは、栄養状態が悪く衛生環境も乏しい貧民である。そのうえ疫病は都市外から伝播する経路上では不可視であり、被害者の身体症状によってはじめて視認される。貧民は、疫病の犠牲者でありながら、あたかも「発生源」であるかのようにみなされるのである。こうしてパンデミック下の大阪において木賃宿・長町の解体プロジェクトは始動し、1891年には加藤政洋が「大阪最初のスラムクリアランス」と呼ぶ立ち退きが遂行された。

 けれども、このクリアランスによって長町が一掃されたわけではない。それどころか、1900年代ごろには追い払われた貧民がふたたび周囲に住みはじめ、長町を取り巻く一帯には貧民の地理が再形成されていた。近接する土地が第5回内国勧業博の会場地に指定されたのは、この第一段階のクリアランスが空振りに終わったあとのことだった。長町を解体させることになる博覧会の物質的な力は、会場地が決定するやいなや発動されたのである。

 まず、長町と博覧会場との位置関係を確認してみよう(図5)。

図5 博覧会場と長町(日本橋筋)との位置関係 出典:水内俊雄「地図のススメ」(原口剛ほか編『釜ヶ崎のススメ』洛北出版, 2011.)

もともと長町は、都市・大阪の周縁に位置し、それを超えれば畑地が広がるのみであった。ところが1899年9月、長町の外側に位置する一帯が地博覧会場に指定された。このとき長町が占める絶対的な位置にはなにも変化はない。だが、長町の相対的位置は一変させられる。それまでは都市の外れであった紀州街道(日本橋筋)が、一転して都心と博覧会場とをつなぐメインストリートへと変わるのである。こうして長町は、周縁性を強く帯びた場所でありながら、国家の「体面」を左右するほど象徴的な重要性をもつ場所に囲まれるという、矛盾した位置を占めることになった。

 貧民を「別種族にして汚くるしき」とする言説が浮上したのは、まさにこのようなタイミングにおいてのことだ。かれら貧民の存在は「国家の面目に係る」とされ、じじつ紀州街道は博覧会場を訪れる天皇の通り道となった。この博覧会を天皇は計7回見学し(松田 2002: 49)、4月20日に大々的に開催された開会式では京都御所から京都御所から鉄道にて大阪梅田停車場に到着した。「停車場より博覽會に至る里餘りよ鹵簿ろぼ第二公式を用ゐる、天皇正装を服し、儀装車に駕したまふ、供奉文官は大禮服、陸軍武官は正装、海軍武官は正服なり、車馬裝飾之に稱ふ……」(宮内庁 1974: 406)。

 帝国の身体である天皇が行幸するルート、しかも博覧会正門を目前にした地点は、貧民の地理の最奥部であったといっていい。ここに、立ち退きの暴力が作動する。博覧会にあわせ、メインストリートである日本橋筋は拡張され、名護橋付近の家屋の十数件が取り払われたほか、道路に面する建物や路地の要所には広告掲示板を設置することで背後の貧民街が目に入らぬようにすることが計画された。しかも貧民たちは、博覧会期さえ乗り切れば安心できるわけではなかった。松田京子が論じるように、第5回内国博はそれまでとは異なり、都市開発の起爆剤となるよう明確に企図されていた(松田 2003)。つまりそれは、ジェントリフィケーションを発動させる装置だったのだ。じじつ博覧会場の跡地は、東部分は近代的公園として整備され1909年に天王寺公園として開園し、西部分には最先端の遊園地「ルナパーク」とタワー「通天閣」を有する繁華街・新世界として開発された。酒井隆史が詳述するようにその背景では、地価上昇にともなう怪しげなうごめきを解き放った。この開発の途上にあった1906~07年前後の時期に長町の住民は、難波署の徹底した「掃討」あるいは「無頼漢狩」により追い払われ、木賃宿街は解体されたのである(加藤 2002)。

 こうして博覧会は、都市開発の力を発動させると同時に、警察権力によって貧民を市外へと追い払った。この一連の経緯を辿るとき、パビリオン「学術人類館」のなかで「人種地図」が広げられるすぐそばで、「別種族」とされた貧民が「国家の面目に係る」問題として炙り出された事実がもつ意味は重大である。つまり博覧会という装置は、世界地図の平面上に植民地主義の欲望を広げると同時に、都市内では足元の「貧民」を人種化し、排斥したのだ。

ドヤ街・釜ヶ崎の成立

 前述したように、第5回内国勧業博を契機とする都市開発は、長町の貧民を追い払い、木賃宿街を解体に追いやった。では、なぜ追い払われた木賃宿がたどり着いた先が、「釜ヶ崎」と呼ばれる土地だったのか。図6は、1890年代の釜ヶ崎の風景を映し出した写真である。

図6 1890年代の釜ヶ崎の風景 出典:水内俊雄「地図のススメ」(原口剛ほか編『釜ヶ崎のススメ』洛北出版, 2011.)

この時期の釜ヶ崎は一面に畑が広がるばかりで、木賃宿街の気配は見当たらない。けれどもこの写真は、木賃宿街・釜ヶ崎の成立にかかわる、ある重大なことがらを伝えている。写真を横断して走る土手は、そのうえを関西鉄道が走る軌道であると同時に、物理的な境界でもあった(土手のうえを走る関西本線〔現在のJR環状線〕と柵が立ち並ぶ南海線が交差する地点が、現在の新今宮駅にあたる)。1897年に大阪市は市域を拡張し(第一次市域拡張)、釜ヶ崎の界隈ではこの土手が市域を区切る境界とされたのだ(図7を参照)。

図7 1911年の釜ヶ崎一帯 出典:水内俊雄「地図のススメ」(原口剛ほか編『釜ヶ崎のススメ』洛北出版, 2011.)

さらに、以下の条件が加わる。コレラ大流行を契機として展開した長町解体プロジェクトの一連の経緯のなかで、1886年に「長屋建築規則」および「宿屋取締規則」が制定され、後者は98年に「宿屋営業取締規則」へと改正された。この98年の改正によって、大阪市内および堺市内での木賃宿営業は禁止されたのである。こうして、鉄道線の北側が大阪市内に組み込まれたのに対し南側は市域外として取り残され、木賃宿の営業規制の対象外とされた6(加藤 2002)。図6に映し出された東西に走る鉄道の土手は、木賃宿が立地することを阻む制度的な境界として機能したのである。このような制度的条件のもとで、長町と紀州街道で結ばれつつも大阪市外にあたり、かつ限定された木賃宿営業許可地のひとつである釜ヶ崎に木賃宿街が再形成されることは、ほとんど必然であった。つまり、博覧会を契機とする一連の実践とは、木賃宿街を市境界の外側へと追い払おうとする試みだったのである。東西に走る鉄道の土手は、その内側に木賃宿が立地することを阻む制度的な境界として機能したのである。

 こうして万博の起源に見いだされるのは、植民地主義的な暴力の痕跡である。「人間の展示」のようなあからさまな差別は、たしかに19世紀末~20世紀初頭の帝国主義の時代に特有のものといえるかもしれない。だが、植民地主義的暴力は、かたちを変えながら近現代を貫いて作動しつづけてきたのではないか——この点については、別途書籍にて詳述することにしたい。いま確認したいのは、国内外において排外主義が急速に台頭しつつある現在、20世紀初頭の帝国主義的・植民地主義的な暴力を「過ぎ去ったこと」として片づけるわけにはいかないことである。なにより、都心から貧民を追い払おうとする排除の力は、これまでにない圧力をもって、しかもメガイベントの開催を契機として作動している。だからこそ私たちは、万博の起源とその暴力を、新たに語り始めなくてはならないのだ。

文献

演劇「人類館」上演を実現したい会編『人類館——封印された扉』アットワークス, 2005

加藤政洋『大阪のスラムと盛り場——近代都市と場所の系譜学』創元社, 2002.

加藤好弘著・細谷修平編『反万博の思想——加藤好弘著作集』河出書房新社, 2025.

宮内庁『明治天皇紀 第十』吉川弘文館, 1974.

酒井隆史『通天閣——新・日本資本主義発達史』青土社, 2011.

高木彰彦『日本における地政学の受容と展開』九州大学出版会, 2020,

原口剛・稲田七海・白波瀬達也・平川隆啓『釜ヶ崎のススメ』洛北出版,2011.

ブース, ウィリアム(山室武甫訳)『最暗黒の英国とその活路』相川書房, 1987.

松田京子『帝国の視線——博覧会と異文化表象』吉川弘文館, 2002.

横山源之助『日本の下層社会』岩波書店, 1985.

リヴィングストン, デイヴィッド(梶雅範・山田俊弘訳)『科学の地理学——場所が問題になるとき』法政大学出版局, 2014.

Smith, Neil. Uneven Development: Nature, Capital, and the Production of Space, Basil Blackwell, 1984.

Mackinder, Halford John. “The Geographical Pivot of History”, in Democratic Ideals and Reality, Washington, DC: National Defense University Press, 1996, pp. 175–193.


  1. その先駆はパリの動植物園で実施され、人気を博した「人間動物園」である。 ↩︎
  2. 長きにわたる植民地支配の歴史のなかで19世紀は、地図製作が科学理論との関係を深めた時代であった。たとえば進化論の提唱者であるチャールズ・ダーウィンやアルフレッド・ラッセル・ウォレスは、かれらの理論を訴えるにあたって地図製作を重視した。というのも「科学的地図が偏見のなさや中立性といったそれぞれの印象をもたらし、このことによって客観性に信頼を抱かせる」。とりわけウォレスは、動植物だけには飽き足らず、人種の地理学を作成しようとしたことでも知られる。「地図は、彼の理論が証明しようと探し求めた、社会的・動物学的な双方の諸事実を見渡すイメージを想起させる修辞上の道具となった」(リヴィングストン 2014: 204)。すなわち地図とは、人種の分類に学術的な権威を与える特権的な表象だったのである。 ↩︎
  3. 「人種地図」はともに坪井門下であった鳥居龍蔵と大野雲外によって編纂され、校閲したのは坪井正五郎その人であった。 ↩︎
  4. この言説について、松田京子は次のように述べている。「ここでいわれる「種族」とは……人類学的構成概念としての「人種」や「種族」とは、異なるカテゴリーである。つまり公衆衛生観念のいわば「微細な権力」の不均衡な配分によって構成される異質性が、ここでは「別種族」として言い表わされ、その存在が「国家の面目」に係る問題として強調されているのである」(松田 2002: 27)。たしかに、貧民に投げかけられた「別種族」は学術用語としては別カテゴリーである。けれども、往々にして学術に由来する用語は、社会の諸領域へと流用され、混同して語られるものだ。「われわれ」とは異なる他者をあぶり出すという言説的実践のうえでは、両カテゴリーは同様の効果を発揮していると考えられないだろうか。 ↩︎
  5. 貧民の更生プランについて、ブースは次のように論じる。「諸君はその男をどう扱おうとするのか。それは今日社会が当面する大きな疑問符である。人口過剰の英国におけるのみならず、海の彼方のより新しい国々においても、社会はまだ、人々が土地に定着し、土地が人々をも養うようにする手段を提供しておらない。この男を処置するのが「失業者問題」である。彼を有効に処置するためには、諸君は直ちに彼を扱わねばならない。諸君はなんだかの方法で直ちに、彼に食物と暖かみとを供給せねばならない。次に諸君は、彼が何かを為すこと、彼の働く願望の真実性を試みる何かを、彼に見つけてやらねばならない。その試みは一時的なものであって、彼に永久的な生計を立てさせる準備をなす性質のものたるべきである。次に、彼を訓練し終えたなら、諸君は彼に生活を新しく発足させる道を提供せねばならない」(ブース 1987: 117-118)。興味深いことに、こうして失業者たちの更生が約束された土地をブースは「植民地(Colony)」と呼び、「市中植民地」「農業植民地」「海外植民地」の3つに分類している。 ↩︎
  6. 最後に、宿屋営業取締規則はじっさいには許可地を限定し、そのうちひとつは今宮村の「大字今宮」であった。小字の「釜ヶ崎」は、この「大字今宮」を構成する地域のひとつにほかならない(加藤 2002)。 ↩︎

著者紹介

原口 剛(はらぐち・たけし)

神戸大学大学院人文学研究科教授、専門は都市社会地理学および都市論。著書に『叫びの都市――寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』(洛北出版)、『惑星都市理論』(共著、以文社)、『釜ヶ崎のススメ』(共著、洛北出版)など、訳書にニール・スミス『ジェントリフィケーションと報復都市――新たなる都市のフロンティア』(ミネルヴァ書房)、ロレッタ・リーズほか『ジェントリフィケーション入門』(共訳、ミネルヴァ書房、近刊)がある。