【連載】反−万博論 対抗の地図を描き出すために
補論:「万博カラオケ」は文化的な詐取である——天王寺公園青空カラオケをめぐって
(「イベント中毒都市・大阪——原点としての1980~90年代」)
原口剛
1.民衆文化の再現か、それとも詐取か?
第1回・後編(「公園と壁——天王寺公園クロニクル」)で論じたように、1987年の天王寺博の会場とされた天王寺公園は、その後の公園改造を経て90年にほぼ全域が有料化され、日雇い労働者や野宿生活者は公園から追い払われた。それはまた、天王寺公園に受け継がれてきた民衆文化を一掃しようとする試みでもあった。天王寺公園と深い縁があった憂歌団の木村秀勝は、有料化された公園について次のように語っている。
2年前に行ったシカゴ。あそこはよろしな。音楽が町にあふれとる。街角でギター持って歌うモンと聴くモンがおる。大阪かて、天王寺公園。オッちゃんらがマイク握って気持ちよさそうに歌うとったがな、カラオケを。でも〔有料壁で〕囲ってしもて。みんなが思い入れてる町の風景がどんどんのうなっていく。僕らは全国回って天王寺界わいへ帰ってみたら、「あれ、あの建物あらへん」。ムチャクチャや。(『朝日新聞大阪市内版』1990年5月2日夕刊, 〔〕内は筆者による補足)
木村にとって公園の原風景は「オッちゃんらがマイク握って気持ちよさそうに歌う」姿であり、その光景は国境を越えシカゴの街にも共鳴する奥深さをもっていたのだという。この「青空カラオケ」の光景は、公園が有料化された90年以降も消え去ることはなかった。青空カラオケは、有料公園内のあいだを縫うようにして走る無料の通行路に息づき、有料化に抗うかのような活気を生みだしたのである。私が大阪に移住したのは2000年のことだったが、そのころは天王寺駅を降りれば青空カラオケの歌声が耳に入ってくるものだった。私もまた、このラディカルな大衆文化に圧倒され、衝撃を受けたひとりである。
それから20年以上を経て、「青空カラオケ」に言及するニュースが思いもかけず目に入ってきた。万博を宣伝するそのニュースは、吉本興業が手がけるパビリオンが開催する「万博カラオケ」が好評を博しているとして、次のように伝える。
「アシタ広場」にて、夜な夜なおこなわれている「盆踊りのアシタ」。ざっくりどういった内容なのかを説明すると、吉本芸人が日替わりでMCをつとめるステージに「我こそは歌いたい!」と志願した参加者が上がり、大画面に映し出されるカラオケで熱唱するというもの。
この万博カラオケは、「開幕当初はガラガラだったものの、口コミやSNSをきっかけに、今では注目スポットのひとつに登りつめた」のだという1。そして驚くべきことに、パビリオンのプロデューサーによれば、「盆踊りのアシタ」には「2010年代に撤去された天王寺公園の青空カラオケがイメージされている」、つまり青空カラオケの再現だというのだ2。
ただちに指摘しておかねばならないのは、天王寺公園から青空カラオケが撤去されたのは2010年代ではなく、2003年だということだ。このような事実誤認からして、このプロデューサーが青空カラオケになんの思い入れもないことは明らかなのだが、それだけではすまない問題が潜んでいる。つまり、万博カラオケと青空カラオケとはまったくの別物であること、そして、万博カラオケにみられるのは文化的な詐取にほかならない、ということである。
2.青空カラオケ小史
2003年、筆者らは仲間とともに青空カラオケの輪の中に加わり、歌いながら、その場にかかわる人々の思いや、青空カラオケの歴史を聞き取った。その記録は、いくつかの媒体に書き記したほか3 、山川宗則『公園』にて映像記録として残されている。上述したように青空カラオケが強制撤去されたのは2003年12月のことだが、この当時天王寺公園の無料通路内には8軒の青空カラオケが開業していた(図1)。

※永橋為助・土肥真人「大阪市天王寺公園の管理の変遷と有料化が及ぼした野宿者排除の影響に関する研究」
(『ランドスケープ研究』59(5), 213-216, 1995)掲載図に筆者加筆。
そのすべてが、2003年の強制撤去によって一掃されてしまったのである。わずかな無料通路にぎゅっと詰め込まれた青空カラオケが、たとえば野宿生活者の公園使用とのあいだにコンフリクトがあったのは事実である。またこの当時、8軒のなかでも飛びぬけて大規模な常設小屋をもつ青空カラオケは、1曲200円・ビール400円の値段を設定するなどしてインフォーマル経済としての性格を色濃くもっていた。
これらの事実だけをみれば、強制撤去はやむを得ないことと感じられるかもしれない。だが、立ち止まって考えてほしい。当時すでに有料壁で囲まれた公園は、入場するだけで150円を支払わなくてはならなかった。さらに現在では、公園内では有料のカフェやプレイパークが花盛りである。500円以上のコーヒーを売るタリーズコーヒーと、400円のビールを売る青空カラオケのあいだに、どれほどの違いがあるというのか。しかも、筆者らのインタビューによれば青空カラオケは30年以上の歴史をもち、インフォーマルな商売としての性格を強めたのは最晩年の90年代後半のことである。だから「青空カラオケとはなんだったのか」を語るうえでは、公園の変貌と並行するかのような大規模化やインフォーマル化の過程を視野に入れながらも、その集合的実践の核心をつかむことが重要なのだ。
インタビューによれば、青空カラオケの歴史は1967年にはじまる。この初期には3軒のカラオケ屋台が公園内に機材を持ち込み、土日や休日に青空カラオケを開催していた。なかでも関係者の語りのなかで繰り返し登場する伝説の人物に、「エレクトーンの先生」と呼ばれる人がいた。彼らの記憶のなかにある「先生」は、たとえば次のようにして語られている。青空カラオケの従業員として働いていたAさんは、出身地の名古屋から出てきたあと、天王寺公園でテントを張りながら釜ヶ崎で日雇い仕事をして暮らしていたのだという。もともと歌が好きだというAさんは、ある時「噂に聞いて、天王寺上ってきたらカラオケやっとるもんで。ずーっと上ってきて」青空カラオケに出会った。
エレクトーン、ものすごくうまい人がおって、そこの階段のとこでやっとったんですよ。そこの入口。美術館の入口。あそこでやっとった。(Aさん)
また、別の青空カラオケの店主であったBさんは、「先生」との出会いを次のように語ってくれた。Bさんは20歳代で九州から大阪に出てきて、最初は釜ヶ崎の食堂でコックとして働き、その後ドヤの管理人をつとめてきた。ある日、釜ヶ崎から自転車で天王寺公園を走り抜けようとしたとき、偶然青空カラオケをやっている光景を見かけた。しかしそのときは、「最初、こんなうるさいとこ、しょうもない、なんでこれみんな歌ってるのかなあ」と思い、反発すら覚えたのだという。しかしBさんは、次のような些細なことをきっかけとして、青空カラオケにかかわるようになった。「ほんでそれから何回かとおるあいだに、ちょっと、えらい上手な人が歌ってたんや。ふっと耳、とめて聞いたわ。それから、やみつきになった」。こうして青空カラオケの輪に加わるようになったBさんは、「先生」とも知り合いになった。「おとなしい、ものすごく優しい先生でな、それでもう、〔階段の〕下で話したりしおったんや」。自由にさまざまな人々が行き交う公園で演奏される歌があり、歌に魅了されて人々の集りができる。こうした些細な出会いを積み重ねるなかで、青空カラオケの歴史は始まったのだった(図2)。



※青空カラオケ店主より提供
1980年代中ごろになると、青空カラオケの常連客やお手伝いとしてかかわっていた人がカラオケを運営する側にまわり、代替わりに伴って青空カラオケは拡大していった。上述したBさんの話に戻ろう。「先生」はBさんが知り合ってから2年ほどで亡くなってしまい、エレクトーンの伴奏による青空カラオケも幕を閉じることになってしまった。
で、その先生はもうおらんようなったから、誰もするもんおらんなったんや、後は。跡継ぐもんおらんからな、跡を継ぐもんおらんで、一人、酔っ払いの、ぽんちゃんいうけどおったんやけど、その人も、飲んでしもうて。飲んだらもう、全然仕事できん。しょうもない、もう、それじゃあもう……。(Bさん)
こうしてBさんは、みずから青空カラオケの主催者となることを決心し、カラオケの機材を、自前でぼちぼち揃えていった。
また、2003年時点で夫とともに青空カラオケを営んでいたCさんは、はじめ天王寺公園にはなんのかかわりもなかった。そんなCさんが青空カラオケにかかわるようになったのも、機械いじりが好きな夫が「エレクトーンの先生」の下で音響の手伝いをしていたからだ。そうして「先生」が亡くなったあと、Cさんと夫は、ふたりで青空カラオケを開くようになった。2003年当時のカラオケ屋台は小ぢんまりとしていて、大方の屋台が通信カラオケを導入しているなかでずっとLDを使っており、ビールや食べ物もあまり出すことがない。けれども機械好きだけあって音響にはこだわりがあり、とくにローランドのスピーカーを愛用していた。そうした機材は自分たちで買い揃えたものもあれば、お客さんから譲ってもらったものもあったのだという。それまで縁のなかった天王寺公園にかかわるようになったCさんにとって、天王寺公園はさまざまな人々との出会いの場であり、大阪の文化を知る場でもあった。
いろんな人とお知り合いになって、ああ、大阪の文化ってこんなもんかいな、人情ってこんなもんやねんな、と思い至った。それまでほら、私あんまり、そういうのに親しみなかったからな。……いろんなことがあったけど、いろんなことがあるやろ。ああ、人ってこんなもんやねんな、と。(Cさん)
このようにして1980年代に、青空カラオケは少しずつ規模を広げていった。とはいえ、当時の公園は市内でも有数の広さを持ち、もちろん無料であった。青空カラオケは、広い園内で行われるさまざまな営みと共存しながら、やがて公園の「名物」となったのである。
ところが1990年に公園は有料化され、無料の空間は園内を走る通行路のみに狭められた。まるでその動きに逆らうかのように、1990年代半ばになると、青空カラオケは一挙に拡大し、大規模化したのである。この時期に新規に青空カラオケを始める屋台が増え、最大時で9軒を数えた。また、インフォーマル商売としての要素は増大し、常設化された屋台では週6日の営業が行われるようになった。このような屋台の大規模化や経営化が撤去のリスクを高めたという批判は、2003年当時もしばしば耳にしたものである。だが、次のような事実を見落とすべきではない。ある屋台で従業員として働くDさんは、もともと土建会社に常雇いとして勤めていた。
3年ほど前やけど、ちょうど仕事がもう、落ちてきて、会社が潰れたから、それで、食わなあかんから、それで日雇いをやって。 日雇いをやっとっても、ちょっともうそんな状態やから、仕事がだんだん減ってきてるから、日雇い〔労働〕もなくなってきたから、それで〔青空カラオケの従業員として働くようになった〕 。 (D さん)
1990年代初頭には、釜ヶ崎の日雇い労働市場から急速に仕事が失われ、大量の労働者が職を失った。ドヤに泊まることができなくなった労働者のなかには、釜ヶ崎の外部の公園や路上で野宿しながらくらす者もたくさんいたのである。Eさんもまた、土建会社で常雇いとして働くことができなくなり、釜ヶ崎での日雇い労働にすら従事することができなくなった末に、自身の生活を支える就労の場として「青空カラオケ」にたどり着いたのだった。構造的不況と大量失業によって労働市場から棄て去られた人々が急増していた状況と、青空カラオケがインフォーマルな商売としての性質を強めたことは、おそらく無関係ではなかったのだ。
3.「うた」の共同体と、その敵対性
さて、青空カラオケの歴史を概観してみたが、その歴史のなかで一貫して青空カラオケは規模を拡大してきたことがわかる。うたを歌いたい、そう願う人々の存在を抜きにしては、青空カラオケの歴史がここまで連綿と続くことも、また規模を拡大することもなかっただろう。青空カラオケで歌う人々、彼らにとって「うた」にはどのような想いがこめられていたのだろうか。
青空カラオケその参加者は、それぞれの身体行為をつうじて実にさまざまな役割を担っていた。歌い手はカラオケのメロディに合わせて各々のリズムで歌を刻む。店主や従業員はカラオケの番号入力や飲食物の注文のほか、司会進行を演じることで、歌い手の刻むリズムをさらに増幅させていく。客はといえば、道端に立ったり座ったりと、それぞれの格好で奏でられるリズムに耳を傾け、談笑する。また歌い手の奏でるリズムに合わせて、独自のスタイルで舞踊を披露する――。こうした場は同じカラオケとは言っても、閉鎖的な空間のなかで行われるカラオケとは、その社交性という点で一線を画している。不特定多数の偶然の出会い。その対面のなかで即興的に演じられる上演の協働性を土台として青空カラオケは成り立っていたのであり、各人の思い思いの演技に応じてその場がもつ表情は自在に変化していく。むしろそれは、「祭り」と呼ぶのがふさわしい集合行為だったのだ。
そしてそこで歌われるひとつひとつの歌には、それぞれの歌い手の人生が重ねあわされていた。「別れの一本杉」を歌っていたFさんは、歌に込められていた自分の人生を、熱心に語りかけてくれた。
昭和32年に中学を卒業して、大阪へ出てくんのに、その、一本杉があったんですよ、そこで、ほんまに別れの一本杉いうて、お母さんと別れた……大きな杉の木あってん。……そこから「別れの一本杉」って、田舎のバスに乗って、大阪に出てきたんですよ。で、お母さんが500円もたしてくれた。大金ですよ、32年やったらね。がんばってこいよー、ちゅうて。そんで、お母さんと別れて、バス乗って、大阪〔へと〕出たんですよ。で、大阪に着いたら、弁天埠頭、大阪のね。あそこについたら、さあ、誰が迎えにきてくれるんかなあと思って、待っとったら、スクーターに乗って、スクーター。それに乗ってきて。うわあ、どこに行くんかなあと思って、ボストンバックひとつもって、そこに自分の、まあいうたら下着とかそんなん持って。で、親方に迎えにきてもろうて、そのスクーターでずうっと。さっぶい3月15日、いまでも思い出す。3月15日に、弁天埠頭に迎えにきてもろうて、さっむいときですわ。で、〔スクーターの〕後ろに乗って、もう震えもうて。ほんだら、天神橋六丁目のとこの会社に行って「ここで仕事するんやで」っていうて。(Fさん)
親方のもとでの丁稚の生活、荷物を持って窓から逃げ出していった仲間、仕事場のお得意さんに振舞ってもらったご馳走、通天閣を仕事仲間と競争して登った思い出……Fさんの話はとどまるところをしらない。Fさんだけではない。ときに「大阪すずめ」を「天王寺すずめ」に歌い替えたり、「釜ヶ崎人情」を「天王寺人情」に歌い替えたりしながら披露されるそれぞれの「持ち歌」を通して、それぞれの人生史が上演されるのだ。だからこそ、歌に対する拍手や、歌に合わせての踊りや、司会者の合いの手は、ひとつひとつの人生やその存在に対する力強い肯定であり、またときには歌を聞いて自分の人生を振り返り泣き出す人もいた。だから青空カラオケを強制的に撤去するということは、それぞれの仕方で青空カラオケに関わる人々の存在を否定し、その場所を奪い、かれらの歴史を忘れ去ることを意味したのだ。
このような歴史的な厚みをもつ青空カラオケが、「万博カラオケ」と同じであるはずもない。青空カラオケのイメージをもとに「盆踊りのアシタ」を仕掛けたというプロデューサーは、次のように語る。
15時くらいに天王寺公園へ行くと、「この人らは何者なんやろう」というおっちゃん、おばちゃんらがカラオケで楽しそうに熱唱していた。今はそんなことはできなくなった。だからこそ、ここの開放的な空間で思う存分、歌ってみて欲しい。小さい子どもさんがYOASOBIの『アイドル』とかを歌えば、大人になってもそれが思い出になる。なにより盆踊りやカラオケは、海外の方にとって新鮮な日本の文化ですから4。
青空カラオケの歴史を踏まえれば、このプロデューサーの言葉の浅はかさは指摘するまでもないだろう。万博会場につくりだされた「万博カラオケ」とは、青空カラオケの実態や歴史性を捨象し、その「見かけ」だけを切り取ったにすぎないのだ。
さらに重大なことに、万博の主催に名を連ねる吉本興業は、「大阪維新の会」の政治のもと公園の私営化・商業化を推し進めてきたという背景をもつ。大阪市内の公園のなかでパークマネジメント事業(PMO事業)の大規模な実験場とされたのは、ひとつは天王寺公園であり、もうひとつは大阪城公園であった5。大阪城公園においては、吉本興業のほか民放テレビ局や電通など13社で構成される「クールジャパンパーク大阪株式会社」に運営が託された。この企業は公園内に3つの劇場を設置したが、その最大の興行主もまた吉本興業である。このように吉本興業は、公園をテーマパークに変えようとするプロジェクトの最先端を担ってきた。忘れてはならないのは、同じテーマパーク化の趨勢こそが、90年代には天王寺公園を囲い込み、2000年代には青空カラオケを追い払ったことだ。
最後に、青空カラオケの常連であったFさんが2003年の強制撤去に際し語った言葉を記しておきたい。
昔っからこの公園いうたらね、あんたら生まれてない時分からね、ここ、こういうふうにならん天王寺公園いうたら、ものすごいね、タバコの3つ並べてな、これでお客さん相手にやったり、ああいう将棋とかな。それがね、天王寺の公園の名物やってん。そんな時分から知っとるからな。それがだんだんだんだん、こういうふうに、きれいにきれいにいうて。……ほんだら、世の中な、上流社会の人ばっかりで成り立つんか。俺やっぱ底辺の人がな、街のな、活気っちゅうのはな、おもしろいことやらつらいことやら泣きたいことやら、いっぱい抱えとるな、その、いろんな歴史のな、物語をな、やっぱりな、一生懸命やっぱりな、底辺であんた、うごめいていとる人がつくっとんのや。(Fさん)
それは、「清潔なもの」や「明るいもの」によって否定され、忘れ去られようとしている人々の怒りの声である。その怒りの声は、都市や公園をテーマパークや劇場へ変えようとする趨勢にこそ向けられていると言わねばならない。つまり青空カラオケに見いだされるものとは、万博体制に覆われた都市への敵対性である。こうした声や敵対性を拭い去り、表層だけを切り取った「万博カラオケ」は、決して青空カラオケの再現ではない。それは、文化的な詐取なのだ。
注
- 「何が楽しいん? 万博カラオケ&盆踊りに人が集う理由に迫る」Lmaga.jp, 2025年7月9日(https://www.lmaga.jp/news/2025/07/937993/) ↩︎
- 「万博会場で異彩を放つ「よしもと館」……総合Pが目指した空間とは?」Lmaga.jp, 2025年5月5日(https://www.lmaga.jp/news/2025/05/907826/) ↩︎
- 酒井隆史・原口剛「天王寺公園青空カラオケ屋台――公共空間の終焉の光景」2004年5月『世界』(726), pp.192-200, 2004; 原口剛「天王寺青空カラオケ再考」, DeMusik Inter.編『音の力〈ストリート〉占拠編』インパクト出版会、6-25, 2005.ただし、これらの論考には書ききれなかった事柄もたくさんある。刊行予定の書籍(以文社、近刊)においては、当時は書けなかったことを含めて記録を書き記すつもりである。 ↩︎
- 脚注2に同じ ↩︎
- そのほか大阪市内でPMO事業が実施されている公園は、八幡屋公園・長居公園・鶴見緑地公園である。 ↩︎
著者紹介
原口 剛(はらぐち・たけし)
神戸大学大学院人文学研究科教授、専門は都市社会地理学および都市論。著書に『叫びの都市――寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』(洛北出版)、『惑星都市理論』(共著、以文社)、『釜ヶ崎のススメ』(共著、洛北出版)など、訳書にニール・スミス『ジェントリフィケーションと報復都市――新たなる都市のフロンティア』(ミネルヴァ書房)、ロレッタ・リーズほか『ジェントリフィケーション入門』(共訳、ミネルヴァ書房、近刊)がある。