「歓待する結婚式」へ(前編)
――思想史研究者からのあたらしいウェディング・プランの提言
二井彬緒
編集部より
本稿は、2025年2月に晃洋書房より『ハンナ・アーレントと共生の〈場所〉論(トポロジー)』(第5回東京大学而立賞受賞)を上梓した二井彬緒氏による書き下ろし論考である。二井氏は、博士論文に基づく前掲書で、アーレントの初期論考を分析するなかで、そのシオニズムへの批判、連邦制の理論の構築の過程で見られるバイナショナリズム論を、〈場所〉の観点から捉え直すという、現代におけるパレスチナ/イスラエル問題においても示唆的な論点を提示する。
「想像力によって語られる希望や「ユートピア」を夢想家のいうことだ、と一蹴してしまいたくなるほど、現状は暗く、先はみえない。だが、想像力はリアリズムに立脚した知識と思考によって成り立つ。先がみえない時にこそ躓かないように、最悪のことを最善の形で回避する道を想像しなければならない。この先の和平と脱植民地化への見通しをよくし、現在地を教えてくれる政治思想を、今、語らねばならない」(前掲書、2頁)。
2023年10月7日以降、目を覆いたくなるほどに激化したこの問題に人文学はいかに向き合うべきかを問いつつ、アーレントの政治思想を、「停戦に向かうためにも、いかにこの紛争地帯で和平を打ち立てるのかという選択肢の一つであり、新しい地図である」(前傾書、2頁)と提唱する同書は、パレスチナ/イスラエル問題に対する日本の人文学がとりうるひとつの態度である。
二井彬緒『ハンナ・アーレントと共生の〈場所〉論(トポロジー) パレスチナ・ユダヤのバイナショナリズムを再考する』晃洋書房、2025年 当然ながら研究者にも日常がある。こうした人文学の態度とともに、いかに日常的にパレスチナの人々と連帯することが可能か、その具体的な諸実践が窺えるのが、ここに公開する「『歓待する結婚式』へ」(前編・後編全2回)だ。二井氏は自身とパートナーのウェディング・パーティを催す上で、ジャック・デリダの「歓待」をヒントに、参加者の複数性を保証するウェディング・プランを立てる。またそれは、自らが専門とするアーレントとパレスチナ/イスラエル問題を、自らの人生に刻み込むことで、かの地から遠くで暮らす我々に常に去来する「忘却」という問題に抗する実践を展開しようとする。それはまさに、人文学研究者として、日本で暮らす一人の人間としての、責任=応答可能性である。その動機と目的が語られる前編、実際の式の様子が語られる後編、全2編にて、ここにお届けする。
なお、本稿は2025年6月に着手、7月下旬に脱稿したものであり、小社のHP運営の諸事情により、本年年末近くでの公開となった。脱稿時の2025年7月より、本記事公開の11月現時点まで、パレスチナのガザ地区では、イスラエルによって人為的に引き起こされたと言うべき、大規模な飢餓も発生している。アメリカを介した停戦合意がなされた現在も、イスラエルによる爆撃は続いており、状況は一向に改善されていない。時間の経過とそれに伴う状況の変化で、読者からすれば内容として違和感を持つ点もあるかもしれない。だが、日本という第三国でパレスチナについて論じる筆者が、2025年前半の国内外の状況をいかに捉えていたかを記録する点でも、筆者と協議の上、内容にはほぼ手を入れずに公開することとした。(以文社編集部)
――到来者には Oui(はい)と言おうではありませんか。
あらゆる限定以前に、あらゆる先取り以前に、あらゆる同定(identification)以前に。
到来者が異邦人であろうとなかろうと、移民であろうとなかろうと、
招待客、不意の訪問者であろうとなかろうと、他国の市民であろうとなかろうと、
生者であろうと、死者であろうと、男であろうと女であろうと、Ouiと言おうではありませんか1。
――法とは主権の言葉である2。
今年の5月、晴れた日にウェディング・パーティを挙げた。わたしとパートナーの大切な人たちと、思い出に残る1日を過ごしたいと思った。しかし同時に気がかりだったのは、バックグラウンドや属性の多様であろう列席者全員に対して、十分な「歓待」を確保できるかという点だった。現状として結婚が法的に認められているのは異性愛者にのみで、同性愛者には認められていない。結婚を望んでいながら、法的にその保障が認められていない人が列席者にもしもいたとしたら、わたしは知らないからと言って、何も考えずにその人を結婚式に呼んでいいのだろうか?多様な列席者に歓待の場を開くにはどうしたらいいのか。このことからわたしは「歓待する結婚式」をできないか、考えてみた。ここに書くのはその記録である。

はじめに
結婚式をめぐっていかに女性の権利を確保し、パートナー間の平等を実現するかについての議論は近年増えてきている3。こうした議論に対して「じゃあなぜ、わざわざ結婚式を挙げるのか」という声を聞くことも少なくない。その「意見」の論理は要するに次のようなものだ。結婚ないし結婚式というもの自体、男女間の不均衡を含み込んだものであり、家父長制4をもととした異性愛規範を前提としている。それが当然なのだから、嫌なら結婚しなければいいし、婚姻届だけ出すなりして式なんか挙げなければいい。驚くべきことに、哲学をはじめとする人文系の研究者でさえ、こうしたことを口にする場面に遭遇したこともある。
本当にそうだろうか? 「式」を挙げることを単なる形式化した儀礼として見なすのであれば分からなくもない。だが現在の結婚式は、そうした形式的意味合い以上に、双方のそれぞれの家族、恩人、友人、同僚にパートナーを紹介する側面が大きくなっているのではないだろうか。結婚したことを知らず、相手がどういう人物なのかを周囲に知らせずにいたとして、例えば死に関わるような場面が訪れてしまったら、パートナーに緊急時の連絡がすぐに行かないこともあり得る。ハンナ・アーレント5は、人が複数の他者と会話などをともにすることで立ち上がる関係性を「世界」と呼んだ。だとすれば、パートナー双方の関係者という人間関係もまた「世界」であり、式を開くことはそこに現れ、参加することにもなる。
よって問題とすべきは、現状の結婚と結婚式の中にあるアンバランスをいかに解消していくのかにある。言い換えれば、婚姻をめぐる不平等を、いかに上手にトラブルとして浮上させるのかにある気がするのだ。こうした思いから、パートナーと相談し、ウェディング・パーティをひとつのプロジェクトとして考えてみようと思った。
1996年、ジャック・デリダ6は「歓待(hospitality)」をテーマとしたゼミナールを行った7。デリダが目指すのは「無条件の歓待」である。名前を聞いたり、出身地や犯罪歴を問いただしたりしない、死者や動物など、予測不可能なものを含めた他者を、一切の条件をつけず客として歓待することは可能か。「歓待する結婚式」はそんな議論から着想を得たテーマである8。「歓待する結婚式」の内容に入る前に、現状の「婚姻」をめぐる問題と、わたしの仕事(研究内容)のことを挙げておきたい。
現状の「婚姻」をめぐる問題――選択的夫婦別姓制度とカップルの序列化
まず現状の「婚姻」をめぐる問題について。簡単に分けて名字の問題と結婚できるカップルが限定されていることの2点がある。
第一に名字の問題だ。家父長制度のいまだ強い日本の社会では、現状として結婚する男女間で、女性の方が男性の家の戸籍に入り、名字を男性側のものに変えることが多い9。結婚したらどちらかが一方の名字に変えなくてはならない。この現状を問題視し、解決するために提議されているのが「選択的夫婦別姓制度」である。夫婦だからといって必ずしも名字を同じくする必要はなく、自分たちで名字を変えるか、そのままにするかを選択してください、というものだ。一部の人びとはこの議論を「すべての人が絶対に名字を変えず、そのままにする」議論だと勘違いしているようだが、実際は変えてもいいし、変えなくてもいい、という制度である。
第二に、現状の婚姻制度では、法的に家族関係が認められるのは異性愛者に限定されている点である。言い換えると同性婚が法で認められていない。
漫画『きのう何食べた?』ではこの「同性婚が法的に認められていない」という問題が繰り返し描写されている。主人公の弁護士・筧史朗(シロさん)は矢吹賢二(ケンジ)と同棲しており、二人はゲイカップルである。ある時、ケンジの友人のゲイカップルが養子縁組したいとしてシロさんに依頼をしてくる10。なぜ養子縁組か。それはパートナーシップ制度では相続面の権利が認められておらず、同性愛者の場合、パートナーに相続権を確実に渡すには現状の法律として養子縁組をするほかないためだ。だが、一度養子縁組した場合、縁組を解消したとしても婚姻ができなくなる。つまり養子縁組をしたあとで同性愛者の法律婚が認められたとしてもその後、現状の法律だと婚姻関係への変更ができなくなってしまう11。
ある政治家が「子どもを生まない人には生産性がない」と言い放ったことも記憶に新しい。本来、等しく大切で、尊重されるべき生が、差別によって序列化されて(上下を決められて)しまっている。そんな現行の法律や社会状況のもとでわたしは生きている。
もっといえば、この「生産性」という言葉の背景には「戦争」が見え隠れする。近代的な家父長制度による家族観では、外で働く男性、外では美しく家では良妻賢母の女性が、子供を産む――この子供を産んだ異性のカップルを「家族」と定義する。明治時代、日本は近代国家となるために産業化・軍事化に力を入れた。これらを下支えするために強化されたのが、近代的な家父長制度である。働き、産み育て、軍隊に入れ、植民地を広げる――今もなお、社会に残るこの家父長制度は、軍国主義的な価値観と地続きにあると言って過言ではない。
わたしにとって、選択的夫婦別姓制度の導入と同性婚の法制度化、この二つの問題に対していかなるスタンスを取るのかをはっきりさせること、それが結婚をする上で大切なプロセスだった。この二つの制度は、いずれもすべての人の個々の生き方を肯定する。他方、わたしは当事者であってもなくても、現行の制度によって構成された社会に生きている。今の結婚の一般的なあり方を受け入れてしまうことは、自分の生もまた、他者を差別することに間接的であれ繋がってしまう、と思う。パートナーとの関係性を、そうした文脈の中に置くことも、規範化された異性愛という関係性の中に閉じ込められてしまうことも、拒否したかった。「考えすぎ」と思うだろうか?周りにはなぜ早く結婚しないのか、いつまで相手を待たせるのか、子供を産む気はあるのかと聞かれたことがたくさんある。これらはわたしにとって苦痛をもたらす言葉だった。結婚に踏み切らなかったのは、わたしの大切な人たちの生を否定する制度から、そして、自分の生を無理やり「ふつう」の型(つまり規範化された異性愛や家父長制的家族の枠組み)に収めようとしてくる制度からの解放の時を、ずっと待っていたからだった。そのために自分なりにできることをして過ごしてきたのだ。
わたしの仕事と生活に関して
わたしは研究者で、普段は大学の事務仕事をしたり、学生の相談に乗ったり、いろんな大学で社会思想について教えている。なかでもずっと取り組んでいるのが、ハンナ・アーレントという思想家のパレスチナ問題に関する議論の研究である。
パレスチナといえば、2023年10月7日以来、イスラエルによる激しい攻撃を受けている場所である。すでにガザの死者数は5万8千人を超えた12。わたしがこの研究テーマに取り組み始めたのが12年前だった。この数年はこの12年の中でも最悪の状況にある。
アーレントはユダヤ系のルーツを持っていたため、1930年代から終戦まで、ナチ・ドイツによって迫害の対象とされていた。難民になり亡命を重ねながら、アーレントはユダヤ人に対する差別の撤廃を論じつづけた。同時に論じていたのが、パレスチナ地方における、パレスチナ人とユダヤ人の共生国家論(バイナショナリズム)である。わたしはこの差別をなくし、共生する場所という議論に惹かれて博士論文を書いた13。
思えばこの12年、ずっとパレスチナ/イスラエルの状況を勉強してきた。仕事としての面が強いものの、パレスチナ/イスラエルのことを考えるのは、わたしにとって生活の一部になっている、とも言えるかもしれない。
わたしは生活の上でも、仕事の上でも、反戦・反差別の立場をとっているし、自分自身がそうした存在でありたいと思っている。だからこそウェディング・パーティにもそうした想いを反映したいと思っていた。けれども、これだけ状況が酷い中でパーティをしていいのかとは悩んだ。他方、パートナーのことも等しく大切だった。葛藤の末、わたしのライフタイムに、今のパレスチナの状況を刻んでおける工夫をしたいと考えた。結婚した日のことを思い出したら、その時パレスチナがどれだけの苦境にあったのかを一緒に思い出すように。
そんなことは「ご都合主義」だと思うだろうか。だが、パートナーへの思いや、友人たちと歓びを分かち合いたいという思いと、ガザでの大量虐殺を目の当たりにして生きていること、それはどれだけ懸隔があっても、わたしにとって同時に起こっている現実なのだ。他方で、では日本には問題はないのだろうか。見えないだけ、言えないだけで、日本の中でも強固な規範によって抑圧の対象にされ、苦境に立たされている人がいる。パレスチナも日本のことも、わたしの個人的な生/性のあり方も、今、ここにいる、生きているという点で、距離も矛盾もないように時折思うのだ。いや、それもやはり、言い訳でしかないのかもしれない。それでもなお、わたしはできることはあるのだと信じたいのだ。
あまりにも酷いことが――丸腰の市民を虐殺し、飢餓に追い込んで捨て置いたり、エスニック・ルーツやトランスジェンダーという特定の属性を理由に侮蔑的な言葉を投げかけ、ヘイトの対象にする――耐え難いことが続いている。まるで以前からそうだったかのようにそんなことが「当たり前」になってはいまいか? そんなことを「当たり前」とみなす空気をいつかわたしも受け入れてしまわないように、今の社会のあり方によって引き裂かれた他者やわたしが、今ここに生きていることを、ちゃんと覚えておきたかった。

「歓待する結婚式」
さて「歓待する結婚式」をテーマに実際にどういうことをしたのか。大体4つのことを実践した。
①プランナー、司会者への説明とコミュニケーション
②グラウンド・ルールの提示と、その説明としてのウェルカム・スピーチ
③託児サービス、BGMほか14
④引き出物
今回は①について説明し、連載後編では②、④について説明する。
プランナー、司会者への説明とコミュニケーション
式場を決め、ウェディング・プランナーの担当者と打ち合わせを行う、最初か二度目の最後に、わたしは自分の政治的立場について、時間をとって説明した。自分は夫婦別姓制度と同性婚の法制度化を支持していること、その考えに沿った形で式を行うことを希望していること。具体的には次のようなことをお願いした。
・「新郎」「新婦」という(ジェンダー化された)呼称は控えてもらい、双方が対等であることを意識した催しの形式にしたいこと。
・男性を先に紹介したら、次のタイミングでは女性を先に紹介する、というようにプログラム進行の中で「順番の交換」をしてほしいこと15。
・列席者のジェンダーやセクシュアリティ、ルーツといった属性を、個人の見解で断定しないでほしいこと。見かけが「男性」だから「普通の男性」、つまりシスジェンダーかつ異性愛者であるとみなし接するようなことは避けてほしいこと。
正直にいえば、これを伝えるだけでも勇気が必要だった。「そこまでする?」など冷たいことを言われたらどうしようとずっと緊張していた。
他方で、わたしたちカップルの場合、早くから式の準備を始めていたため、担当者の方とは少なくとも一年以上のお付き合いになることが予想された。お話をするなかで、担当者の方のウェディングの仕事に対する情熱を感じる場面もたくさんあり、同性としても尊敬することが多かった。当然だが、式はカップルのみで成立するものではない。プランナー、式場運営、花屋、ドレス・和装ショップ、スタイリスト、司会者、各事務、経理担当などさまざまな業者・職域の方が関わって成立する。その中でもプランナーは業者とカップルの間でハブ役を務める存在になる。であれば、プランナーに自身の考えを正確に伝えないと、その先にいる業者にもリクエストが通らないこともあり得る。だからこそ一年をかけて、担当の方と信頼関係を築きたい、と思った。意見の相違があったとしても、まず自分のスタンスを正確に伝え、必要に応じて相談する姿勢を見せるべきだと考えた。
プランナーをはじめ式場関係の企業等でもジェンダー研修は始まっていることや、セクシュアル・マイノリティの顧客を意識した会社も増えているという報道もある16。まだまだSOGIECS17への「理解促進」も(遅すぎると言いたくもなるが)社会的に過渡期にある。だが、言いにくい、伝えにくいといった緊張感や不安を、セクシュアル・マイノリティ当事者のみに負担させてはいけない。アライ18の立場にあるからこそ、自分にはその説明責任があると思った。
プランナーはプログラム作成や各業者との連絡を調整してくれる。式当日も各業者との間を埋める役を担う。式当日の進行はプランナーが作成したプログラムをもとに、司会者が先導することになる。そのため、司会担当者との打ち合わせにおいても呼称や順番についてどうしてほしいのか、なぜこうした方針をとっているのかを説明した。伝えるまで本当に緊張したが、プランナー、司会者の方には感謝しかない。「理解してもらったから」とは言わない。双方とも信頼関係を築きたい、というわたしの願いをしっかりと受け止めてくれたからだ。
(後編に続く)
注
- ジャック・デリダ、アンヌ・デュフーリマンテル編著『歓待について――パリのゼミナールの記録』産業図書、1999年、98頁。 ↩︎
- 高秉權著、影本剛訳『黙々——聞かれなかった声とともに歩く哲学』明石書店、2023年、31頁。 ↩︎
- 例えば横田祐美子氏の記事「わたしが「男尊女卑・家父長制」を退けた「結婚式」を挙げた理由」(現代ビジネス、2019年。https://gendai.media/articles/-/69042, 2025/07/01確認)はその代表例だろう。横田氏はデリダの議論を援用して結婚式における「輪番制」――結婚するカップルの立ち位置(上座・下座)の入れ替えやスピーチ・挨拶の回数を同数に保ち、順番を交代する――を提案している。また磯部理美氏は列席者による寄稿も交えつつ、結婚の決意をしたことや入籍、名字変更までのパートナーとのやり取りなどを記録した冊子『わたしたちの結婚』を作成し、自身の式で配布したという。こうした記事や冊子は、結婚式をいかに家父長制の磁場にさせないようにするかとても参考になる。 ↩︎
- 家長となる男性、またその男性による「イエ(家)」の存在を特権化する制度のこと。女性はその中で支配される側になる。 ↩︎
- ハンナ・アーレント(1906-1975年)、ドイツ出身のユダヤ系の思想家。アメリカに亡命し、『全体主義の起原』『人間の条件』などを著した。 ↩︎
- ジャック・デリダ(1930-2004年)、アルジェリア生まれのユダヤ系の思想家。フランスで活躍し、『エクリチュールと差異』などを著した。 ↩︎
- 同年、「サン・パピエ」と呼ばれるパスポートを持たないアフリカ系移民たちが、パリ18区のサン・ベルナール教会を占拠し、滞在許可証を求めてハンガーストライキ・デモを行ったことを背景とした、移民の歓待を考える講義である。 ↩︎
- ウェディング・パーティは招待客を事前に決めて招くため、出だしから「無条件」ではないではないか、と思われるかもしれない。たしかにそうで、本当の「無条件」だったらまずまったく知り合いではない他人も迎え入れなければならないところである。だが会場のキャパシティもあるし、ウェディング・パーティの目的(結婚する二人の「世界」にお互い現れること)から逸れてしまう。この点でパーティを主催するふたりの知り合いを歓待するという条件が最初につくことになる。 ↩︎
- わかりやすい例として、ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』では主人公の女性・とわ子が3回結婚し3回とも離婚しており、その度に名字を変えていた。ドラマ初回冒頭でとわ子は知人のウェディング・パーティに参加し、周囲に3つの名字で呼ばれることで離婚歴がバレてしまい、友人代表としてスピーチするはずが式主催者親族からドタキャンを食らう。あとのエピソードでもとわ子は「離婚は男には勲章、女には傷だ」と言い捨てられる。 ↩︎
- よしながふみ『きのう何食べた?』第4巻、講談社、2010年。 ↩︎
- ケンジはこの点が気がかりであり、また「シロさんと親子になりたいわけではない」として断りつづける。シロさんが人生の越し方を考えてケンジに相続権が確保されるようにしたい、と言っても、その気持ちを汲みながらケンジは現状の法律で養子縁組することを拒否するのである。フィクションであるものの、同性愛者に対する政治的不平等をリアルかつ克明に描いている。連載期間と同じ時間経過で描かれており、作中でふたりは同棲17年目に入っているが、17年前から性的マイノリティを取り巻く社会状況が驚くほどまったく良くなっていないことも描写されている。 ↩︎
- 2025年7月16日のOCHA統計による(https://www.ochaopt.org/content/reported-impact-snapshot-gaza-strip-16-july-2025, 2025/07/20確認)。本記事の公開が決まった、11月の時点では、6万9185名の死者が報告された。7月から11月までガザはイスラエル国家によって人工的に起こされた飢餓に晒され、停戦がなされてもやはり形ばかりで爆撃を受け、3〜4ヶ月の間で約1万人の死者が出たことになる。これが21世紀に起きているということを、再度強調しておきたい。 ↩︎
- 博論は次の書籍にまとめ、出版している。拙著『ハンナ・アーレントと共生の〈場所〉論――パレスチナ・ユダヤのバイナショナリズムを再考する』晃洋書房、2025年。 ↩︎
- パーティには出張の託児サービスをつけ、希望者には利用できるように準備した。会場自体が小さかったため、シッタールームから宴会場をいつでも往復できる形にできたのだが、結果として当日、託児サービスは稼働しなかった。また、家族にBGMの候補を出してもらい、その中から国籍、ジェンダー、肌の色がなるべく混在するようにプレイリストを組んだ。残念ながら、わたし自身アジアのミュージックシーンの知識に乏しく、台湾、中国、韓国等の音楽を入れることができなかったことが悔やまれる。 ↩︎
- これは前編の注3で示した横田祐美子氏の方法を踏襲した。 ↩︎
- 「嫁、主人、家はいま1 ――結婚式まで」『朝日新聞』2021年9月5日。また、赤坂プリンスクラシックハウスなど、セクシュアル・マイノリティの結婚式の実施経験が実際にすでにある会場も増えている。 ↩︎
- 個々人の、性的指向(Sexual orientation、好きになる相手の性別)、性自認・性同一性(Gender identity、性別に対する自己認識)、性別表現(Gender expression)、身体の性の特徴(Sex characteristic)の頭文字をとった言葉。 ↩︎
- セクシュアル・マイノリティ当事者ではないものの、当事者の生きづらさにかかわる社会問題の解消をめざす人びとを指す言葉。守如子・前川直哉編『基礎ゼミ ジェンダースタディーズ』世界思想社、2025年参照。 ↩︎
著者紹介
二井彬緒(ふたい・あきを)
東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム助教。
