【連載】反−万博論  対抗の地図を描き出すために 

  第1回「イベント中毒都市・大阪——原点としての1980~90年代(後編:「公園と壁——天王寺公園クロニクル」)

  原口剛

 


 

1.万博体制下の都市と公共空間

 メガイベントの開催都市でこれまで繰り返されたのと同じように1、2025年関西・大阪万博は、都心での排除や弾圧を引き起こしている。梅田のホテル街・太融寺町にある小道では、「客待ち」をするセックスワーカーが立ち退きの標的とされた。2024年12月に曽根崎署は、警察庁科学警察研究所と連携して、小道のうち約100メートルをどぎつい黄色のカラーで塗り固めた。そのねらいは「路面を目立たせると立ちづらく感じる心理を利用」して「自発的に」立ち退かせることだった2。万博開催の直前のタイミングで、セックスワーカーの路上からの追い出しが、「社会実験」と称して繰り広げられたのだ。

 ミナミの繁華街では、「グリ下」と呼ばれる戎橋ちかくの川沿いの一角に若者がたまり場をつくっていた。ある者は家での虐待ゆえに、ある者は学校でのいじめゆえに行き場を失い、居場所を求めて寄り集まっていたのだという。ところが大阪市は突然、約1600万円を投じて長さ16.5メートルの「塀」をつくり、若者たちが集まれないよう環境を改変させた。「塀」を設置した理由について横山大阪市長は、次のように説明する。「シンボルとなるような場所を作らない。行かなくていい人まで、寄せ付けてしまうリスクがある。分かっていながら放置することは自治体の責務とは言えない」。けれども若者たちにとって排除の意図は明らかだった。「僕たちのことを排除しようとする意図が丸見えで、政府のやり方が汚いから心底キモちわるい」「壁を作ったところで、寝る場所もない、食べ物もない。帰れない状況が変わらない限り、場所や形をかえて、グリ下みたいなところは残り続けると思う」3。若者たちは、人目につかない離れた場所へと追い散らされていった。 

 「キタ」と「ミナミ」において環境操作による間接的な排除4が遂行されたのに対し、別の場所では立ち退きの暴力はより露骨だった。釜ヶ崎の最寄り駅であるJR環状線・新今宮駅の北側にはもともと市有の空き地が広がっていたが、大阪市はこの土地を星野リゾートへと売り払い、2022年にはリゾートホテル「OMO7大阪」が開業した。万博開催を目前に控えた23年秋ごろからその外観には、夜間になると万博宣伝のプロジェクションマッピングが映し出されるようになった(図1)。24年12月1日、このような万博宣伝が映し出される目の前で、釜ヶ崎のあいりん総合センターのまわりに暮らしていた野宿者たちは、暴力的に立ち退かされたのである。

図1 リゾートホテル「OMO7大阪」に映し出された万博宣伝 (筆者撮影、2025年)

 前編でみたように、1980年代に始動した——そして現在も受け継がれている——イベント・オリエンテッド・ポリシーの狙いは、イメージ工学の技術を駆使して都市全体を博覧会場へと塗り替えることであった。40年後の現在、万博というナショナルイベントの力を借りて、その目論見が再現されているかのようだ。万博による排除が都市を覆いつくそうとしているいま、私たちは80年代の原点に立ち返り、その当時に引き起こされた排除や差別をあらためて問う必要があるだろう。たとえば、1983年にミナミの路上で起こった事件を振り返ってみよう。この年に大阪府警南署は、ミナミの盛り場で生活する野宿者に対する取締りによるハラスメントを実施した。この事件を報じた新聞記事によると、同署の警官は「浮浪者リスト」作成を名目に、野宿者の指紋を取り、氏名や生年月日やナンバーなどを書いた紙を持たせ、上半身の写真を撮影してまわったのだという。このようなハラスメントが実施された背景について、記事は次のように報じている。

 しかし、一方で〔南署の副所長の言葉では〕「地元から、浮浪者ママが多い、と苦情があったため」ともいう。とくに今年は、十月の大阪城築城四百年まつりのオープニングパレードが南区内の御堂筋を中心に行われるため、同署は町のクリーン作戦を強化。浮浪者ママのリスト作成を、駐車違反車両、キャバレーなどの悪質客引きなどの取り締まりと同様、重点事項と位置づけ、「美観と治安維持のため、浮浪者ママの実態把握は不可欠」といっている。(『朝日新聞』大阪市内版、1983年5月12日)

この記事が示すように、イベント・オリエンテッド・ポリシーは始動されるや否や、「美観と治安」の名のもとに都心でのハラスメントと排除を引き起こしたわけだ。

 不穏なことに、この1983年の事件を思い起こさせるような状況が、いま目の前に広がっている。この文章を書いている最中に、星野リゾートがたつ浪速区周辺のコインランドリーに、「浮浪者出禁」というあからさまな差別を記したのぼりを掲げていたことが明らかになった。「浮浪者」という、とうに使われなくなったはずの言葉が、よみがえってしまったのである。このような事態がなぜ引き起こされたのかは、現時点では分からない。だが、かつて「浮浪者」という言葉やその言葉がもつ差別意識を背景に、野宿者への襲撃や警察によるハラスメントが繰り返された事実を、思い出さないわけにはいかないのだ。

 天王寺博覧会と公園有料化への問い

 さらに強調すべきは、83年の野宿者に対する警察暴力は、その後につづく都市空間の「浄化」戦略のはじまりであったことである。前編で論じたように、イベント・オリエンテッド・ポリシーを具体化させた「大阪21世紀計画」は、長期間にわたりイベントを開催しつづけることを主旨としていた。都市をテーマパーク化しようとするこの戦略は、都市の主人公を「消費者」とみなすと同時に、その場にふさわしくない存在や「望まれざる者」の排除を激化させた。なかでも排除と差別をもっとも深く刻み込んだイベントとして挙げられるのが、87年に開催された天王寺博覧会である。

 大阪市内でも有数の面積を誇り、多様な人々によってゆるやかに共有されていた天王寺公園は、1990年にその全面が有料化されたという経緯をもつ。釜ヶ崎ちかくの阿倍野区旭町に暮らしたアナキスト・向井孝は、〈無名の人びと〉と題する連載のなかで、1960~70年ごろの「天王寺公園記憶図」(図2)を描きつつ、かつて自身が政治的実践を繰り広げた公園の経験と、公園とともに在る運動史の光景の拡がりを書き綴った。有料化が公園をどれほど劇的に変容させたのかを、以下に引用する向井孝の文章はありありと伝えている。

図2 「天王寺公園記憶図」 出典:向井孝「木本凡人の〈立場〉——岡部よし子と共に」『黒 La Nigreco』6号、 2001,、37頁より引用。

天王寺駅前の、巾百メートルはある大十字路を西北側へ渡ると、そこがもう天王寺公園の入口である。/もう十年ほどまえに「ナントカ博」の会場になり、その跡が立入り禁止となって、いまは通り抜けの脇道がついているだけだが、ぽくの記憶の中の公園は、中央の噴水池と花壇をかこんで大芝生がぱあっと明るく遠くまでひろがり、日曜祭日は、家族連れが数十組いや百組ちかくがあちこちにすわり込んで弁当をひらき、そのまわりで子供らが飛びまわっていた。ぽくらはガラス窓から内部がよくみえる、左側道路の大植物園前あたりで、ビラを配って歌をうたったり、反戦露天市といってパンフやバッチ、ステッカーを路傍にならベて売りながら、街頭ゲリラ劇などをたまにやったりしたもんだった。(向井 2001: 38)

記憶を頼りに失われてしまった公園の姿を再構成しようとする向井は、他方で公園の現在について、次のように告発している。

 ぼくにとっての現在の天王寺公園は、××博開催当時みんなと反対して、ビラをまいたりデモったりしたこと以来入園したことなく、その後の様変わりを人伝てに聞くのみで、殆ど知る所がない。がいまは通路のほとんどが立入り禁止で閉鎖され、園内に入るには有料とのことである。木本の闘いによって自由自在に通行し利用できるようになった天王寺公園5が、今や木々が伐採され、土がコンクリになって、その利用や通行も住友別荘時代に立ち戻ったという以上に、もっと悪くなった。そのことをぽくらはいまどんな立場で語りえようか。(同上: 42)

 向井が「ナントカ博」「××博」(きっと口にしたくもないのだろう)と表記する博覧会こそまさに、1987年に開催された天王寺博覧会であった。83年の「大阪築城400年まつり」と90年に鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会」の中間イベントとして開催されたこの博覧会は、天王寺公園を会場として87年8月1日から11月8日までの期間に開催され、約247人を集客した。この博覧会が掲げたテーマが「いのちいきいき」であったことは銘記しておくべきだろう。というのも、2025年万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」は、87年の天王寺博のテーマを再現しているかのようである。

 ともあれ上記の文章で向井が告発するのは、博覧会によって公園そのものが別物へとつくりかえられてしまった事実である。天王寺博が閉幕したのちも公園は侵入禁止の壁でおおわれつづけ、公園を全面的に改造する工事が実施された。90年になってやっと天王寺公園は再オープンしたのだが、このとき天王寺公園のほぼ全面は高いフェンスで囲われ、150円を支払わなければ立ち入ることのできない有料公園へとつくりかえられていた。いったいなぜ、公園は囲い込まれなければならなかったのか。

 向井が憤りをもって告発する公園有料化の経緯のなかに、私たちは、イベント・オリエンテッド・ポリシーがもつ排除の論理をありありとみてとることができるだろう。また、当時は国内で最初の試みであった公園有料化は、いま全国の公共空間に押し寄せる私営化の波の端緒となる経験でもあった。したがって、なぜ公園が囲い込まれたのかを探ることは、「にぎわい」が常套句となってしまった公園のありようを問い直す契機ともなろう。

2.公園を囲い込む——1980~90年代の天王寺博覧会と公園有料化

 最初の兆候——八〇年代初頭の天王寺動物園

 第5回内国勧業博会場の跡地として開発され、1909年に開園した天王寺公園は、美術館や動物園などの有料施設をのぞき、もともと無料の都市公園であった。かつて園内に存在した天王寺音楽堂は、81年に閉鎖されるまでのあいだ、野外コンサート「春一番」の舞台となるなど日本の音楽史にその名を刻んできた。また公会堂では、米騒動の起点となった米価調整大阪市民大会や日本労働組合総連合結成大会が開催されるなど、労働運動や社会運動の歴史的拠点であり続けた。公会堂の記憶をたどりつつ向井はいう。「それは老朽化して1936年、取り壊され、いまはもう跡型もない。しかしぼくには、何気なく通り過ぎようとして、ふと、その空白さゆえに尚更、場内からあがる人々のどよめきや叫び声がきこえてきたりするのである」(向井2001: 39)。公会堂や音楽堂が失われたあとも、その民衆的伝統は公園に生きつづけた。釜ヶ崎に隣接するこの公園では、日雇い労働者が憩う姿や、職を失った野宿者が生活する姿は日常的な光景だった。その光景はまさに、公園の民衆的伝統を体現するものだったといえよう。

 だが、このような民衆的伝統は、1980~90年代の公園改造によって存続の危機に直面した。その最初の兆候が現れたのは、80年代初頭の天王寺動物園だった。動物園は1974年以降の入園者数の減少に悩まされていた。ただしこの時期の動物園の地位低下は、レジャーの多様化に伴う全国共通の問題である。にもかかわらず天王寺動物園においては「日雇い労務者ママスタイルの人々や酔っ払いの多いような場所の真ん中に動物園があること自体に入園者数の減少する根本原因がある」とされ、「大阪でも特にイメージのよくない場所に動物園がある以上、市民の足を動物園に向けさせるには非常な努力が必要だと思われる」と提言された(祐源・島本 1982: 257-276)。強調すべきは、このように入園者減の根本原因を場所イメージの問題へとすり替える言説のなかで、「明るく清潔な街」というフレーズが浮上したことである。

動物園の周辺は、まずなによりも明るく清潔な街でなければならない。……あの薄暗くてジメジメした感じをなくすため、壁を塗りかえて動物のイラストを入れたり、照明を増やして明るくしたりするべきである。そして悪質露店業者等を移転させ、通行に支障がないようにしなければならない(祐源・島本 1982: 276)

 「明るく清潔な」空間の全域化——天王寺博覧会と公園有料化

 こうして新たに現われた「明るく」「清潔な」空間への志向は、すさまじい求心力を発揮し、すぐさま公園全体へと押し広げられていった。その推進力となったのが、1987年に開催された天王寺博覧会である。イベント・オリエンテッド・ポリシーの原理に則り開催されたこのイベントは、都市全域を博覧会場に見立て関西国際空港をエントランスとして捉える地理的想像力のもとで計画された。つまりこの博覧会の目的とは、「大阪の南玄関」としての天王寺のイメージを向上させ、かつ周辺地域を「活性化」させることだったのである。そればかりでなく、博覧会の開催には天王寺公園の再整備計画が織り込まれ、博覧会が閉幕したのちも公園は閉鎖されつづけた。そして1990年2月にリニューアルオープンした際、利用者は驚愕の光景を目にすることになった。かつて公園は土と緑で覆われていたはずが、4,100本の樹木が代採または移植され、人工の滝や小川が流れるコンクリート敷の空間へと様変わりしていた。なにより驚くべきことに、長年のあいだ無料だった公園の全体が有料化され、高さ3メートルの柵が張り巡らされてしまっていたのだ(図3)。

図3 公園を囲う有料柵 (筆者撮影、2003年)

 こうして天王寺公園は、動物園と同じように「明るく清潔な」空間になったわけだが、公園は動物園とちがってそもそも無料空間だったはずである。無料の公園を有料化するという前代未聞の公園改造は、なぜ正当化されたのか。その背景をさぐると、「明るく清潔な」空間を求める言説の力が増大していくさまをみてとることができる。以下は、大阪市会における天王寺公園有料化をめぐる発言である。

天王寺公園には不定住者が住みつき、そのためイメージが暗く、市民が寄りつきにくい状態にあるということであります。一方デンマークのチボリ公園などでは入場料を取って一日じゅう家族連れで楽しませる公園となっています。これらを参考にして、天王寺公園も各種施設を有機的に再配置し、イベントもできるリフレッシュな公園に改造することが、ぜひとも必要であると考えます6

私は、天王寺公園が数少い都心の公園でもあり、今回の博覧会を足がかりとして、大人も子供も楽しくくつろげる、明るい公園として変身し、大阪の名所にふさわしい公園になってほしいと願っております。この公園の将来像としては、いろいろのものが浮かびますが、世界中のいろいろな公園のよい点をどんどん見習ってほしいと思うのであります。たとえば、清潔でちり一つないという点では、私も見学いたしまして非常に感銘を受けたのでございますが、ディズニーランド。アメリカのディズニーランドも東京のディズニーランドもそうでございますが、こういったものがいいお手本になるのではないかと思います7

「明るく清潔な」空間を求める点は80年代初頭の動物園をめぐる言説と同じだが、ただしこの段階では、目指すべき空間のモデルがはっきり認識されていることが注目されよう。ひとつは、デンマークのコペンハーゲンにある遊園地・チボリパーク。そしてもうひとつは、83年に千葉に開業した東京ディズニーランドである。ちなみにウォルト・ディズニーは自身のテーマパークを構想するにあたってチボリパークを参照したのであり、いずれもテーマパーク的空間であることに変わりはない。これらのテーマパークを目指すべき公園の理想として掲げることは、公園を物理的に変容させるだけでなく、「公園」の定義そのものを塗り替えることをも意味した。つまり、「誰もが自由にアクセスできる」という公平性の原則はかなぐり捨てられ、「公園」は経済的ポテンシャルによって定義される空間へと書き換えられたのである8

 都市と公園ネットワーク編『大阪発——公園SOS 私たちのコモンセンス』は、「天王寺公園には、現在の公園政策ひいては都市政策の矛盾や住民側の問題点が集中して現れているように思われる」とし、次のような重大な論点を提示している。

行政や民間資本側は、再開発を要する都心部に存在するオープンスペースとしての公園の潜在的経済価値に着目している。そして、まずはイベントという集客装置を設置して、公園を商業空間に転換し、そこで再確立した管理権をそのまま継承して、より大きな開発につないでいこうとしている。(都市と公園ネットワーク1994: 13)

ここで述べられているようにイベント・オリエンテッド・ポリシーの狙いとは、公園を商業化・私営化し、そのような公園開発を起爆剤として「より大きな開発」を実現させることであった。まさに「居住権および立ち退きに関するセンター」(COHRE)の報告書が指摘するように、メガイベントとは都市開発を推進させるための装置なのである(注1を参照)。しかもこのような都市政策の状況は、大阪に限ったことではなかった。日本における新自由主義の嚆矢である中曽根政権は、82年の政権発足の翌年に「アーバンルネッサンス計画」を始動させ、「民活」のスローガンのもと都心部への資本投下を活性化させようとした。

 重要なのは、ジェントリフィケーション政策の端緒というべきこの計画において、資本投下の主たる標的とされたのは——相対的に借地・借家権の強い住宅市場よりむしろ——放置された産業用地や国鉄用地などの国公有地、そして公園だったことである9。堺屋太一が主導したイベント・オリエンテッド・ポリシーは、このような国家レベルでの「アーバンルネッサンス」の狙いをいちはやく実現するプロジェクトだったわけだ。こうして天王寺公園は、博覧会という装置によって公園の経済的価値を採取するという実践の、最初の実験場とされたのである。そのような企みを、公園有料化のメリットを説く下記の言説はまざまざと示している。

〔天王寺公園の〕有料化になりますと、何といいましても、まず施設の内容を十分に吟味し、豊かなものにする必要がございます。そういたしますと、安心して楽しく利用していただきますために、非常にたくさんの方々が来ていただける、そうしますと、今度は非常に多くの物が売れるということで、経済的な効果もございます。また、それが出ますと、管理する費用等も十分出てまいりましてますますよくなってくる、さらにそれが周辺へ影響いたしまして、非常に周辺との波及効果と申しますか、相互に影響し合ってますますよくなってくるんではないかというふうなことも考えられますので、そういうこともいろいろ勉強してまいりたいと思います10

あらためて強調しなければならないのは、ここで述べられる「経済的な効果」なり「周辺との波及効果」なりの実現が、イメージを妨げるとみなされた者に対する排除を伴っていたことである。こうして公園の有料化は正当化され、青木雄二の短編漫画「悲しき友情」が告発するように(図4)、長いあいだ公園を使用してきた労働者や野宿者は有料柵の向こう側へと追い払われたのである11

図4 青木雄二「悲しき友情」が告発する有料化された公園の現実 出典:青木雄二「悲しき友情」『さすらい——青木雄二傑作集』マガジンハウス、1997、175頁より引用。

 ところで1990年の公園有料化が帰結したのは、皮肉としかいいようのない景観だった。有料化によって公園は、思惑どおり「清潔できれいな」空間になった。けれども「清潔でちり一つない」空間を追い求めた果てに150円の入場料を課し、コンクリートで塗り固められた公園はむしろ人びとを遠ざけ、有料公園の内部は人影もまばらな「空っぽ」の廃墟空間と化したのだ(図3を参照)。これ対して、公園内にかろうじて残された無料の空間——そのほとんどは公園内を通過する「通路」として設置されたものだ——には、有料空間内とはまったく対照的な空間が出現した。天王寺駅に面した公園入口では、将棋を指す一群があった。別のところでは、テーブルを囲み椅子を並べて談笑する一群があった。公園内の真ん中を走る通行路では、青空カラオケのどでかい音量が鳴り響き、歌い手のまわりには数々の人々が取り囲み、ある人は踊り、ある人は聞き入り、ある人は拍手を送っていた。公園の外周を取り巻く道筋や、新世界と公園とをつなぐ橋の上には、青色のテントが並び、野宿をしながら生活している人が少なからずいた。つまり民衆的な「公園」の伝統は、決して消え去ったわけではなかった。その伝統は、有料公園内のあいだを縫うようにして走る無料の通行路に息づいていた。それどころか雑多な営みが狭いスペースに詰め込まれることで民衆文化はいっそうの強度を放ち、公園有料化に抗うかのような活気を生みだしたのである。

3.「みえる壁」と「みえない壁」——2010年代の公園再改造をめぐって

2010年代の公園改造

 酒井隆史は、有料化された天王寺公園の空疎さを「ヴァーチャル化/ヴァーチャリズム」の概念で捉え、次のように論じた12。一方でヴァーチャル化された公園は、「公共空間のイメージ」を抽象的にただ「イメージ」として提供することのみによって、いまだに「公園」と呼ばれることができる。しかし人間そのものを消し去り廃墟と化した公園の姿は、「公園イメージ」の空虚さをひたすら際立たせることだろう。まして天王寺公園の場合は、廃墟化した有料空間の内外で、雑多な営みが公園の民衆的伝統を演じつづけているのである。けれども

その「ヴァーチャリズム」は、たんなる失敗に終わってはいない。おそらくは膨大な赤字を抱えていると推測される天王寺公園だが、その「失敗」が、モデルの根本的な問題性を捉えかえすきっかけになるとは考えにくい。そのオートマティズムは、不断に「囲い込み」のなかでヴァーチャルな「公共性」を再定義すること、「公共性」を「私有化」することを達成しているともいえるだろう。(酒井 2006: 120, 強調は引用者)

いま振り返れば、このような酒井の展望の的確さを認めないわけにはいかない。大阪維新の会が市政を握った2010年代に天王寺公園は再度の改造が遂行され、2014年にエントランスエリアは「てんしば」という名称でリニューアルオープンされた。このとき、20年以上にわたり公園を囲い続けた柵は取り払われ、公園は無料化された。だが、このリニューアルによってかつての公園が取り戻されたわけではない。公園の主要部分である「てんしば」は、その管理運営が近畿日本鉄道(近鉄不動産)に任され、有料の(しかもかなり高額な)ドッグランやプレイパーク、レストランやカフェが建ち並ぶ空間となった。要するに公園は、ショッピングモールとなんらかわらない空間へと変容したのである。有料柵という目に見える「壁」はたしかに取り払われたが、しかしそこに立ち現れたのは、目に見えない「壁」だった。ショッピングモール化された公園のなかで野宿者のような存在は、「場違いな者」としてくくり出され、消費者からの冷たいまなざしを浴びる。物理的な柵がなくとも、雰囲気の力によって、かれらはその場から立ち去るよう仕向けられるのである。

 酒井が指摘したように、90年の公園有料化のいかにも行政的な「失敗」は、結局のところより徹底した公園の私営化を駆動させるための燃料とされてしまった。2021年の衆議院選挙において大阪維新の会が動員した天王寺公園のイメージは、その最たる事例である。投票日前日に投稿された大阪維新の会のツイートは、「てんしば」以前と以後の公園イメージを並べ、次のような言葉を連ねた(図5)。

図5 大阪維新の会による公園イメージの宣伝 出典:「大阪維新の会」(@oneosaka)ツイート、2021年10月30日。

覚えていますか?? 10年前の天王寺エリア…/中々人が近寄らない場所だった。/民間活用で改革を進め、今は綺麗な芝生が生い茂り、休日には子どもや家族の笑顔あふれる場所に。

この宣伝には、いくつもの政治的意図が織り込まれている。まず指摘しなければならないのは、この宣伝文句が端的に(そしておそらくは意図的に)事実を誤認していることである。「BEFORE」に描かれた青空カラオケは2003年に強制撤去され、同じ時期に小屋かけの野宿のテントも公園内から一掃された。「10年前」、つまり2010年代には、これらの景観はすでに存在しなかったのだ。また、青空カラオケや野宿の小屋が建ち並ぶ公園が廃墟のようなグレーの薄暗さで描かれている点も、明らかに意図的なイメージの歪曲である。上述したように、これらの通路空間にこそ公園の民衆的伝統は息づき、雑多な活気に溢れかえっていたのだから。そしてもっとも重要なことに、このイメージをもって大阪維新の会は、青空カラオケや野宿者を立ち退かせたことで「子どもや家族の笑顔」を取り戻したとの物語を構築し、まるで「解放者」であるかのように自己を演出する。だが、天王寺公園が「中々人が近寄らない場所」になったのは、「きれいで清潔な」空間を求めたことの帰結にほかならない。冒頭で引用した向井孝の「天王寺公園記憶図」が物語っていたように、有料化以前の公園はさまざまな人々によってゆるやかに共有されていた。そのような状況ゆえの接触があり、出会いがあった。たとえば、90年3月18日に『朝日新聞』に掲載された「思い出の公園にフェンスが」と題するエッセイを引用してみよう。

大阪の高校生だったころ、隣のクラスの女子と一緒に帰る途中で「天王寺公園行かへん?」と誘われた。初めて行った公園は、殺風景でサエない印象だったが、一緒にいるのが、憎からず思っている相手。さらに夕暮れ時。ムードがなんだか盛り上がろうとした時、突然、目の前にニュッと、汚れた手のひらがつき出された。/目を上げた。みすぼらしい身なりの男が、ペコペコ頭を下げている。何が起こったのか分からず息をのんでいると、彼女が、「おっちゃん、あかん、あかん。わたしら高校生やで。お金ないねん」みたいなことを言った。「おっちゃん」は素直に隣に移り、同じ動作を繰り返しながら遠ざかった。「あの人ら、一時間に一回くらい回って来るんや」。学校をサボりたくなった時はよくここで時間を過ごすから知っている、という彼女が、一段と大人びて見えた13

ステレオタイプ化された野宿者イメージは、ただちに首肯できるものではない。ただ、このような接触や出会いの可能性が、現在の公園にどれだけ残されているというのか。維新の会のイメージ戦略の最大の問題は、このような原体験的な「公園の感覚」を粉々に破壊してしまったことである。かれらの歪曲化された公園イメージが伝えるのは、親子連れと野宿者とが公園を共有する可能性などあるはずがないという思い込みであり、野宿者のような存在が公園にあってはならないという敵意に満ちたメッセージである。こうして野宿者は、まるで「公園に敵対する者」であるかのようにみなされてしまうのだ。

 「雰囲気化された」ジュリアーニ

 すでに確認したように、80~90年代の公園改造の背後にあったのは、公園に「潜在的経済価値」を見いだし、そのポテンシャルを発揮させようとする動機だった。2010年代の公園の私営化もまた同じ動機に衝き動かされ、しかもその戦略はいっそう過激で敵対的なものと化している。なかでも重要なのは、2010年代の公園再改造が、明確なジェントリフィケーション戦略のもと展開したことである。

 2010年代に天王寺公園の再改造のモデルとされたのは、ニューヨーク市のブライアント公園であった(蕭 2020)。この事実は、きわめて示唆的だ。ブライアント公園は「活性化」の成功モデルとしてひろく知られるが、その物語のはじまりは天王寺公園改造と同じ1980年代初頭であった。この当時から「ビジネス改善地区(BID)」のモデルに従い、大企業の主導で浄化と美化が進められたブライアント公園は、88年から92年の大規模改修——このかん公園は閉鎖された——を経て「都市再生」を象徴する空間へと駆けのぼった。公園内の通路には小石が敷き詰められ、中心には設えられた芝生では午後になるとパフォーマーがエンターテイメントを提供する。一方では警察官と警備員が絶えず「招かれざる客」の侵入を監視している。ミドルクラスの楽園へと「浄化」された公園は、夏場の午後になると近隣の大企業で働く主として白人の男性や女性がランチを取る姿で溢れかえる。いまや公園ではランチとカプチーノが文化となり、最終的に民間の高級レストランを設置し、その賃料を公園維持費に充てることが構想されるに至る。セキュリティシステムによって入念に境界を画され、その費用を捻出するためにさらに収益をあげようとする空間。結果としてブライアント公園に生み出されたのは、ディズニーワールドと程度の差ほどの違いしかない、「視覚的消費の対象としての公共空間」(Zukin 1995: 28)であった14

 ただし、このようなブライアント公園の経緯が世界的に参照される「モデル」へと駆けのぼった過程には、もうひとつ重要な契機が介在していた。すなわち、1994年にニューヨーク市長の座に就いた、ルドルフ・ジュリアーニの市政である。ニール・スミスによれば、ジュリアーニ政権によってジェントリフィケーションは「グローバルな都市戦略」へと押し上げられたのだという(Smith 2002)。ジュリアーニは就任直後に「BIDは都市の真のサクセスストーリーのひとつだ」と礼賛し(Zukin 1995: 34)、投資を呼び込み不動産価値を高めるべく公共空間の私営化をさらに推し進めた。他方で彼は、警察権力を増強させ、都市の貧民やマイノリティに対する敵意に満ちた取締りとハラスメントのキャンペーンを繰り広げたのだった。すなわちジュリアーニは、市全域で物乞い行為を禁止すると同時に、ホームレスの人びとを脅迫的な存在として描き出し「彼らに金を与えるべからず」と記したポスターを地下鉄に張り出した。そうしてホームレスの人びとを「犯罪視」し、かれらへの支援を削減しつつ警察による徹底した取締りの対象とした。その結果としてニューヨークの路上や公共空間では、警察による嫌がらせや虐待や蛮行の被害が急増したのだった15(スミス 2014: 375-381)。このような都市美化と貧民への弾圧を組み合わせたジュリアーニの政策は、社会・空間的不公正を劇的に増大させたにもかかわらず、ジェントリフィケーションを促進するための有益な手法として脚光を浴び、「都市再生」という言葉に置き換えられ世界の各都市へと移植されていったのである。

 大阪もその例外ではない。ジュリアーニを参照した最初の大阪市長は、90年代後半に国際集客都市構想を掲げた磯村隆文であった16。だが、ジュリアーニの政策に誰よりのめりこんだのは、2010年代の市長・橋下徹であり、大阪維新の会である。

僕はニューヨーク市の立て直しに尽力したジュリアーニ元ニューヨーク市長の「割れ窓理論」を支持している。……ニューヨークなんてジュリアーニ氏が立て直しをやる前は、殺人都市と言われていたからね……夜はもちろん、昼でもちょっとした裏路地は歩けないというのがその当時のニューヨークだった。/こんな状況で、凶悪犯罪を徹底的に取り締まる!というスローガンを叫ぶだけでは街は何も変わらない。もちろんそれも重要だけど、街全体の「雰囲気」から変えていかなければならない。そのスタートはゴミのポイ捨てと落書きを徹底してなくすこと。/現在のニューヨークは、以前に比べれば隔世の感があるほど、安全になった。よほどの路地裏でなければ夜でも歩けるし、昼のセントラルパークはまず安全。このようなニューヨークになったのは、細かな、身近なルールの遵守を徹底したことが功を奏したんだと僕は確信している。(橋下2017)

このようにジュリアーニを礼賛する橋下の言葉には、しかし、独自の解釈が入り込んでいることに注意しよう。橋下が警察力以上に重視するのは、「雰囲気」の力である。つまりジュリアーニの手法は、「雰囲気」による取締りの手法として翻訳されたのであり、だからこそ彼は「割れ窓理論」の意義を強調している。その理論は、ある建物の一つの窓が割られ修理されないまま放置されれば、残りの窓は全部割られてしまうという喩えのもとに、近隣のあらゆる無秩序――酔っ払い、物乞い、若者の喧嘩など――に対していち早く取り締ることが、結果的に重大な犯罪を防ぐことにつながるのだと説く(ケリングとコールズ 2004)。つまり、犯罪を事後的に取締まるのではなく、そもそも犯罪など起こりえないような予防的な環境を構築することが、「割れ窓理論」の狙いであった。ただし、このようなアプローチは犯罪の背景にある構造や動機に関心を抱かず、ただ犯罪を見えなくしたり、別の場所に移したりするものでしかない。なによりタチの悪いことにこのアプローチは、ごみの不法投棄や落書き、路上での喫煙や飲酒、野宿という行為や挙動不審な行為など、あらゆる逸脱的な要素を犯罪の兆候とみなし、秩序やモラルに反する行為としてひとくくりにしてしまう。そのような環境型のアプローチが、警察力と同等の取締りの効果を発揮するというのである。

 もうひとつ指摘しておかねばならないのは、このように「雰囲気化された」ジュリアーニは、「まちづくり」とじつに相性がいいということだ。多くの人々は、ジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の生と死』が「まちづくり」の目指すべき理想であることに同意することだろう。だがじつのところ「割れ窓理論」のルーツのひとつは、都市生活における近隣の秩序を回復しようとしたジェイコブズの議論のなかにあった17。彼女の議論が排他主義へと転化されかねない危険性にいちはやく気づいたからこそ、リチャード・セネットは『無秩序の活用』と題する書籍を執筆したのであった。そしてセネットが危惧したとおり、ジェイコブズの議論は「予防」の名のもとに抑圧的環境を設計する「割れ窓理論」へと転化され、さらにはジェントリフィケーションの手法と化したのである。

 橋下は市長に就任するや否や、釜ヶ崎を標的とした「西成特区構想」に着手した。その意図を、彼は次のように語っている。

僕はこの「割れ窓理論」をパクって大阪市の西成区あいりん地域のまちづくりに応用した。荒れた地域だと言われ続けてきた大阪市西成区あいりん地域の環境を改善するために、真っ先にゴミの不法投棄根絶と落書き消しに徹底して取り組んだんだ。ごみが無くなり、落書きがなくなり、防犯灯を明るくし、グッと地域環境が改善した。それをきっかけに地域住民が積極的に動いてくれて、放置自転車の整理や防犯見回り活動などさらに環境が改善してきた。そこに教育環境をさらに改善し、公園環境を改善し、大阪府警が強力に治安改善に力を入れてくれ、そうこうしているうちに、簡易宿泊所に多くの外国人旅行客が押し掛けるようになった。街に秩序、遵法意識が強く生まれ始めた。/このような状況に合わせて、大阪府・大阪市によって大阪中心部と関西国際空港を結ぶ鉄道計画が決定されこの地域に駅を作ることになった。その流れの中で、あの星野リゾートがその新今宮駅前に大型リゾートホテルを建設してくれることになった。(橋下 2017)

西成特区構想とまちづくりの関係や評価をめぐっては、いまなお論争の最中にある。だが特区構想の開始から10年以上を経た現在、「街全体の「雰囲気」を変える」というプロジェクトが立ち退きの暴力に帰結したことは、もはや否定しようのない事実であろう。冒頭で述べたように、新今宮駅前にたつあいりん総合センターは、2019年4月に住民や支援者の反対の声を無視して閉鎖が強行され、24年12月には閉鎖されたセンターのまわりで生活する野宿者は暴力的に立ち退かされた。他方で「不動産投資による地価上昇」は、いまやこの地域に押し寄せる顕著な変化のひとつである18。しかも、このような立ち退きは釜ヶ崎だけに限られたことではない。梅田におけるセックスワーカーの追い出しや、ミナミの「グリ下」における柵の設置にみられるように、立ち退きと不可視化の圧力は万博体制下の都心を覆いつくしているのである。

 2025年のいまも、イベント・オリエンテッド・ポリシーは生きながらえていると知らなければならない。それは、都市をテーマパークへと塗り替えるという80年代の「夢」を、無理からに完遂させようとしているのだ。だがそれは、しょせん賞味期限の切れた「夢」である。イベント・オリエンテッド・ポリシーを徹底的に推進した大阪維新の会は、万博の「失敗」とともに支持率を急低下させつつある。とはいえ、楽観視することはできない。かりに政権や体制が変わったとしても、ネオリベラルな都市政策の趨勢そのものは衰えそうにないのだから。それほどまでに80年代以降の公共空間に対する繰り返しの攻撃は、都市の日常生活に深い傷を刻み込んだのである。そうして現在では、私たちが公共空間とはなにかをイメージする際の原体験や、その共通感覚までもが書き換えられようとしている。

 とするなら私たちはまず、遠ざかりつつあるその原体験を思い出すことからやり直さなければならないはずだ。じっさい九〇年の公園有料化に対する抗議のなかでは、公園の多種多様な原体験をさまざまな人びとが語り、公園を取り戻そうと試みたのだった(図6)

図6 寸劇「天王寺公園奪還!真昼の夜の夢」 出典:天王寺公園有料化を撤回させる市民連絡会『土緑(どりょく)と人帯(にんたい)』8号、1992年10月5日。

この文章でたびたび引用した都市と公園ネットワーク編『大阪発——公園SOS 私たちのコモンセンス』は、そのような実践が生みだしたな成果であり、手がかりである。他方で公共空間の危機は、90年代当時よりもずっと深刻さの度合いを深めている。たとえば現在では、公共空間を「にぎわい」という言葉で定義することに、なんの疑問も抱かれなくなっているように思われる。もしかしたら私たちは、立ち返るべき公園の原体験すら奪い取られているのかもしれないのだ。だとすれば、かつてのように「公園を思い出す」だけではもはや不十分だろう。いま私たちに必要なのは、そもそも「公園」とはなんであったかを問い、また、その理念がかたちづくられた歴史を辿りなおすことだろう

[付記] この最後の主題ついては、本連載と並行して執筆中の書籍にて論じるつもりであった。だが、このかんの万博をめぐるニュースのなかで、吉本興業が手がけるパビリオンにおいて天王寺公園の青空カラオケをモチーフにした「出し物」がSNSを中心に評判となっているとの情報が目に入ってきた。いわく「たとえば「盆踊りのアシタ」は、2010年代に撤去された天王寺公園の青空カラオケがイメージされているという」19。この出し物は、青空カラオケの実態や背景を捨象し(青空カラオケが撤去されたのは2003年であり、事実関係からして間違っている)、その「見かけ」のみを切り取った文化的詐取と言わなくてはならない。このことは急ぎ発信すべきことであるように思われるので、本連載中に「補論」として発信したいとおもう。


文献

青木雄二「悲しき友情 2.「終着駅に雨が降る」の巻」『さすらい——青木雄二傑作集』マガジンハウス, 161-195, 1997.

ケリング, ジョージ&コールズ, キャサリン(小宮信夫監訳)『割れ窓理論による犯罪防止——コミュニティの安全をどう確保するか』文化書房博文社, 2004.

酒井隆史「「ヴァーチュアリズム」のなかの公園」『10+1』No.45, 113-120, 2006.

ジェイコブズ, ジェイン(山形浩生訳)『アメリカ大都市の死と生[新版]』鹿島出版会, 2010.

蕭閎偉「設置管理許可制度に基づく事業協定によるパークマネジメントの展開——天王寺公園エントランスエリア「てんしば」を事例に」日本建築学会技術報告集, 第26巻第62号,353-358,2020.

スミス,ニール(原口剛訳)『ジェントリフィケーションと報復都市——新たなる都市のフロンティア』ミネルヴァ書房, 2014.

セネット,リチャード(今田高俊訳)『無秩序の活用——都市コミュニティの理論』中央公論社, 1975.

都市と公園ネットワーク『大阪発——公園SOS 私たちのコモンセンス』都市文化社, 1994.

橋下徹『橋下徹の「問題解決の授業」Vol.79』プレジデント社, 2017[e-bool-Kindle].

向井孝「木本凡人の〈立場〉——岡部よし子と共に」『黒 La Nigreco』6号(第1次終刊号), 37-58, 2001.

祐源普光・島本直之「大阪市天王寺動物園のあゆみ——入園者数の動向を中心として」大阪市公園局編『大阪市公園局業務論文報告集 第1巻』大阪市, 1982, 274-278.

祐源普光「天王寺動物園における夜間警備の機械化について」大阪市公園局編『大阪市公園局業務論文報告集 第2巻』大阪市, 1984, 296-308.

Centre on Housing Rights and Evictions., Fair Play for Housing Rights: Mega-Events, Olympic Games and Housing Rights, Geneva, Switzerland, 2007.

Deutsche, Rosalyn., Evictions: Art and Spatial Politics. Cambridge, Mass: MIT Press, 1996.

Smith, Neil., New Globalism, New Urbanism: Gentrification as Global Urban Strategy, Antipode 34(3), 427-450, 2002.


  1. 「序」で紹介したように、「居住権および立ち退きに関するセンター」(the Centre on Housing Rights and Evictions: COHRE)が2007年に刊行した報告書『居住権のためのフェアプレーを』は、1980年代以降のオリンピックがもたらした暴力と立ち退きのひとつひとつをレビューしつつ、オリンピックを含むメガイベントとは「都市開発の触媒」であると結論し、メガイベント主導の都市開発によって各都市で引き起こされた排除や暴力を明らかにしている。その概要は「序」の表1で示したとおりであるが、ここでいくつかの事例を取り上げよう。たとえば92年のバロセロナ五輪は、「バロセロナモデル」と称されるほどに成功した五輪として高く評価されるが、この五輪においてさえ関連する開発やジェントリフィケーションの過程によって数千世帯の家族が立ち退かされるか、移転させられたといわれる。これに対し96年のアトランタ五輪は都市に暴力と分断を深く刻み込み、25,000世帯近くの家族や個人が立ち退かされるか移転させられただけでなく、「浄化」作戦のもとでホームレスの人々――その多くはアフリカ系アメリカ人であった——を犯罪化する法律がつくられ、かれらに対し9,000件もの出頭命令が出された。これらの暴力は五輪にかぎられたものではなく、IMF・世界銀行会議やFIFAワールドカップ、そして万国博覧会が開催されるたびに、繰り返し都市に噴出したのである(COHRE 2007)。 ↩︎
  2. 「「もうやめよう」、色で後押し 売春「客待ち」、道路塗装で9割減 大阪・キタ」『朝日新聞』2025年4月16日。 ↩︎
  3. 「“グリ下”塀設置 大阪・関西万博開幕の裏で居場所を追われる若者たち」TBS『報道特集』2025年5月3日(https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1896867)。 ↩︎
  4. 「キタ」と「ミナミ」で実施されたふたつの立ち退きには、共通する特徴があるように思う。第一に、万博のために都心から「望ましくない存在」を見えなくさせようとする意図だ。言い換えると「目に入らなければそれでいい」という発想だ。横山市長は「分かっていながら放置することは自治体の責務とは言えない」というが、この市長は助けを求める若者の声に耳を傾ける気もなければ、かれらを支援しようとする気もさらさらない。けれどそうしたことこそが「自治体の責務」であるはずだ。第二に、若者やセックスワーカーを追い出すやり口である。本章で論じるように、これまでも都市では、排除オブジェを設置して追い出すなどの蛮行が繰り返されてきた。けれど、路上を黄色に塗って不快感を与えて追い出すというやり口は、かつてないほど陰湿であるといわねばならない。 ↩︎
  5. 向井の文章は、木本凡人の「公園解放」の実践とその意義を記録し、再構成する試みである。その意義ついては書籍版にて論じたいと思う。 ↩︎
  6. 太田勝義(自民党)による質問、大阪市会「昭和60年第一回定例会(昭和60年3月)」、1985年3月5日。 ↩︎
  7. 長田義明委員(自民党)による質問、大阪市会「昭和61年2・3月定例会常任委員会(財政総務・通常予算)」、1986年3月18日。 ↩︎
  8. テーマパーク的空間の創出という論理から導かれた公園の有料化という露骨な暴力がもつ特徴は、他面でそれが「いのち生き生き」というヒューマニズムにあふれるコンセプトを掲げているという点にある。すなわち「こういった既存の文化的施設を生かしながら、動植物を中心にいたしまして、生き物の多様性を展示展開することによりまして、現代社会に生きる私たちがともすれば忘れがちになります自然や生き物に対するかかわり合いといいますか、それらの再認識をするということで、あわせまして命の尊厳とか、心の触れ含いとか、いたわり合う心を育てていこう、そういった場をつくっていこうじゃないかということが、開催趣旨の第二点目でございます」(日野市長室企画主幹による答弁, 大阪市会「昭和60年度決算特別委員会(準公営・一般)昭和61年10・11・12月」、1986年11月21日)。このような耳に心地よいコンセプトを掲げた天王寺博覧会が現実には野宿者の排除という非人間的な効力をもたらしたように、「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマを掲げた2025年の万博は、都心での「浄化」の暴力をまき散らしている。「清潔でちり一つ」ない明るさに満ちた世界のなかでは、もはやいかなるコンフリクトも介在してはならないのだ。 ↩︎
  9. 同書によれば「アーバン・ルネサンス」と呼ばれる都市政策が進行しつつあった一九八六年、大阪市の公園は歴史的な転換を迎えたという。この年、大阪市緑化問題懇談会によって出された『二十一世紀にむけての新しい緑化施策の展開について』は、公園の高度利用を図りながら新しい施設の導入を進め「さらに、これらをファッショナブルに演出し、特に照明に気配りをすることにより夜も使える公園として活性化することを目標とすべきであろう」と指摘したうえで、あわせて「民間資金の導入や民間企業への運営委託」の検討を提言している。同書が「これは公園の本質に照らして明らかな逸脱である」と痛烈に批判するように、それはまさに公共空間の消費空間化ともいうべき提言だった(都市と公園ネットワーク1994: 133-137)。 ↩︎
  10. 塩谷公園局長による答弁, 大阪市会「昭和60年3月定例会常任委員会(土木港湾・通常予算)」、1985年3月14日。 ↩︎
  11. ただし、このような公園の囲い込みはすんなりと受け入れられたわけではない。有料化した天王寺公園がオープンした二月二四日、釜ヶ崎にかかわる活動者や支援者が集った「天王寺公園有料を撤回させる市民連絡会」はビラをまいて抗議し、そのかんメンバー十数人がゲートの「強行突破」を試みた(朝日新聞大阪市内版, 1990年2月25日)。その後も抗議者たちは、有料化の違憲性を問う裁判闘争や、フィールドワークや演劇など、さまざまな手段で声を挙げつづけた。これらの対抗的実践については、のちにくわしく論じることにしよう。いま、確認しておきたいのは、公園が危機に瀕していたそのときにこそ、「公園とはなにか」を問う多種多様な実践が溢れかえった事実である。 ↩︎
  12. 酒井の論考は、ウェブサイト「反ジェントリフィケーション情報センター」で読むことができる)。 ↩︎
  13. このあとには、次のような文章がつづく。「そんな思い出のある天王寺公園が2月下旬の改装再オープンの折に、有料化されたと聞いて十数年ぶりに行ってみた。なるほど公園の周囲は、ぐるっとフェンスが張りめぐらされている。入場料150円。おっちゃんたちは、そう気安く入って「仕事」はできない。しかも、今の時期は午後五時閉園。これでは恋人たちでさえ、何もできない気がする。いかがわしい要素は極力シャットアウトする方針か。/大阪市は「関西新空港の玄関にふさわしい、高度で手入れの行き届いた公園に」という。はい、確かに改装なった公園は美しい。しかし、どこかひっかかる。公園を排他的にしてまで美しさを保つことが必要なのか。こうなる前に、論議はなかったのか。そしておっちゃんたちは……そんなことを考えながらフェンスの外を歩いていると、路上に現れたのは昔ながらの「野外カラオケおやじ」。自分で紹介しながら歌っている。おまけに、着物姿で年かさの「ミスターレディ」数人が音楽に合わせて、楽しげに踊っている。/私は胸のつかえが少しだけとれた気がした。それから、昔のデートのことを、また優しい気持ちで思い出した。」 ↩︎
  14. このように都市の視覚的に審美化を問題視するなかで、ドイチェは再開発と結託したパブリック・アートを批判している。ドイチェによれば、「建造環境における実践として、パブリック・アートは都市にその意味や使用、形態を創出することに関与して」おり、「その能力において、後期資本主義のアーバニゼーションの歴史的形態を構成するものを再開発し、再編することを承認させることに役立っているのだ」(Deutsche 1996: 56)。都市再編と結びついたパブリック・アートが、その内容においては実に多様な表現形態を持ちながら、座る場所、立つ場所、遊ぶ場所、食べる場所、読書する場所、ひとつひとつの場所の機能を、都市を生きる人々に直接的に知覚させる。都市が視覚的に多様化されるなかで、一方では単一的な機能へと還元されていることを、ドイチェはここで批判している。 ↩︎
  15. ジュリアーニ市政下におけるホームレスの人びとに対する警察の処遇を監視すべく設立された「ストリートウォッチ」は、ホームレスの人びとからの証言を収集し、警察の蛮行に対する訴訟を起こした。この証言は、かれらが置かれた状況を次のように語っている。「「わたしは〔ペンシルベニア駅の〕待合室に座っていました……すると二人の白人男性警官が……私に近づいてきました。彼らは「起き上っていますぐ出ていけ、それとも出ていかしてやろうか……」と言いました。私はかがんで[自分のかばんを]拾い上げようとしました。すると彼らは、私の肘を掴んで、椅子の横に立つコンクリートの柱に向って私を投げつけました。私は前歯を折られ、右の眉を深く切って血がたくさん吹き出しました。それだけではなしに、鼻も折れましたし、メガネも壊されました。……彼らは、二度と姿を見せるなと言い、もし見かけたら「ずっと床にはいつくばらせてやる」と言いました。そのあと、彼らは……私を乱暴にドアの外に押し出し、そのせいで私は歩道で転倒して後頭部を殴打しました。その傷を縫うのに八針が必要でした。……転倒してからというもの、めまいや失神が治まりません。」(スミス 2014: 376からの引用) ↩︎
  16. 大阪市会において磯村隆文市長は、ジュリアーニについて次のように言及していた。「ジュリアーニさんの場合は、何はさて置いてもニューヨークの警察をきれいにせなあかんということから始めて、犯罪を抑えるということをやっていったわけです。……その延長線上で、いわばビッグアップルというアイ・ラブ・ニューヨークのキャンペーンが成功していって、本当にすばらしいまちにされたわけですが。ブロークン・ウインドウズ・セオリーというのも、実はその補佐官の中の人が考えたらしいんですが、おもしろいとなるとすぐキャンペーンというのをやるわけですね。日本ではおよそやれないことでございまして、だから日本とアメリカというのは、まさに対極的なやり方があるんですが、アメリカ的なやり方というのを我々も少しは意識した方がいいのかなというのが、私個人の考えでございまして、先ほど戦略的なという、戦略性ということを申し上げたのは、もちろんジュリアーニさんのことも頭の中にあってのことなんですが、ただ、アメリカ的なことをストレートにはやれませんしやるつもりもありませんので、いいところを学びながら、もう少し大阪らしい総合計画を今回は本当に打ち出してみたいなというふうに思っております」(磯村隆文大阪市長の答弁, 大阪市会「平成15年2・3月定例会常任委員会(計画消防・通常予算)」(2003年3月4日)。そう語られるように、この時期においてジュリアーニの政策は、橋下徹の時代と比べるとかなり慎重に吸収されていたことが分かる。なおジュリアーニは2004年に来阪し講演を行っており、この前後の時期に大阪市会におけるジュリアーニの言及は増加している。大阪市政にジュリアーニの政策が影響を与えた経路として、この講演会が重大な契機になったものと推察される。 ↩︎
  17. 「秩序維持を通じて犯罪を減少させるには、つまるところ、善き市民精神を発揮することが必要である。市民は、自らの行動に対しても、また同輩市民の安全と安心の確保に手を貸すことに対しても、その責任を引き受けなければならない。秩序は、ジェーン・ジェイコブスが都市生活における『小さな変化』と名付けたものから生まれる。それは、他者と接する際に持つべき日々の敬意と、彼らのプライバシー・福祉・安全のために払うべき関心である」(ケリングとコールズ 2004: 11)。 ↩︎
  18.  万博にあわせて開催された「大阪国際芸術祭2025」では「西成エリア」が会場とされている。同芸術祭を紹介したウェブサイトは、「西成エリア」について次のように解説する。「大阪市西成区の「釜ヶ崎」と呼ばれる一部のエリアは、かつては日雇い労働者の街として知られ、高度経済成長期には多くの労働者が集まりました。近年は高齢化や貧困、外国人居住者の増加、さらには不動産投資による地価上昇など、さまざまな社会的変化に向き合うエリアとなっています」(「西成・釜ヶ崎でアートを巡る! 大阪関西国際芸術祭2025の見どころを徹底解説」Art Tourism) ↩︎
  19. 万博会場で異彩を放つ「よしもと館」…総合Pが目指した空間とは?」Lmaga.jp, 2025年5月5日. ↩︎

著者紹介

原口 剛(はらぐち・たけし)

神戸大学大学院人文学研究科教授、専門は都市社会地理学および都市論。著書に『叫びの都市――寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』(洛北出版)、『惑星都市理論』(共著、以文社)、『釜ヶ崎のススメ』(共著、洛北出版)など、訳書にニール・スミス『ジェントリフィケーションと報復都市――新たなる都市のフロンティア』(ミネルヴァ書房)、ロレッタ・リーズほか『ジェントリフィケーション入門』(共訳、ミネルヴァ書房、近刊)がある。