マルクスとモースの往還

――グレーバー『価値論』を読む

中川 理

編集部より

 本稿は、日本文化人類学会発行の学会誌『文化人類学』(2023年、88巻3号、594-596頁)に掲載された、小社刊行のデヴィッド・グレーバー『価値論――人類学からの総合的視座の構築』(藤倉達郎訳、2022年)のレビュー(書評)の全文転載である(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjcanth/88/3/88_594/_article/-char/ja)。

 本稿は、グレーバーの著作のなかでも難解とされる『価値論』を丹念に読み解き、かつ簡潔な構図にまとめて、その現代的意義を評価している。同書を読む際の手引きとして、併読することをお薦めしたい。とりわけ、グレーバー『価値論』の現代的視座として、(1)価値と倫理、(2)人の生産とモノの生産、(3)変化の可能性という論点の提示は、今後のグレーバー研究のみならず、その応用というテーマにおいても示唆的である。掲載にあたり、許諾いただいた著者の中川理氏、ならびに日本文化人類学会には記して御礼申し上げたい。(以文社編集部)

 


 『価値論』は、2001年に出版されたグレーバー最初の著書である。結果的に、日本語版は彼が2020年に急逝した後に出版されることになった。では、20年以上前に書かれたこの本を、いま読む価値はあるだろうか。日本語版と同時期に出たフランス語版への書評で、エスケールはどちらかというと否定的な評価を下している[Esquerre 2023]。彼によると、グレーバーは現代の社会を分析するのに十分な枠組みを提供できていないという。

 この書評では、私はこの本に逆の評価をする。『価値論』は、いま私たちにとって役に立つ本である。たんにグレーバーという偉大な人類学者/思想家の原点を理解するのに役に立つというだけではない。あるいは、後の著作で発展する諸概念の萌芽を見つけられるというだけではない。この本は、近年の人類学者が関心を寄せている問題に取り組むために使える道具箱を提供している。

 難点をあらかじめ指摘しておくなら、確かにこの本は読みにくい。グレゴリーは、『価値論』はグレーバーのすべての著書のなかで一番難しいと指摘している[グレゴリー 2023]。また、キャリアーは、詳細に分析される多彩な民族誌的事例が、どのように価値についての理論的問いに結び付いているのかよく分からないと不満を述べている[Carrier 2003]。これらはいずれも妥当な指摘である。付け加えると、フーコーやドゥルーズをポストモダン思想とみなし、ブルデューやアパドゥライを新自由主義的ととらえる批判は時代遅れになっていて、現在の読者が本書の構造を理解するのをかえって妨げている。

 つまり、自身が後に認めているように、若き日のグレーバーによるこの著作は「不器用な試み」[Graeber 2013:236]である。しかし、よく読むならば、明確な意志を持って本書が組み立てられていることが見えてくる。それは、価値に対するマルクス主義的アプローチとモース主義的アプローチをどうにかして総合したいという意志である。グレーバーにとって、それこそが人類学的な価値理論の大きな課題だった。その課題が、本書で完全に解決されているとはいえない。だが、グレーバーは価値についてどのような点が問題となるかという構図を示し、「答えを探すための場所を指し示した」(p.402)といえる。以下では、本書の構図をなるべく単純にまとめたうえで、どのようにそれが現在の人類学の様々な議論を結び付けるのに役立つかを示したい。

 グレーバーは、まだ体系的な価値理論は不在だと指摘するところから議論を始めている。これまで、価値を語る三つのやり方が存在していたが、それらはいずれも理論として不十分だった。社会学的なアプローチは、それぞれの社会において何が望ましいものとされるかを考えてきた。ある社会では「名誉」が、別の社会では「調和」が価値とされる、というように。経済学的なアプローチは、あるモノを手に入れるのにどれくらい支払えるかという価格の問題として価値をとらえてきた。しかし、前者の視点ではどうして個人がある価値を追求したいという動機を持つようになるかが分からず、後者の視点ではなぜ社会においてある特定の価値が望ましいとされるようになるかが分からない。三つ目の言語学的なアプローチはというと、価値を「意味ある差異」ととらえていた。色を例にとると、赤色の価値はそれ以外の色との差異によって定まるといえる。だが、このアプローチでは、なぜあるものが別のものより高く評価されるのかが分からない。

 これらの問題を乗り越えるために、グレーバーはモノではなく行為に注目する価値へのアプローチを提唱する。もらった食物が貴重なのは、食物自体ではなく分け与えるという行為に価値があるからだ。「評価されているのは、究極的には、モノではなく行為である」(p.88)。ところが、そのことを完全に意識するのは意外と難しい。マルクスによる商品フェティシズムの議論を用いて、グレーバーはその点を示している。商品を作るには、協力しあう社会関係が必要だし、労働者をまず育てなくてはいけない。しかし、商品生産に費やされるこれら創造的な行為の全体像は消費者には見えず、商品そのものに価値があると思いこんでしまう。労働者自身も、ほんらい自分たちの行為の表象であるはずの貨幣を、働く目的とするようになってしまう。モノ自体に価値があると信じてしまうのだ。

 グレーバーによると、このような観察は「市場なき社会」にも一般化可能である。確かに、これらの社会では、モノの生産よりも人の生産(社会化)が重要だとみなされている点で資本主義社会と異なっている。しかし、価値の生産と実現は別のところで行われ、生産の過程は見えなくされる傾向にある点では同じだ。例えばブラジルのカヤポの場合、儀礼で年長者が行う演説や詠唱において実現される「支配」と「美」の価値は、他の家族成員(とくに娘と婿)の下働きのおかげで可能になっている。しかし、その事実は見えない。ここでも、価値の実現を可能にする生産の行為は隠されてしまう。

 いずれの場合でも、「価値のしるし(トークン)」(以下ではトークンとする)は行為が結晶化したものであるにもかかわらず、それ自身が行為の目的となるという共通の特徴がある。トークンには、貨幣のように比率的な場合(どれくらい持っているか)も、カヤポの演説と詠唱の権利のように存在/不在による場合(持っているか、持っていないか)も、さらには序列化される場合(どの順番で値打ちがあるか)もある。いずれにせよ、トークン自体に価値があるとみなされ、その獲得が目的とされるようになる。それとともに、その背後にある社会関係や行為は十分に意識できなくなる。そして、みんなが同じトークンを追求する結果、社会は再生産される。これが、マルクス主義的アプローチから見えてくる価値のメカニズムである。

 グレーバーは本書の前半で、従来の三つの視点(社会学的・経済学的・言語学的)を結び付けたこのアプローチの有効性を主張している。確かに、トークンという概念によって、どのように社会的な価値が個人の行為の動機付けにつながるのかをうまく説明できるようになる。ところが、本書の議論はそこでは終わらない。後半では一転して、グレーバーは自分が構築した理論を自分で批判にさらそうとする。はたして、トークンの自己目的化と社会関係や行為の隠蔽はどうしても起こってしまうものだろうか。不平等のない社会のあり方は想像できないだろうか。他の社会の制度や実践に異なる生き方の可能性を探索するモース主義的アプローチによって、グレーバーはこの問いに答えようとする。

 『贈与論』においてモースが検討したマオリとクワキウトルの贈与を再検討して、グレーバーは興味深いことを明らかにしている。ある意味で、二つの民族は対極的である。マオリでは、宝物は元の持ち主の人格と強く結びついているため、完全に与えてしまうことはできない。クワキウトルでは、宝物は最初の所有者の人格と強く結びついているため、受け取った人はその人に「なる」。しかし、どちらの場合も、モノはそれを生んだ行為や社会関係と結びついていて、そのことが隠蔽されることはない。「神秘化は(……)限定的」(p.352)なのである。また、多くの場合でトークン同士は比較できない。どちらが多くご馳走したかは比較してはいけない。また、貴重な宝物はそれぞれ固有の歴史を持っているので、比較することができない。つまり、トークンそのものよりその背後にある行為や社会関係が重要であり、トークンの獲得を目的として人々が競うわけではないような状況を考えることは可能なのだ。モースの言葉を用いて、これらの事例が示す理念をグレーバーは「個人主義的なコミュニズム」と呼んでいる。

 それでは、ある価値のトークンを追求しているときに見えなくされている不平等な社会関係に人々が気づき、それをきっかけに別の社会のあり方を追求するようになる可能性はあるだろうか。本書の最後でグレーバーは、フェティッシュ化が完全ではないという点にその可能性を見出している。先に見たように、人々は価値がモノに内在すると信じるようになりがちで、その背後にある行為や社会関係を忘れがちである。しかし、完全にそうなるわけではない。マダガスカルのメリナでは、人々は一方で王が特別な力を持つと語るが、同時に王が力を持つのは自分たちがそう扱うからにすぎないとも語る。グレーバーによると、このような態度は宗教的というより魔法的である。宗教的態度では、自らが作り出したはずの神の力を完全に信じてしまう。それに対して魔法的態度では、怪しいと思いつつ真実である「かのように」ふるまう。ここでは懐疑は保たれていて、自分の考え方の根底を疑う可能性が残されている。だから、トークンの価値は自分たちが作り出したものにすぎないと気づいて、どう生きるのかを問い直すことは潜在的に可能だと、グレーバーは最後に論じている。

 以上にまとめたように、グレーバーは本書で、価値の追求が不平等を生む現実の批判的理解(マルクス主義的アプローチ)と、不平等を生み出さないような可能性の探求(モース主義的アプローチ)のあいだを揺れ動きながら、両者を総合しようとしている。確かに、価値の追求が不平等を見えなくするという現実がある。私たちはその現実を批判的に理解しなくてはならない。しかし、人々はその現実を疑う力を持っている。そこに、不平等のない社会へと向かう潜在的な可能性を見出すことができる。その可能性も、私たちは描くことができる。このようにグレーバーは、固定的にではなく「つねに現在進行形のプロジェクト」(p.398)として社会を描き出すやり方を提示している。価値の追求がもたらす光と影を私たちができるだけ多面的に理解しようとするとき、このアプローチはとても役に立つものとなるだろう。

 原題が『価値の人類学理論に向けて(Toward An Anthropological Theory of Valu)』であることからも分かるように、本書は完成された議論の提示というより、大きく豊かな理論的アイデアの素描である。そのため、議論が十分でない箇所も多い。しかし、そのおかげで、本書のアイデアを出発点に議論を発展させられるともいえる。ここでは、(1)価値と倫理、(2)人の生産とモノの生産、(3)変化の可能性、の三点について、本書の議論がどのように今日の課題につながっているか示しておく。

 (1)価値と倫理:本書でグレーバーは価値のトークンが競争を生み社会関係を隠蔽すると示したが、そうならない可能性についての検討は十分ではなかった。ランベクはこの点を批判して、価値と徳(virtue)を概念的に区別することを提唱している[Lambek 2015]。彼によると、価値は「共役可能」であり、したがってどちらがよいか「選択」することができる。それに対して徳は「共役不可能」であり、したがってどちらにするかは「決断」するしかない。また、儀礼の後に配られるお菓子のようにモノに表象される場合でも、その背後には徳ある行為があることは忘れられることはないとした。この議論はグレーバーを否定するものではなく、彼の議論を倫理の人類学へと接続する試みだといえるだろう。

 (2)人の生産とモノの生産:本書では、モノの生産を中心とする市場社会と人の生産を中心とする市場なき社会というように、どちらに中心をおくかは社会の違いとして単純化して提示されていた。しかし、人の生産とモノの生産はどの社会においても入り組んだかたちで共存している。近年の多くの研究は、両者の接合を民族誌的に明らかにしている。例えばミラーは、グレーバーに着想を得て、リオデジャネイロのゴミ拾い(カタドーレス)にとっての人生の価値について考察している[Millar 2018]。そこから見えてくるのは、カタドーレスのモノの生産(リサイクル)に関わる仕事は、ミラーが「関係的自律」と呼ぶ、自律的でありつつ社会性のある生き方をする人の生産のための手段となっているということだ。このような研究は、価値の多元性へとグレーバーの議論を開いていく可能性を示している。

 (3)変化の可能性:本書では、ある価値を生きる人々が別の価値を想像する可能性については留保されていた。グレーバーは、外の視点に立って複数の可能性をいわば人類学的に比較できるのは特殊な状況であるとしていた。それに対して、晩年にグレーバーがウェングロウとともに行った研究では、その可能性はより積極的に肯定されている[Graeber & Wengrow 2022]。隣接する社会の価値を拒絶して、それとは逆の価値にもとづく社会を創造する。あるいは、季節による社会形態と価値の変化(平等主義とヒエラルキー)を経験し、どちらがよいか意識的に考えられるようになる。そうしたことは歴史のなかで起こってきたと、彼らは示している。このような試みは、価値の変化についての理解に新たな視点をもたらすものである。

 このように、人類学の様々な今日的課題に取り組むための着想を、本書は提供している。だがそれ以上に重要なのは、一見するとばらばらに見えるそれらの課題が、より大きな問題の諸側面であると理解できることだ。グレーバーは、「大統合理論」は自分たちが何をしているか意識化するために必要だと述べている(p.43)。本書を通して、自分が扱っている個別的問題がどのような他の問題につながっているか、読者はもう一度考え直すように刺激される。それこそが、読みにくさに躓きながらでも、いまなお本書を読むべき理由である。


参照文献

Carrier, J. G. 2003. Review of Toward an Anthropological Theory of Value: The False Coin of Our Own Dreams by D. Graeber, The Journal of the Royal Anthropological Institute 9(2): 392-393.

Esquerre, A. 2023. Quelle est la valeur de l’anthropologie ? L’Homme 245: 133-150.

Graeber, D. 2013. It is Value that Brings Universes into Being. HAU: Journal of Ethnographic Theory 3(2): 219–43.

Graeber, D. & D. Wengrow 2022. The Dawn of Everything: A New History of Humanity. Penguin Books.

グレゴリー, C. 2023 「私たちの夢の偽硬貨とはなにか?」藤倉達郎訳, http://www.ibunsha.co.jp/contents/gregory_graeber1/(2023年7月12日閲覧)

Lambek, M. 2015. The Ethical Condition: Essays on Action, Person & Value. The University of Chicago Press.Millar, K. M. 2018. Reclaiming the Discarded: Life and Labor on Rio’s Garbage Dump. Duke University Press.


著者紹介

中川 理(なかがわ・おさむ

国立民族学博物館/総合研究大学院大学・准教授。専門は文化人類学。主な研究領域は経済人類学、政治人類学、グローバリゼーション研究。南フランスおよびフランス領ギアナで民族誌的調査を行う。