『労働者』を読むために

「労働力=商品」を覆すことの意味

海 大汎 インタビュー

(聞き手=編集部)

 


はじめに

 編集部(以下、──)『労働者』を刊行してから約2ヶ月(本インタビューの収録は2025年4月)が経過しました。おかげさまで、本書は決して簡単な書物ではないと思うのですが、そして──あえて失礼を承知でいいますが──ほぼ無名だった書き手が上梓した本としては、異例なほどのご好評をいただいております。本日は、著者である海大汎さんに、これから本書を読むため、あるいは本書をよりよく理解するための「補助線」となるようなお話を伺えればと考え、こうした場を設定しました。

 編集者としても、本書の元になる論文をいくつか拝読したときは衝撃でした。分析といえども、ここまで虚飾のない文体には滅多にお目にかかれない。そして、どうやらマルクスの「労働力=商品」論という、マルクス理論の根幹にあたる発想と格闘している(しかも海さんにとっては外国語である日本語で)。海さんは、本書の「はしがき」で臆面もなく「科学」そして「理論」を敢行する、と宣言され、実際にそれを成し遂げているようにみえます。近年の日本(語)の人文書界隈で持て囃される態度からは良い意味で逆を向いているように思いました。

 海大汎(以下、海) 今日はよろしくお願いします。

 私は人前で話すのが苦手で、ある種の強迫かもしれませんが、そういったことを要請されるときにも、できるだけ未来の自分が(現在話している自分を)見てもそこに矛盾がないように、と身構えてしまいます。ですので、よく無言になって場を白けさせることがあるのですが(笑)、今日は幸い「クローズド」ということで──そして自著について話せばよいということなので──、少しは流暢にお話できるのではないかと思い来ました。

 ──(笑)。思想という表現の場は本来「即興芸」を競う場ではありませんからね。ともかく、そういった普段からの心構えが、いま申し上げた「虚飾のない文体」につながっているのかもしれません。もちろん、それは「科学」や「理論」が求める態度でもありますが。

『労働者』の基本コンセプトとは?

 ──まずは、有り体になってしまうのですが、本書(『労働者』)のコンセプトについて伺えますか。

 海 本書は、労働者とはどのような存在なのかという問いに答えたものです。いまいわれたように、「理論レベルで解明する」というのが基本コンセプトですので、スラスラ読めるとまではいえないのですが、本書の結論はわりと単純なものです。副題でもある、「主体と記号のあいだ」を行き来する存在、それが労働者です。本書の内容はまさに、この答えを見出す・理解するための旅ともいえます。ただそのためには一つ乗り越えなければならない大きなハードルがあった。それこそが、マルクスの「労働力=商品」論だったのです。

 「労働力=商品」論は、一般に個人の能力とその稼ぎは結びついているというわれわれの常識とも決して無縁ではない発想(=アイデア)です。このアイデアを相対化し、資本主義における労働者の位置づけを究明することから、新たな資本主義像を提示すること、これが本書の目的でした

 ──本書の分析を読んだあとになって考えると、なぜ「労働力=商品」論がこれまで学問領域で(あるいは世間一般でも)問い返されてこなかったのか、不思議な感覚を覚えます。

 海 そのあたりについては、私自身もよく分からないのですが、ただマルクスが古典派経済学の認識――つまり資本家と労働者のあいだで取引されるのは労働の結果ないし成果であり、またその対価として賃金が支払われるという認識――を批判し、両者のあいだでは労働の結果・成果ではなく、労働者の労働力が取引されるという見方を打ち出すことで、いったん新たな理論の基盤が整ったということが、その出発点になっているからではないかと思います(これは重要な転換でもあるのですが)。

 たしかに、マルクスのこのアイデアは、われわれの生活感覚――日常世界での経験から得た私的感覚――と深く結びついているようにみえます。たとえ土地や建物、工場、機械設備などの生産手段をもっていない人間だとしても、一般に働くことのできる労働力はもっているからです。それが労働力を提供する代わりに、賃金(貨幣)を獲得するというタイプの取引のように見えてしまうのは、むしろ自然なことかもしれません。

 しかし、科学的真実はときに、われわれ(の生活感覚)を裏切ります。逆にそれを越えるところにこそ、その存在意義があるともいえるでしょう。問題を解決するためには、単にわれわれの生活感覚に訴えるのではなく、科学的アプローチ――大雑把にいえば概念→論理→類型・モデル→原理→理論に進む上向法――が必要になるのは、そのためだといえます。

 ──なるほど。マルクスは、古典派経済学の認識(「賃金=労働の対価」という認識)をいったん相対化しましたが、労働者の労働力を商品形態(価値形態)の一種として扱ったことでまた別の陥穽に嵌まってしまった、と。

『労働者』の資本主義観(1)

 ──いまのお話は、本書の資本主義観にも関わってきますね。

 海 本書で提示される資本主義は要するに、資本による労働・生産の組織化によって成り立つ体制といえます。これまでのマルクス経済学では、労働力商品をめぐる資本家と労働者の関係を資本主義の根幹に据えるアプローチが採用されてきたのですが、それはある意味で、産業資本主義モデルともいえます。実際、マルクス自身が『資本論』序文で、「この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。その典型的な場所は、今日までのところでは、イギリスである。これこそは、イギリスが私の理論的展開の主要な例解として役だつことの理由なのである」と述べているように、その資本主義像は19世紀のイギリス資本主義をモデル化したものといってよいでしょう。

 もちろん、それでもいいのですが、それが直ちに資本主義の原理像になるとは限りません。しかも、そこで取引の対象とされる労働力商品が実際には存在していないとすれば、つまり労働力を商品として捉えられる論理的根拠がないとすれば、はたして資本家と労働者の関係はどんなふうに成り立っている関係なのかという疑問が湧いて当然だと思います。

 これについてマルクスは、労働力=商品という論理と、労働力=借り物という論理を同時に、「労働力=商品」論のなかに組み込んでいますが、相当無理な想定というほかない。それゆえ、これまでのマルクス経済学においても、多かれ少なかれマルクスの「労働力=商品」論の矛盾を解消しようとする試みがなされてきたのですが、納得のいく説明は少なかったように思います。となると単なる微調整はダメで、一から立て直す道しかないのではないか、と思い至ったわけです。

 「労働力商品」をめぐる交換関係だけでは説明できない諸問題が資本主義的生産様式にはある。とりわけそのコア(内核)をなす「非経済的・政治的原理」は、「労働力=商品」論では説明できない。だから、両者の交換関係(商品交換の原理)を維持しつつも、新たな関係設定が必要だったわけです。そこで両者の関係は、あたかも「システム」と「コード」の関係と類似していることに思い至りましたが、それによれば、資本家は、労働記号の設計者であり、また労働者は、労働記号の担い手となります。すなわち、資本家はシステムの運営者として、労働記号の設計を含めて労働・生産を組織化する役割(構想・経営)を果たすし、労働者はシステムによってコード化された存在として、一定の労働・生産過程を担う役割(遂行・代理)を演じさせられる。こういうわけで、資本家にとって実際に労働記号の担い手としての人間が賃金労働者なのか奴隷なのかは、二義的で副次的な問題でしかありません。

 ──近年、労働にかんして話題になった書籍といえば、なによりもD・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』(岩波書店、2023年)が思い出されます。この本は、ある意味では(ケア階級と管理・運営階級のあいだの)階級闘争を目的に書かれた本だという気もしますが、いずれにせよ、現代的な問題──つまりブルシット・ジョブの増殖──についての目まぐるしい仮説の連続で、読む者を圧倒します。

 グレーバーは、いま海さんがおっしゃった「(資本家にとって)労働記号の担い手としての人間が、賃金労働者なのか奴隷なのかは、二義的で副次的な問題」ということを、管理経営的な「中間職」の増殖という面から説明していますね。グレーバーが出している例として、工場労働者たちの創意工夫によって生産性そして収益が著しく上がった会社で、よりによって経営陣のしたことは、(ホワイトカラー(中間職)を増やし、)工場労働者を解雇し工場を海外に移すことだった、と。

『労働者』の資本主義観(2)

 ──いまグレーバーが出していた一例を持ち出したのは(本書で徹底した「労働(賃労働)」の科学を遂行した海さんにあえていうまでもないことですが)、海さんの仮説である「資本家は、労働記号の設計者である」というとき、その「設計者」という言葉から連想されるイメージとは違い、彼らに未来を見通すような力、あるいはこれからの社会を組み立てる力があるわけではない(つまり、だいぶデタラメである)、このことを指摘しておくのも大事な気がします。このあたりの問題を「資本主義とはどのような体制なのか?」といったことからご説明いただけるとありがたいのですが。

  とても重要なポイントだと私も思います。まず「資本主義とはどのような体制なのか?」というご質問にお答えしますと、資本主義という経済体制は、ミクロレベル(資本主義的生産様式)でいえば、一般に経済学が好む「経済的・非政治的原理」(=外核)と、あまり好まない「非経済的・政治的原理」(=内核)の結合体であり、またマクロレベル(資本主義体制)でいえば、私的個人の経済的目的のために人間・社会・自然を暴力的に収奪する体制にほかならない──その代わりとして物質的豊饒というご褒美(エサ)もちゃんともらえるわけですが。

 もっとも、私的個人とは概ね資本家(や貨幣所有者)のことです。また暴力とは、本書でも書きましたが、「相互間の等価的・水平的関係を非等価的・垂直的関係に切り替える一連の企て」を意味し、収奪とは、「他者と他者の内なる自然を、利潤実現という自分の経済的目的を達成するための道具的・手段的存在として対象化する」ことを意味します。

 たしかに「資本家=労働記号の設計者」というアイデアは、過剰な位置づけのようにみえるかもしれません。しかし、「資本家」は、価値増殖という資本の至上命令を達成するために、労働記号を構想し設計しているだけであって、「未来を見通す」とか、「これからの社会を組み立てる」といった長期的な眼目やビジョンなど、そもそももっていない――というよりも、もっていてもいなくても「資本家」たりうるということです。「資本家」は、資本の観点からすれば、労働記号の設計者ですが、社会の観点からすれば、価値増殖という無限ループに呪縛されているという意味で、狭隘な世界観の持ち主にすぎないといってよいでしょう。

 実際に個々の労働記号の社会的位置づけが「ブルシット・ジョブ」にカテゴライズされるか、あるいは「エッセンシャル・ワーク」にカテゴライズされるかは、「資本家」の視点からはどうでもいいことで、現体制(資本主義的生産様式)を維持・拡張できるものであれば、たとえ社会的には意味のない仕事であっても、資本にとっては必要不可欠な労働記号になりえますし、その逆もまた同様です。どのようなタイプの労働記号であれ、「資本家」という私的個人の経済的目的・目標に奉仕するというその基本コンセプト(役割や機能)から抜け出ることはありえません。

 両者の関係は、本書の「序論」でも述べましたが、「全体としての一つの体系(システム)と個としての記号(コード)との関係」に類似しているといえます。これによれば、労働(コード)は、あくまでも資本(システム)との関係においてはじめて意味をもつことになる――それ以外の労働(資本主義社会における労働の諸類型)については、本書の第3章の「おわりに」で言及していますが、基本的には本書の守備範囲からは外れてしまいますので、ここでは省きます。ですので、別の領域(社会)のロジックや価値判断――「クソどうでもいい」のか、あるいは「必要不可欠な」のか――をもってくるのは、「資本主義社会」の分析としてはとても意義のあることですが、「資本主義」そのものの分析としては、どうしても間接的・迂回的なアプローチになってしまうのではないかと思います。

 だから、むしろ本書の議論は、労働記号の設計を私的個人にすぎない「資本家」に任せていいのだろうかという問題意識(「資本主義社会」分析)の土台になりうるともいえます。もちろん、この社会・体制は、労働記号の構想・設計に対するイニシアチブが労働する人間にではなく、はじめから労働させる人間のほうにこそあるという点からみても、立派な階級社会なわけですが、当然のことながら、その限界は一目瞭然です。本書の「あとがき」にも述べましたが、現行の制度が賃労働制なのかどうかは、資本主義の根本的な問題ではないという意味で、問題設定自体を見直す必要があるように思えます――そしてこれは、資本主義の原理像をいかに構築するかといった理論的課題と深く結びついています。

 いずれにせよ、「資本主義とはどのような体制なのか?」に戻りますと、本書はおもにミクロレベルの資本主義像に焦点を当てて考察したものですが、最後の第7章は、それまでの考察を踏まえて、マクロレベルの資本主義像を提示しました。後者は、前者の分析なしにありえないというコンセプトです。その根底をなすのが、本書で提示した「労働者=労働記号の担い手」論です。これは、マルクス以来の「労働者=労働力商品の所有者・売り手」論(ひいてはその根源にある「労働力=商品」論)を相対化し、労働者(人間)からではなく、資本(体制)から問題に迫るアプローチを試みることによって得られたアイデアだったのです。

 ──本書には「むしろ労働者=人間ということを徹底したい」という言葉もあるのですが、そのためにはまず、資本主義とはなにか? を問う必要があった、と。

「人的資本論」をめぐって

 ──『労働者』を読むポイントとして、まるでそれが「労働者(人間)」の側から出てきた発想かのように偽装しつつ(おそらく資本(体制)側から)出てきた「人的資本論」や「能力主義」に対する疑義があるようにも思うのですが。

 海 おっしゃるように、個々人の賃金あるいは賃金水準は本人の能力とほとんど無関係に決まるというのが、本書の重要なポイントでもあります。すなわち、個々人の能力の程度と賃金水準とのあいだに因果関係はないということです――では何でもって能力を測るかはまた別問題ですが。いわば学歴をいくら高めていても、景気が不況・恐慌状態に陥ってしまえば、まともな賃金どころか、(半)失業や非正規雇用を余儀なくされる。それに対して、景気が活性化していて、人手が足りないような好況であれば、あまり能力の高くない人であっても容易く職を得て、自分より能力の高い人と比べてもけっして低くない賃金を得られる。

 つまり、ここで言いたいのは、問題の核心は、個人(人間)にではなく、資本(体制)にこそあるということですが、人的資本論や能力主義といった議論は、どうも後者から現象を分析する視角が欠如している。特に人的資本論は基本的に、個人(individual)から議論を組み立てる、いわば古典派経済学以来の方法論的個人主義に基づいていますが――能力主義も結局、それに迎合する社会的通念という点で同じですが、そこには非科学的ともいえる方法論的誤謬があるように思えます。

 ──ありがとうございます。次回作もますます楽しみになってきますが、本書を読む「補助線」として、海さんの理論的な射程は十分に伺うことができたのではないかと思います。

『労働者』を読むために━━『貨幣の原理・信用の原理』から『労働者』へ

 ──あらためて、となりますが、本書を書くことになったきっかけはどういうものだったのでしょうか? 実は海さんには社会評論社さんから出された『貨幣の原理・信用の原理』(2021)という本がすでにありますよね。

 海 私は以前、マルクス経済学の価値形態論(貨幣生成論)を軸にして、貨幣形態の成立における信用の契機(信用貨幣の可能性)を原理的に解明する課題に取り組みました。その研究成果をまとめたのが博士学位論文で、またそこから修正・加筆を加えたのが前書『貨幣の原理・信用の原理』です。もっと具体的にいえば、そこでは貨幣生成をめぐっていくつかの角度(信用売買・商品交換・価値形態・貨幣機能・信用貨幣)から議論を展開することで、価値関係の形成因子として働く信用の質的側面を理論化することがおもな目的でした。

 そこで「労働力は本当に商品なのか」という疑問がふと頭に浮かびましたが、それが本書(『労働者』)を執筆することになった直接的なきっかけとなりました。その当時は、労働そのものに理論的関心があったわけではないのですが、商品と貨幣の関係について研究を進めるなかで、労働者を労働力の売り手(=商品所有者)とし、また資本家を労働力の買い手(=貨幣所有者)として位置づける従来のマルクス経済学のアプローチはどうも納得がいかない、つまり労働力は商品形態には当てはまらないのではないかという疑問が浮かんだわけです──もちろん、私自身もその前までは、労働力商品化だの、労働力=商品だのといった、マルクス経済学の根底にある命題をあまり疑っていなかったのですが。

 その課題に本格的に取り組むことになったのは、博士学位論文を単著として出版することが決まった頃でした。「労働力=商品」論の理論的整合性について考察し、またその問題意識を言語化するなかで、「労働力=商品」という理論的構想は成り立たないという暫定的な結論に至ったのですが、だからといって、資本主義体制の根底をなす生産関係を説明できる理論体系が用意されていたわけではありません。そこで運営者的な立場の資本家とその代理者的な立場の労働者との関係から、「システム」と「コード」というキーワードを引き出したことをきっかけに、理論体系を組み立てはじめ、その内容を本書のかたちでまとめることになりました。

 ──そのようにマルクスの理論を疑い、一から自分で理論を立て直してみようという試み自体、ほとんど聞いたことのない話で、マルクス主義者は(マルクス主義者でなくとも)「マルクスは正しい(あるいは逆にすべてが間違っている)」ということを前提に話を進めますよね。このような試みについてきてくれるような、あらかじめ想定していた読者像のようなものはあったのでしょうか?

 海 そうですね。著者としては、人文・社会科学に関心のある方々に読まれるならば何よりですが、特定の読者像を想定しながら書いた本というよりも、ただ自分の問題意識を推し進めてそこから得られたアイデアを言語化(理論化)した本なので、実際にどんなタイプの読者に読まれるのか、あまりピンと来ません。たしかにマルクス経済学という参入障壁の低くない分野をそのステージとしているという点から考えると、どうも読む気にならないことも理解できなくもない。ですので、ある程度人文・社会科学や経済学あるいはマルクスに関心を持っていないと、やはりついていけないかもしれません。

 しかし他方で、そうでないとすれば、それはいいシグナルになりうると思います。なぜなら、ある意味では、関心こそ立派な能力だともいえるからです。はじめから能力があって、やっていくうちにだんだんと関心が高まることももちろんありますが、それと逆に関心があれば、それに見合う能力がともについてくることもある。関心の程度と能力の程度は常に表裏一体の関係にあるといってよいかもしれません。だから、能力があるかどうかは、あくまでもどれくらい関心を持ち続けられるかによってはじめて可視化されるのであって、事前的にわかることではないといってよいでしょう。

 ──「『労働者』は難しい」という声がすでにいくつか編集部にも届いているのですが、この本がいいなと思うのは、「難しい」からといって「読めない」わけではまったくないところです。むしろ背景とする知識がなくても誰でも読めるように書かれています(むしろ「関心」とは別の意味で、背景知識の方が邪魔をしてくるかもしれません)。

 海 そうですね。本書は特に背景知識を求めているわけではありませんし、人文・社会科学に関心をもっている読者であれば、誰でも読み進められるだろうと思います。たしかにいわゆる入門書や一般書ではないので、その内容を理解するためには、さらなるエネルギーと時間がかかるかもしれません。

 考えてみれば、本とは不思議なモノです。他のモノの場合、いったん買い入れたならば、その費やし方は(あるいは費やさずに「捨てる」場合も)概ね所有者次第で(一部例外を除きますが)、その過程においていかなる困難も生じない。それに対して、本はときどき、その所有者に手間をとらせる。買い入れるだけでは何も始まらないし、自分のモノのはずなのに自分の思い通りにならない。そこでしばしば読まずに放っておいたり、読むのを途中で諦めたりする。とりわけわれわれの生活感覚をいったん括弧に入れて、一定の科学的アプローチを求める本であれば、なおさらそうである。

 本を読むということは、ある種の山登りと類似した行為・活動のように私には思えます。山登りをすると、健康になるし、だんだん慣れてきて、登り方や歩き方のコツもわかってくる。いいかえれば、本の読み方、本との向き合い方がわかってきます。さらにまた、山頂にたどり着くと、平地では見られない風景や景色を一望できますが、これは要するに、社会・体制の構造を見通すこと、いわば認識と思考の地平を拡張し、バージョンアップすることを意味します。

 このような意味において、本を読むことは、山に登ることと原理上同じ行為・活動だと思います。われわれが必ず山に登る必要があるわけではないのと同様に、必ず本を読む必要はありませんが、山頂から広がる風景・景色を眺めたい(認識と思考の地平を拡張したい)ならば、山に登る(本を読む)ほか道はありません。多少厳しいことをいってしまえば、みなさんご存知のように、大事なことはただでは手に入らない(ただより高いものはない)、ということなのかもしれません。

 ──いい話で締めくくれましたね。今日は長い時間ありがとうございました。

(収録・2025年4月末日)


海大汎  (ヘ・デボム)

1986年ソウル生まれ。2020年北海道大学大学院経済学院博士後期課程修了。博士(経済学)。現在、大分大学経済学部准教授。著書に『貨幣の原理・信用の原理──マルクス=宇野経済学的アプローチ』(社会評論社,2021年)。