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アブラヤシの影の中で

──西パプア・マリンドにおける分散する諸存在論

 

ソフィー・チャオ

 

 

訳者解題

 本論考「アブラヤシの影の中で──西パプア・マリンドにおける分散する諸存在論」は、Sophie Chao. “ In the Shadow of the Palm: Dispersed Ontologies among Marind, West Papua”. Cultural Anthropology, 33(4):621-649.2018の日本語訳である。
 著者のソフィー・チャオ氏は、東南アジアにおける環境ガバナンス、気候変動、人権の交わりを研究する文化人類学者。現在、シドニー大学のDiscovery Early Career Researcher Award (DECRA)の研究員と人類学講師として勤めている。研究テーマは、開発人類学、環境人類学、政治生態学、マルチスピーシーズ人類学。環境政治学、自然保護政策が地域社会に与える影響、気候変動の緩和策と適応策の交渉における課題など、これらの分野に関連するさまざまな問題について執筆している。そうした研究に加え、研究コンサルタント、国連開発計画、世界自然保護基金、森林民族計画など、国際機関や非政府組織にも携わってきている。
 著作に、In the Shadow of the Palms: More-Than-Human Becomings in West Papua .2022, Duke University Press や Hunger: An Indigenous Theory from West Papua. 2023, Chicago University Pressなどがある。

 

 本論考では、ニューギニア島の先住民が、人間以外の存在(アブラヤシという植物)によって引き起こされる環境の負の変容にどのように関わっているのかを、人類学の存在論的理論およびマルチスピーシーズ民族誌のアプローチに基づいて記述分析している。
 チャオは、インドネシアの西パプア州に暮らし、狩猟、採集、漁労を生業としてきた先住民マリンドの人々と植物の関係性に焦点を当てる。世界一のパーム油生産国であるインドネシアの政府は、アグリビジネスによるプランテーション開発を進めてきた。西パプアでは、国内および国際市場向けの食糧と燃料の生産を目的とした大規模事業・メラウケ総合食糧エネルギー農園(MIFEE)を推進してきている。
 こうした動きは、国家や企業にとって莫大な利益を生み出す一方で、マリンドが従来暮らしの糧を得ていた森林を開墾し、そこに近代の軍隊のように、無数のアブラヤシを幾何学的に植え並べていくという、ある種の暴力の引き金にもなっている。
 マリンドの宇宙論においては、森林が「諸自己の生態学」(Kohn 2013)を構成し、 人格が植物や動物にまで拡張されている。マリンドの人々にとっては、アブラヤシは、特定の行為主体性や情動を授けられたある種の人間(person)であると同時に、非道徳で侵略的な行為者としても立ち現れる。
 チャオは本論考の中で、植物に対するマリンドの存在論的な理解が、人間や非人間のさまざまな存在に分散していることを明らかにしている。彼女は、豊富な民族誌的データに基づいて、マリンドのサゴヤシをめぐる理解は、西洋の科学的知識とは根本的に異なる自然界の捉え方、関わり方を反映していることを論じていく。マリンドの人々はサゴヤシを単一種として見るのではなく、それを取り巻く広範な生態系や社会システムと切り離せないダイナミックな「マルチスピーシーズ的アッセンブリッジ」の一部として認識しているという。

 

 本論考は、大きく分けて、二つのポイントがある。
 一つは、存在論的な視点とマルチスピーシーズ的な視点を掛け合わせることの可能性と限界に踏み込んで検討している点である。チャオはまず、アブラヤシという植物を「行為主体」として捉えるには、どうすればいいかを問う。彼女によれば、存在論的視座は、マリンドが人格を非人間の他者に拡張するというコスモロジーを、いわば「マリンド的存在論」として、つまり一つの「真実の表現」として捉えることを可能にする。しかし存在論という枠組みだけで語ると、諸社会・文化間に深い認識的分断を生んでしまう危険がある。そこで、マルチスピーシーズ的視点を採用して、とりわけ、生物学や生態学の知識に基づく学際的アプローチを用いて、人間以上の世界を捉えようとする。しかしそうすると今度は、マリンドやプランテーションを取り巻く地政学や歴史的背景など、重要な社会政治的過程が看過されてしまう。存在論とマルチスピーシーズの議論は、それぞれ強みと弱みを持ち合わせており、チャオは両者を紡ぎ合わせうる概念として、「分散する諸存在論」を提唱して、マリンドを取り巻く現実を理解するための一つの理論的枠組みを提案している。
 二つ目のポイントは、アブラヤシのような植物を「行為主体」として捉える際に、「愛なき他者」という概念に注目する必要があるという主張である。チャオの指摘するように、これまでのマルチスピーシーズ人類学や環境人文学は、人間以外の動植物や菌類やモノを、愛ある他者、愛すべき他者として捉える傾向が強かった。しかし、植物(サウィット)が引き起こす悪夢や病気、実在論的不安が示すように、マリンドにとって、非人間の他者は、時に計り知れない暴力を振るう存在でもある。調査地であるカラオヤム村が直面している破壊や絶望に光を当てることで、チャオは、ロマンチックな共生論や近視眼的なマルチスピーシーズ民族誌に対して疑問を投げかけていく。サウィットは、必ずしも嫌われ者であるわけではない。村人の中には、故郷から追い出されたサウィットに同情する者もいる。チャオは、人間と非人間の絡まり合いを理解するには、そうした関係性に内在する「負の経験」に着目するだけでなく、関係性そのものが流動的かつダイナミックな過程を含んでおり、常に変動し続けていることを忘れてはならないと論じている。共訳者は、本論考の理論的貢献は、一つ目のポイントよりもこちらの二つ目のほうにあるのではないかと考えている。

 

 本論考の翻訳作業は、張威(立教大学大学院)と田代周平(オーフス大学大学院)で分担して進めた。訳文・訳語および内容理解に関してコメントをいただいた奥野克巳(立教大学)氏には、この場を借りて謝意を表したい。

 

 


要旨

 本論文では、西パプアの先住民であるマリンドが、彼らの慣習的土地や森林における大規模の森林伐採とアブラヤシの拡大によってもたらされた根本的な社会・環境的変容を、どのように概念化するかを探る。マリンドの生活世界の生態学の中で、アブラヤシは、ある種の人間を構成しており、特定の行為主体性や情動を授けられている。他の種との共生的社会性に参加しようとしないことは、人間を含むダイナミックなマルチスピーシーズ・コスモロジーに生息する生命形態のウェルビーイングを危機に晒す。本論文では、存在論的理論、およびマルチスピーシーズのアプローチから、遠隔地にいる人々が、人間以外の行為者によって引き起こされる環境の負の変容にどのように参与しているのかを示す。植物的存在が自身の特定的かつ破壊的な例外性を持つような文脈においては、人間例外主義の諸仮定に疑問の眼差しを投げかける必要性が出現する。愛されていないより、むしろ愛のない人間以外の種にもっと注意を向けるべきであると主張することで、存在論の人類学とマルチスピーシーズ民族誌を組み合わせることによって生じる認識論的摩擦を検証する。また、増大する社会的および生態学的な不確実性に抗して闘う人々のためのアドボカシーの現実世界における、これらの理論的立場の含意にも注目する。
[マルチスピーシーズ民族誌;存在論の人類学;西パプア;アグリビジネス;アブラヤシ]


 

 

 西パプア・メラウケのカラオヤム村に住むマリンドの若い女性ロサリナ[mfn]名前はすべて仮名である。[/mfn]は、マンゴーの老木の下で、青白く疲れた様子でしゃがみこんでいる。これで、アブラヤシに食われるのは、三夜連続である。しかし昨夜、彼女は死んだ。彼女の言うには、

 

「真っ暗闇の中、家族と一緒にプランテーションにいたの。アブラヤシ(西洋の科学的分類ではElaeis guineensis Jacquin、インドネシア語ではsawit)[mfn]カラオヤムのマリンドの多くは、互いに、また近隣の民族グループとは、バハサ・インドネシアでコミュニケーションを取っている。本論文では、英語以外の用語がインドネシア語かマリンド語かを示している。[/mfn]に囲まれた大きな輪の中でひざまずいていた。首を曲げ、両手は背中で縛られ、足は裸足だった。見なくても、父がそばにいるのを感じていたわ。他の人たちは知らなかった。何人かは頭に袋をかぶり、首を縄で縛られていた。皆、完全に沈黙していた。何も聴こえなかった…
 長い間、何も起こらなかった。まるで時間が止まってしまったかのように。時間は、アブラヤシに食べられてしまったの。そのとき、私たちを取り囲んでいるサウィットsawit)の木の中に、アブラヤシの木ではなく、兵士が混じっていることに気づいた。サウィットは軍隊のようなもので、黒と緑の斑点がある。人を殺すし、強力だ。パプアではなく、インドネシアのもので、私たちを食べる。サウィットの棘は銃剣の刃のように鋭く、その実は弾丸のように硬くて丸い。そして、血のように赤い。その時、一発の銃声が暗闇の中に鳴り響いた――大きく、かつはっきりと。バン! 父が私のそばで倒れた。サウィットが彼を殺したのか? そしてもう一発。バン! そばにいた人が音もなく地面に崩れ落ちた。サウィットなの? そして最後に撃たれたのは私だった。私たちを撃ったのは軍人だったのか、それともサウィットだったのか。どちらでも変わらないのかもしれない。そう、私は昨夜死んだはずなのよ」

 

 「アブラヤシに食われる」、あるいは「アブラヤシに撃たれる」という悪夢は、大規模な単一作物の拡大が進むメラウケのビアン川上流域に住むロサリナのような多くの先住民マリンドの人々を苦しめている。世界一のパーム油生産国であるインドネシアの政府は、国内および国際市場向けの食糧と燃料の生産を目的とした大規模事業・メラウケ総合食糧エネルギー農園(Merauke Integrated Food and Energy Estate、以下MIFEE)の一環として、アグリビジネスによるプランテーションを推進するようになった(Awas MIFEE 2012)。その計画のもとでは、100万〜200万ヘクタールの森林と湿地帯が、主にアブラヤシ栽培のために民営化された土地使用権(concessions)に転換されることになっている。

 「アブラヤシに食われる」夢では、プランテーションでの迷子、暴力的または突然の死、孤独、飢餓などのモチーフが繰り返し見られる。夢見る者たちは方向感覚を失い、時間の経過を感じられなくなるという。ブルドーザーや軍隊、アブラヤシそのものと一緒に霊や死者が現れ、アブラヤシの果実が癌腫のように皮下で増殖し、人体は醜く変形してしまう。カミソリの刃のように鋭いヤシの棘は、腱と筋の間に潜伏し、夢見る者の内臓の奥深くから放たれた矢のように皮膚に穴をあけ貫通する。女性にとって「アブラヤシに食われる」ことは、拷問のような出産を通じ、怪物のようなアブラヤシの子どもを、時に死産で産むことを意味する。こうした夜間の不快な体験は、私がフィールドワークを行ったカラオヤム村のマリンドがアブラヤシに帰する数多くの暴力行為の一つにすぎない。ここでは、アブラヤシという植物は、極めて破壊的な性格を持つ一種の行為主体的な植物=人間として立ち現れる。

 本論文では、アブラヤシがカラオヤム村の住民の暮らしの一部となったことの存在論的意味を、彼らの既存の動植物との諸関係や、西パプアのより広い社会政治的文脈に照らして探る。アブラヤシは、文字通りの意味でも比喩的な意味でも「新参者(neophyte)」(ギリシャ語のneos「新しい」、phuton「植物」)であり、森の複数種のコスモロジーを脅かす。イザベル・ステンゲルス(Stengers 2010, 35)のいう「相互の引きつけ合い(reciprocal capture)」、つまり、各主体が、他者が存在し続けることに関心を持つアイデンティティ構築のプロセスに、参与しようとしないからである。その代わり、アブラヤシの利己的で執拗な増殖活動は、道徳的に価値ある種間の利害(interessement)関係――互いのアイデンティティに関与し維持し合う過程において、異なる主体の役割を固定化することを指すミシェル・カロン(Callon 1986, 17)の用語――を妨げ、なし崩しにしてしまうのである(Marder 2013, 131-38やKirksey 2015, 196-203も参照のこと)。

 行為主体的な自己をアブラヤシに拡張することは、マリンドが人格をヒトという単一種よりも、むしろ複数種の特質として概念化していることと整合する。マリンドと祖先を共有する動植物を含め、人間(person)には感覚や思考が備わっており、それは行動や振る舞いを通じて表現される。例えば、移動や繁殖、成長、自己維持の様式などがそれに当たる。これらの人間は、また、他種との身体的な関係、特に皮膚などの肉体や、血や水、樹液などの体液の交換や接触を通じて存在するようになる。このような種間の共通性は、人間以外のアクターを社会的ネットワークに取り込む多くの先住民に共通する認識であろう。例えば、メラネシアやアマゾンでは、植物は親族や代理の子どもとして人格化されたり、男性や女性として分類されることがある[mfn]Nimuendaju 1939, 90および1946, 60; Tuzin 1972, 234; Seeger 1981, 105; Kahn 1988, 44; Battaglia 1990, 49; およびGregor and Tuzin 2001, 8を参照。[/mfn]。植物の性的描写は、子作りや性別による分業と同様に、人間のライフサイクルや社会的再生産と関連した植物の成長段階と結びつけて考えられることも少なくない[mfn]Malinowski 1935, 52–55; C. Hugh-Jones 1979, 114–132, 200–217; S. Hugh-Jones 1979, 165–73; Descola 1997, 93–98; Heckler 2004, 243–48; およびDundon 2005を参照。[/mfn]。しかしこれらの記述では、在来種の植物は大きく取り上げられる一方で、ビアン川上流域のアブラヤシのような外来種(あるいは侵入種)は注目されてこなかった。外来植物には、現地のコスモロジーにおいて確立された地位を持つ植物と同じような道徳的属性が与えられていないことも多い。さらに、種間関係に関する民族誌の資料は、人間以外の生き物の現象学的な生活世界よりも、人間の行為主体性に主な焦点を当てがちである(Schneider 2013を参照)。植物が、人間の交換や資源利用システムにおける単なる食材としての機能や象徴性の観点から研究されてきたのが良い例である(例としてFox 1977, Kahn 1986, Eves 1998)。

 近年、行為主体的な人間やモノとしての植物性生物、あるいはルイス・デイリーら(Daly et al. 2016)が「植物的諸存在論(botanical ontologies)」と表現するものに再び注目が集まりつつある。本論文は、自然=文化の境界地帯における動物や植物、菌類、微生物の行為主体的な生活世界を探求する新たな学際的潮流であるマルチスピーシーズ民族誌の手法と関心(Kirksey and Helmreich 2010[カークセイ、ヘルムライヒ 2017])から、「植物的転回(plant turn)」(Sheridan 2016, 39)に貢献するものである。マルチスピーシーズ民族誌の議論の多くは、人間が「共=生成する」(Wright 2014)多様な生物の経験的領域の中に「情熱的に没入すること(passionate immersion)」(Tsing 2011, 19)を呼びかけてきた。それによって、人間例外主義という観念を置き換え、疎外されたり搾取されている他種の立ち位置を再び取り戻そうとするものである。

 植物と人間の出会いを探究する研究は、マルチスピーシーズの枠組みにおいても定着しつつある(例: Hustak and Myers 2012、Schrader 2012、Berrigan 2014、Myers 2015、Tsing 2015[チン 2019]、Hartigan 2017)。しかし、人間以上の存在についての議論は、主に動物に焦点を当てた研究が中心となっており、多くの場合、西洋、都市部、または技術科学的な環境で実施されてきた。例えば、大量生産の回路内の「活気ある資本」(Sunder Rajan 2012)に関する研究は、主に動物の商品化(例:Collard 2014; Lien 2015; Beldo 2017; Blanchette 2017)に焦点を当てる一方で、商品作物の生産や、植物自体に対する倫理的意味合いは盲点となってきた[mfn]農業と植物の栽培化に関しては、膨大な人類学的文献が存在する一方で(例えば、Morgan 1877[モルガン 1958]; Childe 1928; Smith 1995)、関与している植物の主体性や行為主体性を調査した学者はごくわずかである(例えば、Mendum 2009; van Dooren 2012; van der Veen 2014)。[/mfn]。ジェームズ・ワンダーシーとエリザベス・シュスラー(James Wandersee and Elisabeth Schussler 2001)が「植物に対する盲目性(plant blindness)」と表現するように、植物を道徳的視野から排除することは、西洋文化において植物性生命体が固着性で意識を持たず、痛みも感じず、ゆえに人間や動物を特徴づける活力を欠いていると広く認識されていることに起因すると考えられる(Hall 2011; Marder 2013も参照のこと)。

図1. アブラヤシの成熟した新鮮な果実の房
以下、すべて写真提供:ソフィー・チャオ

 本論文では、「人里離れた場所(out-of-the-way place)」(Tsing 1993)に住むパプア先住民の視点を探ることで、西洋や動物を中心とするマルチスピーシーズ民族誌に対し、一つの対案を提示する。現在、極めて非道徳で侵略的な植物=人間の出現によって、彼らの親族でもある森の生物たちとの愛ある関係性が危機にさらされている。環境人文学の学者たちは、他種に対する愛を育むことの必要性を説いているが、私の研究協力者の多くは、暴力的なほどに愛のない植物存在に立ち向かっているのである。さらに、メラウケにおける植物と人間の関係は、人間を脱中心化し、他の生き物の繁栄を促すというマルチスピーシーズ的取り組みに問題を投げかける。このようなアプローチは、人々に害を与えている植物と同盟関係を結ぶことを意味する。またそうした人々は、彼ら自身「人種化するアッセンブリッジ(racializing assemblages)」(Weheliye 2014)の歴史的犠牲者として、殺害、あるいは収奪の対象とされてきたのである。そのため、アブラヤシに関するマリンドの複数的な視点を捉えることは、暴力をマルチスピーシーズ的観点から再考することにもつながる。アブラヤシの異常なまでの破壊性は、一部の人間以外の生物の愛のない(unloving)性質と、誰・何が愛情的(loving)かとみなされるかに関する状況性(situatedness)を露呈している。このような情動的なカテゴリーを、人間か人間以外かという二項対立に還元することはできない。また、暴力の加害者が常に人間であると仮定することもできないのである。

 

いつも腹を空かせている、サウィットには友人も家族もいない

 カラオヤム村には、約200世帯のマリンドが暮らしており、彼らは主に狩猟、採集、漁労で生計を立てている。マリンドの宇宙論においては、森が「諸自己の生態学」(Kohn 2013, 16)を構成し、自己が植物や動物に拡張される。各氏族(マリンド語:bawan)は、祖父母(amai/アマイ)あるいは兄弟姉妹(namek)の種に関係づけられており(van Baal 1966を参照)、氏族は種と、マリンドの人格性の概念における主要な関連性の指標である、身体の湿気(dubadub)および皮膚(igid)を共有する。人間とアマイは、互酬的ケアの日々の実践をとおして、相互の存在を持続させている。アマイは、人間に食料やその他の資源を提供することで、人間を支えるために成長するのである。その見返りに、マリンドは、森林の中でアマイと関わり合う時には敬意と自制を発揮し、彼らの物語を思い出し、狩猟し、採集し、そして消費するのである。

 マリンドは、景観を横断しながら、アマイの存在と活動に同調する。アマイの多様な生活様式と関係性が、森林に時間的、道徳的、および情動的な質感を与えている。人々は、それぞれのアマイが定住し、休息し、狩猟し、戦った場所を通じて、親族関係をたどるのである。とりわけ、サゴヤシは、豊穣と栄養の象徴かつ供給源として祝福される。サゴヤシの繁殖は、景観における慣習法上の土地[訳注:先住民のコミュニティによって所有され、彼らの慣習に従って管理される土地を意味する]の境界と自然資源の利用を規定し、デンプンを管理、交換、消費する人々の間に根付いたアイデンティティを生み出す(Ellen 2006; Stasch 2009, 25-30も参照)。マリンドが、サゴの木立の中で汗を流し、働き、そしてともに食べる時には、互いの社会的関係を肯定するし、そのことは、サゴとその共生生物(symbiont)の成長を観察することに喜びを感じる――すなわち川や森の土と一緒になって、木立に生命を生み出す湿潤さを与える。森や木立は、人間と植物と動物の親族とのダイナミックな関係から創出する。そして、その人間と植物と動物の親族たちは、生命を分かち合う共同体、あるいはマーシャル・サーリンズ(2011, 2)が「存在の相互性(mutuality of being)」として描いたもののメンバーとして、互いの実存に参与する。

 

図2. サゴの木立まで歩くマリンドの家族

 それに対して、サウィットの土地と水に対する底無しの食欲は、非互酬性と貪欲さによって特徴付けられている。森林の有機体は消滅してしまう。というのは、広大な帯状の森林が焼失されたり、伐採されたりし、かつ単一の植物に支配される1万から10万ヘクタールの土地使用権に置き換えられるからである。サウィットは、土壌をかじり取り、侵食、摩耗および沈殿を引き起こす(Obidzinski et al. 2012)。2015年から2016年にかけて、長期の干ばつがメラウケを苦しめたとき、老いも若きも、サウィットが川の湿気(水分)を飲み干し、この未曾有の事態を引き起こしたのだと断言した。20代の男性アントニウスは、ブルドーザーが森を切り開いて灌漑用水路を作ったことを説明しながら、ビアン川の流路変更によって人間、マングローブおよび動物がいかに干からびた状態になってしまったかを指摘した。彼は、破壊されたサゴの木立で、乾燥した土の塊を拾いながら、サウィットとスアンギ(suanggi)、つまり黒魔術の加害者たちを比較した。アブラヤシが森林の湿気を奪うのと同じように、スアンギは犠牲者の体が乾燥するまで体液を搾り取って攻撃し、彼らの差し迫った崩壊と死を前に、もろくなった皮膚の殻だけを残す。

 サウィットはまた、それが処理される工場からの排水で水路を汚染している。中年の小学校教師であるセリーは、3人の子どもに食べさせる魚が捕れなかった後、ビアン川の濁った水面を指差して、固有種の魚や両生類がいかに濁った環境の中で「行き場を失っている」かを教えてくれた。水中では、酸素の供給が、水生生物多様性から急速に成長する藻類に振り向けられるため、河川の生物は「毒に酔う」ようになり、富栄養化に苦しむことになる。一方陸上では、陸上生物の皮膚が、飲み水や浴びる水にしみ込んだ農薬による刺激を受けて腐敗してしまうのである。

図3. 皮膚感染症は、アブラヤシの拡大によって引き起こされる、場所の「干上がり」の徴候でもある。

 サウィットの飽くなき貪欲さは、孤独な存在様式を伴っている。私たちが2万ヘクタールの私有地を車で通り過ぎると、アントニウスの兄弟のユリアヌスは、画一的な景観と森の多様な動植物を対比させ、サウィットには「友人がほとんどいない」「一人でいるのが好き」と結論付けた。実際に、低い樹冠、薄い下草、不安定な微気候、高温、および頻繁な化学噴霧によって特徴付けられるアグリビジネスのプランテーションにおいて、サウィットの「伴侶種」(Haraway 2008[ハラウェイ 2013b])となることができる生き物はほとんど存在しない(Fitzherbert et al. 2008)。原生林からプランテーションへの転換は、生息地の断片化と生物多様性の損失を増大させ、種の移動を妨げる障壁を形成する(Meijaard and Douglas 2013)。

 しかし、カラオヤム・コミュニティの多くのメンバーがアブラヤシの拡大を抑制しようと努力しているのと同時に、都市に住む親族やNGOの職員から、自分たちが日常的にパーム油を含む食品や商品を使用し、かつ消費していることを学んでいる――例えば、インスタントラーメン、ケチャップ、シャンプーおよび石鹸などである。小学校の教師であるマリア・マフゼは、学校祭で使うビスケットを買うために地元の売店に並んでいたときに、「私たちはサウィットが嫌いだが、毎日食べている。私たちには選択肢がない」と認めた。パーム油は、一般的な植物油、あるいは200種類以上の有機化合物のうちの1つとして表示されるため、原料として識別することが困難であるという事実によってさらに悪化している[mfn]ここでは、http://www.palmoilinvestigations.org/names-for-palm-oil.htmlを参照。[/mfn]。マリアは、悔しくてビスケットの包みをくしゃくしゃにしながら、「サウィットはそこら中に存在するが、隠れるのが本当に上手い」と指摘した。

 

栽培種であり、かつ外来種である

 私が森でよく一緒にサゴを作った50代後半の助産師ペルペトゥアは、アブラヤシと彼女の一族のアマイである竹を対比して説明することが多かった。竹は野生かつ土着の存在であるのに対して、「サウィットは栽培化され、かつ外来である――ここで成長するけれども、根っこは別のところにある」。この言葉の根底には、マリンドにおける複数種の人格形成の中心をなす二種類の区別――野生的なもの(インドネシア語ではliar)と飼い慣らされたもの(pelihara)、そして土着(asli)と外来(pendatang)――がある。

 土着であるということは、ある程度の野生性と、それを通じた自由を保持していることを意味する。個々の自立性を尊重することと、相互の関係を構築することのバランスを保つために、様々な形で抑制されたケアが行われる。例えば、植物の成長を過度に操作して自由を奪う園芸に対して、マリンドの人々は消極的である[mfn]この法則の唯一の例外は、カヴァとブタである。これらはそれぞれ大規模な集会と饗宴のために、儀礼用食材としてマリンドによって栽培・飼育されている (Verschueren 1970, 45).
[/mfn]。その代わりに、マリンドは、動植物のウェルビーイングに資する環境を整える「最小限の操作(minimal manipulation)」(Groube 1989, 300)という間接的な行為に従事する。例えば、樹冠を薄くし、樹木の根元から着生植物を取り除き、吸枝の成長を阻害する植物を燃やすことで、サゴの成長を支えている。同じような原理で、マリンド自身も相互関係を形成している。人々は集団的な交換行為を通じて諸関係を作り上げるが、同時に、思考や行動の自律性を侵害するような方法で、他者に自分自身を押し付けることを能動的に避ける。

 社会的諸関係の焦点としての他者性(Stasch 2009 参照)は、このようにマリンドの間で種の境界の内側で、かつそれを跨いで作用する。それぞれの有機体は、生物自身の意志に基づく成長と関係性の様式の産物であると同時に、抑制されたケアという複数の人間的行為の産物でもある。複数種の社会的・生態的ネットワーク(Collard 2014, 154)の中で、自律的であり、かつ互いに関連し合いながら生きる存在の能力を尊重することにより、人間と彼らの森の親族との間に愛情に満ちた関係を築くことができるのである。

 これに対して、農業、より具体的に単一栽培は、自然の多様性を犠牲にし、人間の目的のために環境を根本的に再編成し、単純化することを意味する(J. Scott 1998, 2; Tsing 2011, 19; Marder 2013, 55)。実際、単作のプランテーションモデルが好まれるのは、収穫される作物のサイズ、寸法、産出高が均一であるため、均質な市場商品の基準を満たし、それによって収益変動のリスクを軽減するためである(J. Scott 1998, 18)。アグリビジネスによる栽培は、愛情に満ちた種間関係を可能にする抑制されたケアの倫理を破壊し、代わりに、極端な栽培の形式、または暴力的なケア――価値ある野生性の「裏返し(flip side)」(Tsing 2005, 30)を具現化する。サウィットが制御できないまま増えていくと、ある種、存在論的には最も上にある重々しい断片になってしまう。その状態では、アブラヤシが一方的に自分自身の現前を他者の上に押しつけることになり、そうなると、マリンドと彼らのアマイの親族の互酬的な関係は、宇宙論的な不均衡状態に陥ってしまうのである。

 私の研究協力者の多くは、サウィットの存在論的な略奪行為を、西パプアの社会政治的な歴史の中で文脈化している。西パプアでは、継続的な国内植民地主義が、深刻な人権侵害、コミュニティの貧困化、横行する天然資源の搾取、文化的同化、そして軍備拡張と密接に結びついている(Timmer 2007参照)。特にサウィットの増殖は、かつて国が推奨し、現在は自然発生的に流入している西パプアの非パプア人(主にムスリム)入植者――MIFEEプロジェクトによる労働機会によってさらに勢いを増している(Farhadian 2005, 63)――を不気味に思い起こさせるきっかけとなっている。アブラヤシが慣習林を占拠してマリンドとその人間以外の親族に損害を与えているように、非パプア系移民もますますマリンドを数で上回るようになっており、2017年にはメラウケの人口の約68パーセントを占めるまでになった(Elmslie 2017)。

 ロサリナの夢で見たように、カラオヤムの村人の多くはサウィットをインドネシア国軍と結びつけて考えている。国境地帯のメラウケに多い軍の駐屯地や訓練場と同様、プランテーションも広大な土地にまたがり、立入は制限され、関係者以外が不法侵入すると重い処罰が下される。アブラヤシ企業の警備員や雇われた軍隊が入り口を厳重に警備しているのだが、アブラヤシの木が等間隔に並んでいる様子は、まるで規律正しく見た目も身長も同じ従順な兵士の連隊のようでもある。マリンドの若者たちは、サウィットの均質で統制のとれた成長と定期的な収穫の時間性を、行進する兵士の姿と動きに喩えることがあった。彼らはまた、軍の空間組織に関する用語が、アブラヤシ企業がプランテーションを区画、地区、棟、ブロック、梯陣などに分割する際に使用されていることも指摘した。

 歴史的に見れば、サウィットの到来は、マリンドの人々と愛なき外来の他者との長い対立の連続の中では最近のものといえる。オランダの支配と宣教師の影響により、強制的な定住、外来作物の栽培、またかつて氏族間やアマイとの親族関係を支えた儀礼的慣習の廃止が進んだ。移住してきた羽毛狩りは森のゴクラクチョウを根絶し(Swadling 1996, 176-99)、ウイルスや細菌はインフルエンザや性病性リンパ肉芽腫としてマリンドのコミュニティを荒廃させた(van Baal 1966, 24-25)[mfn]鼠径リンパ肉芽腫は、クラミジア・トラコマチスという細菌によって引き起こされる性感染症である。
[/mfn]。1963年に西パプアの行政がインドネシア共和国に移管された後、インドネシア人官吏、入植者、軍人が流入し、稲作やアブラヤシのプランテーション、鉱山や伐採の利権という形で大規模な景観改造が続いた(Monbiot 1989; Marr 2011)[mfn]コメは、カラオヤムとその周辺では栽培されていないため、私の研究協力者たちはコメについて議論しなかったが、コメもまた、愛情のない、非相互的な人間として考えることができると推測できるだろう。どちらの植物も大規模な単一作物として栽培されており、非パプア人の入植者によって栽培されている。マリンドは、「サゴを食ベる人」のパプア人とは対照的に、インドネシア人のことを「米を食べる人」と呼び、コメと関連付ける。アブラヤシと同様に、コメもまた、西パプアの経済的かつ文化的開発の鍵でとして、国家の言説で促進されている。
[/mfn]

 この観点から見ると、サウィットが引き起こす暴力は、この地域が強制的にインドネシア国家に統合されて以来、西パプア人が耐えてきた集団的苦痛と抑圧を示すために用いる用語、メモリア・パッシオニス(memoria passionis)の最近の発露であるといえる(Hernawan and van den Broek 1999, 8)。サウィットは国家の「生物学的同盟者」として、この地域の継続的な支配に参加している。この用語は、アルフレッド・クロスビー(Crosby 200352)が提唱したもので、地理的領域を越えて人間の植民者とともに移動しながら繁栄した植物や動物のことを指す。メラウケの土地使用権の境界が増え続ける中、この外来・侵入植物の拡大を支配する権力は、この国の政治の中心であるジャカルタに深く根を下ろしているのである。

 

その家族はどこにいるのか、その家はどこにあるのか

 サウィット・プランテーションは、国家と企業のプロジェクトのネットワークに新たに加わったもので、クリス・バラード(2002)が西パプアのフリーポート銅・金鉱山近くのアムンメで調査したものと同じように、恐怖の地形を構成している。プランテーションは、この広範なネットワークの他の結び目とともに――道路、軍隊駐屯地、売店および診療所など――イザベル・ステンゲルス(2010, 29)の言う意味でのファルマコン的であり、その効果は不確かで、毒にも薬にもなる。例えば、プランテーションには先住民の土地所有者に対する魅力的な補償パッケージや福祉計画および雇用機会が用意されている。しかし実際には、アブラヤシ企業は、資金や善意の欠如により、これらの(主に口頭での)合意のほとんどを実行しなかったし、さらには、結果は、共同体の期待を満足させるものにはならなかった。企業は、農村を近代的かつ文明的なライフスタイルに統合する手段として、アグリビジネスを推進する。その代わり、厳密に守られた境界によって仕切られた幾何学的な私有地は、人間を彼らの親族の種から切り離す。加えて、本来場所や人格が意味を獲得するのを推進するはずの複数種の動きを阻止するのである。 

 パプアニューギニア高地では、ポルゲラの人々は金採掘とその道徳性を帯びた宇宙論的および社会的影響のために、「土地が終わりつつある」と断言している(Jacka 2015, 240)。カラオヤムのコミュニティのメンバーにも類似の表現があり、彼らはサウィットの出現によって時間が「終わりつつある」または「干上がる」と断言している。私の研究協力者の多くは、この急進的な時間の断絶を証拠として、森林の有機体の消滅を指摘する。例えば、破壊された聖なる森の瓦礫の中を歩いていたとき、動物の鳴き声を真似るスキルで知られる70代の年長者であるマルクスは、夜明けと夜を告げる鳥の鳴き声が稀になっていることを指摘した。果実の成熟、鳥や動物の移動、魚や両生類の繁殖の時期が無期限に停止したため、狩猟、漁労、採集が難しくなったのだ。サウィットは、森林の有機体に均質な成長という単一的な時間を押し付けることで、それらの生命の異なる時間性およびそれらの存続と関係の可能性そのものを阻害している。その増殖は、空間的に経験された過去を消し去り、その結果、意味のある現在の可能性を阻み、失われつつある森林のいくつかの生命共同体が共有する未来を阻むのである。

 サウィットの存在論は、ある種の二重化を構成している。一方では、意味がほとんど飽和状態にある。そのことは、空間や時間に対する破壊的な影響と、森の中の多種の関わり合いの道徳的に価値ある互酬性に関連している。他方、カラオヤムの住民の知識不足に由来する根の深い曖昧さという特徴がある。彼らには、サウィットが何を欲しているのか、どこからやって来たのか、彼らはどのようにサウィットと関係を築くのかといった知識がないのである。かつてメラウケ市の近くで米の栽培プロジェクトに携わっていたルーベンという若者は、サウィット自体はこの2、3年で植えられたばかりで、まだ初期段階にあると指摘した。ルーベンが言うように、「サウィットはまだ子ども」であり、その成長の仕方についてはほとんど知られていないのである。この植物のアンビバレンスは、カラオヤムの村人たちがサウィットの人間の片割れと出会わないことによって高められている。アブラヤシ生産の性質は、プランテーションの労働者が少なく、季節的でかつ広大な土地に広がっていることを意味する。上層の企業職員は、プランテーションの居住区、工場およびオフィスに居住しており、会社の作業員へのアクセスが制限されている。

 サウィットの存在論の曖昧さは、私の研究協力者の間に広範な好奇心を引き起こした。多くの人が、パーム油の生産に関わるプロセス、労働者、アクター、および制度についての情報を求めて、教会組織、NGO、そして私に目を向けた。彼らは、アブラヤシが、苗床からプランテーション、さらには工場、精製所、スーパーマーケットの棚に至る過程において、どのように植物から製品へと変化していくのかに興味を示した。マリンドの若者は、彼らの慣習法上の土地で育てられたパーム油を最終的に購入する国やコミュニティについて、よく私に尋ねた。私の友人たちは、サウィットの破壊的な影響と、彼らと森林の有機体との関係を特徴づけるケアの互酬関係を対比する際、サウィットが他の場所で、他の時に、他の伴侶種たちとともに、「野生を経験したことがある」のか、それとも「自由になるのは何か」について考えを巡らせていた。上流のミラヴ村出身の老未亡人エレナ・バラガイゼは、発芽したばかりの苗木を積んだトラックがメラウケ市から道路をゴロゴロと音を立てて進むのを目の当たりにして、こうつぶやいた。「サウィットにも家族と家があり、遠く離れたところにある。その家族はどこにいるのか、その土地はどこにあるのか? 恋しくないのだろうか? 彼らのもとに戻りたいとは思わないのだろうか?」。

図4. メラウケ州の大部分では、アブラヤシのプランテーションはまだ初期段階にある。


 サウィット
の不透明さは、カラオヤム・コミュニティの多くのメンバーに、恐怖や怒り、嫌悪感を与えている。彼らは、サウィットが、他種の世界を絶滅させてしまうことの不安なしに、栽培化された状態で繁栄していると主張する。しかし、アブラヤシは進歩と発展の可能性も秘めている。プランテーションを支持する土地所有者は、地域経済の発展と国家の食糧安全保障に貢献し、バイオ燃料に飢えている欧米諸国に食糧を供給することに誇りを持っている。アブラヤシは、破壊的かもしれないが、遠く離れた場所、人々、そして利益との新たなつながりをもたらす可能性を与える。他者性は、サウィットの身体の中で、憧れと嫌悪の相反する対象として融合している(Rutherford 2003を参照)。

 さらに、村人の中には、サウィットが故郷から強制的に追い出され、人間の圧倒的支配下に置かれていることを哀れに思っている人もいる。例えば、私たちがコミュニティホールに座って、近くのアブラヤシのプランテーションを撮影したドローンの映像を見ていたとき、ユリアヌスは、単一栽培の景観の中でサウィットが「孤独」を感じたことはあるのだろうかと考えたのである。彼の妹であるエヴェリーナは、その言葉を聞き、プランテーション経営者によって組織された最近の協議を思い起こした。その間に、彼女は、アブラヤシの種子が、人間によって遺伝子組み換えされ、ビニール袋や工業用苗床で育つように作られていることを知ったのである。25種類以上の農薬がそれらの成熟を刺激するために使用され、かつ成長に失敗したものは一斉に処分された。エヴェリーナは、「孤児」と呼ばれるこれらの親族のいない種子を哀れんでいた。なぜなら、それらの成長と発達(そして最終的には死)が自由に起こるのではなく、むしろ完全な人間の支配下にあったからである。同様に、第一子を出産したばかりの少女マリアナは、アブラヤシの実――あるいは「サウィットの子」(インドネシア語: anak sawit)――の運命に悲しみを表した。収穫の間に両親から引き裂かれ、過積載のトラックに「死体のように」あっさりと投げ込まれるのを見たのである。

図5. アブラヤシのプランテーションのために伐採された森林。


 サウィット
は、マリンドの土地、川、森林、および人間以外の森の親族関係を食べているため、ビアン川上流域の住民に暴力を振るう。しかし、植物自体も暴力的に操作され、利用され、その源から遠く離れた身体や乗り物によってカロリーや可燃物として燃やされているのである。近代の火葬壇(pyre)で消費されるサウィットは、マイケル・マーダー(Marder 2014)が現代の「パイロポリティクス(pyropolitics)」[訳注:グローバルな生産体制における、火などの地球環境資源の役割をめぐる政治]と呼ぶものの犠牲者であると同時に推進者でもある。そして、アブラヤシ企業が整地目的で行った実際の火災が、ビアン川上流域の景観を破壊すると同時に、サウィットもまた、それについて推測するカラオヤムの住民の想像力の中に、深い敵意と好奇心を野火のようにかき立てるのである。

 

存在論とともに輾転反側する

 アグリビジネスに関する民族誌は、主に労働者や小農としてプランテーションセクターに関わる農民グループの経験に注目してきた(例えば、McCarthy 2010; Dove 2011; Li 2014; Tammisto 2018)。一方、ビアン川上流域では、村人たちはアブラヤシの生産現場や生産回路から排除されているにもかかわらず、アブラヤシの絶え間ない拡大に苦しんでいる。何より、アグリビジネスがもたらす悪影響は、アブラヤシの拡大を推進する人間や制度ではなく、アブラヤシそのものに帰されるのである。植物が暴力的で、人間がその暴力性の犠牲となる世界において、植物を主役に据えることで明らかになるのは、人間例外主義が、数多く存在する破壊的な例外主義の一つのたぐいに過ぎないことであり、そこでは人間以外の生命体が「愛されない他者」(Rose and van Dooren 2011)ではなく、むしろ「愛さない他者(unloving others)」として出現するかもしれないのである。

 行為主体的な生命体が数多く存在する中の、あるたぐいの自己として自らを位置づけるマリンドは、存在論的人類学やマルチスピーシーズ民族誌の理論を前進させているポストヒューマン的倫理を体現している。ビアン川上流域の植物=人間の諸関係によって明らかになった洞察が示すのは、例えば、尊敬、責任/応答能力、没入、ケアといった、マルチスピーシーズ的アプローチにおける中心的な倫理原則が、マリンドのように、人間以外の存在を社会的関係性の中に取り込んでいる先住民のコスモロジーから得られるものが多いということである。同時に、メラウケにおけるアブラヤシの活気ある資本としての力は、人類学者に対し、存在論的変容の過程により関心を示すよう喚起する。特に、こうしたアプローチは、例えばアブラヤシのような新しくかつ必ずしも人間ではないアクタントが、複数の存在論を横断し、破壊するだけでなく(Bessire and Bond 2014, 446)、スケールや地域を越えて、争われ、分散されていく諸現実の形成にいかに積極的に参与するのかに注目しうるだろう。このアプローチは、大量栽培もしくは飼育され、かつしばしば導入される他種――例えば、大豆、サトウキビ、ナンヨウアブラギリ、牛――が先住民の生活世界において(時には文字通り)占める道徳的立ち位置や、それらが文化的重要性の確立された土着の生命体――人間であれ、他種であれ――と結ぶ存在的な諸関係(あるいはその欠如)を探るために拡張することができるだろう。

 存在論的分析とマルチスピーシーズ的転回は、「人間的なるものを超えた人類学」(Kohn 2013[コーン 2016])を目指すという点で密接に関連しており、視点を持つすべての存在に人格を拡張する非西洋の多くの「有情の生態学(sentient ecologies)」(Anderson 2000, 116)に触発されている。しかし、知的・倫理的な原動力を共有しているにもかかわらず、サウィットの生のあり方を理解するという点では、その適合性に問題が生じる。存在論の人類学は、カラオヤム・コミュニティーのメンバーが維持するサウィットに関する多様な信念や言説を、それ自体が実在する可能性があるものとして受け止めるべきとする。他方で、マルチスピーシーズ的転回が好むように、サウィットの生活世界を学際的に捉えようとする場合、前述したような信念や言説は、マリンドによるサウィットの擬人化と見なされ、遠ざけられることになるだろう。学際的なアプローチならば、私の研究協力者の知らないサウィットの生態学的なあらゆる側面を明らかにするかもしれないし、それによって、サウィットに関する彼らの真実が、西洋科学が語るアブラヤシの特性や影響といかに異なるかを示すことになるかもしれない。

 例えば、近年のアブラヤシ生態学の進歩は、アブラヤシのプランテーションが、サウィットとの共生の方法を見出した動植物の群生を支持しうることを示している[mfn]アブラヤシと環境に関する国際会議(ICOPE)は、そのような研究発表の場の一つである。
[/mfn]。また、サウィットに帰せられる旱魃もまた、エルニーニョ・南方振動サイクルと呼ばれる大気と海洋間の温度変動によって引き起こされるものである。私の研究協力者の中には、アブラヤシが人間の支配に全面的に服従させられていると同情する人がいる一方で、私がアブラヤシのプランテーションで行った調査では、実は、育種家や遺伝学者は自分たちの操作する種子に深い感情的な投資をしていることが明らかになった(Chao 近刊予定)。さらに、アブラヤシは、カラオヤム村の人々にとって有害であるのは間違いないが、他の植物油の競合種と比べれば、土地に対する収穫率の点で最適な選択肢である――いわば「ましなほう」である――ことに変わりはない。

 もちろん、アブラヤシに対する視点がアクターや場所によって異なるかどうか、またどのように異なるかは、仮定するよりもむしろ解明されるべきものである。アブラヤシの現実は単に生態学的な狭い絡まり合いにとどまらず、グローバルな資本主義の動向や地域の地政学、国家の開発・政治プロジェクトといった歴史的に特異な状況の中に位置づけられるものである。私の情報提供者がアブラヤシを多面的に特徴づけた事実は、純粋に非宗教的かつ技術科学的アプローチでは捉えられないような、この広い現実の諸要素を捉えているといえるであろう。したがって、カラオヤム村の住民のアブラヤシに関する説明は、科学的世界観に対する代替案(だけ)ではなく、その発展形として捉えることができるかもしれない。同時に、私の研究協力者たちは、その植物の現実を、破壊の駆動力から人間の搾取の犠牲者まで、きわめて異質なものとして捉えている。彼らの現実に関する理論は常に構築されつつあり、新たな出会いや経験、知識に合わせて変化していくのである。

 西洋の非宗教的な科学的見地からすれば、アブラヤシは多くのカラオヤム村民が言うような利己的な生物ではないかもしれない。しかし、それだけで彼らの世界観を否定し、アブラヤシの繁殖を取り巻く絡まり合いだけに焦点を当てることは、政治的・文化的差別を受け続けている人々に対してアブラヤシが振るっている暴力を無視(あるいはもしかしたら再生産)することになりかねない。同時に、 別の存在論の枠組みに根ざしたサウィットを知る方法を提示しないというのも、不十分に思われる。なぜなら、そうすることにより、諸存在論間には何らかの形で境界線が引かれている、それを超えたコミュニケーションが不可能である、あるいはそうすることで情報提供者の現実に対する理論をある意味で見下したり腐敗させてしまうことを示唆することになるからである。実際、私の研究協力者たちは、メラウケ外におけるサウィットの生活世界――その起源や親族、故郷など――に好奇心を抱いており、このことから、彼らは、サウィットから受ける愛なき苦痛が、この植物が他の地の生命体と結ぶ愛ある関係性を見えなくしてしまっている可能性を認識しているようである。こうした認識が生み出す道徳的複雑性は、愛情のない人間を取り巻く言説や慣習を再考するための実りある道しるべともなりえるだろう。

 このような状況下では、誰の現実が(より)重要なのか。人間が人間以外のものに対して持つ複数の現実と、人間の文脈を超えた人間以外のものの現実との間のバランスをどのように見出せばいいのだろうか。ある特定の文脈に置かれた(そして時に苦しむ)存在として、異なる種の生活世界を織り交ぜることは、倫理と責任の問題である。ダナ・ハラウェイ(Haraway 1997, 129)が指摘するように、どの現実を追うかを選択し、複数のコスモロジーを横断的に移動することは、常に分析的、想像的、物理的、そして政治的な選択を意味するものである。ある生物種が愛を持っているか愛に欠けているか、したがって、愛されているか愛されていないかは、結局は視点に因るのである。

 エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ(Viveiros de Castro 2011, 135)は、非西洋の世界観に対する表象主義的なアプローチを避け、人々が考えることを真実の表現とみなすことは、必ずしもその真実を信じることではなく、むしろその可能性を持続させることを意味すると指摘している。しかし、アドボカシーという(いわば)現実の世界において、別の現実に対する開放性を促すことは困難な結果を引き起こしうる。例えば、国家やアブラヤシ企業とのマルチステークホルダーの交渉において、サウィットが利己的で時間を食う人間であると仮定することは、それが「真実」であっても、パプア人が原始的で迷信深い民族であるという固定観念を強化し、そもそもMIFEEなどのプロジェクトを推進する開発の必要性をより一層認識させることになりかねない。

 カラオヤム村の土地の権利を訴える活動家たちは、多国籍複合企業や国家機関、国際金融機関を目の前にし、認知を求めて奮闘する中で、存在論の開示やパフォーマンスを取り巻く政治を強く意識している。生態学的正義を追求する彼らは、アブラヤシだけでなく、この産業植物の同盟者である人間の他者とも巧みに交渉し、協力し合っている(Kirksey 2012, 1, 5)。このような植物=人間の複雑な絡まり合いにおいては、先住民のアクターたちが、強力で捕食的な聴衆(Rutherford 2012を参照)の前でいかに戦略的な自己表象を行うかにより、現実そのものの形が大きく規定されるのである。

 

分散する諸存在論

 存在論的人類学者は、デカルトの二元論から脱却し、静的で個別的かつ普遍的な実体としての諸概念を拒否し、代わりに「事物に内在し、事物が内在する関係の網」(M. Scott 2013a, 863)に注目する。植物は広義に、関係論的生成の具現化として考えるのに適している。これらは、周囲の環境との相互作用において顕著な表現型の可塑性を示す。植物の実在もまた、絶え間ない変態のひとつである。成長と老化は、葉の多い四肢と放射状の根で同時に起こる。植物的存在は、「亜有機体の過程および超有機体のアンサンブル」(Marder 2016、64–65)として、卓越した分人[訳注:マリリン・ストラザーンは、固有の核を持つ西洋的な「個人(individual)」に対し、メラネシアでは、あらゆる社会的関係性の中で創発する「分人(dividual)」という人格が存在するとした]を具現化するのである(Battaglia 2017, 18–19)。

 同時に、サウィットと呼ばれる特殊な植物は、私たちに関係論的な生や思考の、あまり評価されていない(とはいえ、政治的にはそれと同等に重要な)次元、すなわちその限界を教えてくれる。インドネシアの国家や軍隊というような侵入者と同様に、アブラヤシもメラウケには属さない。なぜなら、場所と人が物理的かつイデオロギー的に一体(consubstantial)となるような互酬的交換に参加できないからである(Leach 2003; Stasch 2009)。その増殖は、森林の「分かち合いの宇宙経済(cosmic economy of sharing)」(Bird-David 1992, 30)を侵食し、種の境界を超えた愛情ある関係を可能にする抑制されたケアの原則に違反するものである。その代わりに、アブラヤシは、既存の多種の生活世界に自分自身を押し付け、自分自身を維持するためにのみ、それらの生存に必要な資源を私物化する「重要な他者性(significant otherness)」(Haraway 2003[ハラウェイ 2013a])の植物の形態を構成している。

 本論文で示したように、不透明性が意味のある存在論の構成要素であることが証明される世界において、アブラヤシのような植物を敵対的かつアンビバレントなアクタントとして調査することは、人類学の方法と倫理に影響を与えるものである(Graeber 2015[グレーバー 2020])。ビアン川上流域の土着の実在論は、決して唯一的あるいは静的なものではない。破壊と搾取の行為主体であり、対象でもあるアブラヤシは、植物のあり方や欲求に対する様々な解釈を横断して、存在論的に増殖する。誰の現実が、どのように、そして何の目的のために重要なのかという問いは、有界の存在論(bounded ontologies)という概念を複雑化する。これらの存在論は、サラ・アーメド(Ahmed 2010, 90)が、身体・存在・対象間の複雑な接触の歴史によって生み出されるアンビバレントな情動の場を記述するために用いた用語である「粘着的である(sticky)」という性質を持っている。私は、分散する諸存在論(dispersed ontologies)の概念を提示して、人間と人間以外の現実が生成する絡まり合いと、単一作物のプランテーションの資本主義的生態において、種間の関係化が可能性であり、相互的であることに対する限界を強調する。

 分散する諸存在論は、種間の関わり合いという存在論的な活気を特徴づけるのに役立つ。これらの関わり合いは、融合分裂の可能性を孕んでいる。例えば、森の存在論は、マリンドと、マリンドがケアと互酬性の愛の関係を抱く多面的かつ行為主体的な人間以外の存在に分散している。この分散する存在論の中心を構成するのは、人間であろうとなかろうと、単一の存在ではない。むしろ、すべての存在は、異なっていても、道徳的に価値があり、情動的に意味のある方法で相互の存在を活性化するために平等に参加するのである。マリンドの現実が単一的でないように、サウィットもまた、空間的および概念的な領域を横断することで意味を獲得し、分散する個体、コミュニティおよび組織を結びつける「バウンダリーオブジェクト(boundary object)」(Star and Griesemer 1989)を構成している。私たちも、世界のパッケージ商品の半分以上に存在するパーム油を消費することによって、アブラヤシの分散する存在論に参加しているのである。

 しかし、分散が永久の中心を持たないように、その極限と不可能性は偶発的なものである。マイケル・W・スコット(Scott 2013b)による、絶え間なく変化する関係から生じる存在論を指す用語である「非二元的」諸世界は、必ずしもすべての要件に適合するとは限らず、あらゆる種類の他者を吸収して受け入れるためにその規模を縮小・拡大できるとは限らない。特に、こうした他者がビアン川上流域のサウィットのように、活発に分散して互酬に参与しない場合は、そうである。共生関係における「見知らぬ者同士の共同選択(co-opting of strangers)」(Margulis and Sagan 2000, 20[マーギュリス、セーガン 1998])は失敗する可能性がある。分散する諸存在論は、「コンタクトゾーン(contact zones)」(Haraway 2008, 244[ハラウェイ 2013b])が常に成功あるいは均等に達成されるとは限らず、そこに参加する人々が常に期待、招待、あるいは望まれているわけではないという点で、振付(choreographies)(Cussins 1996)よりも即興に近いのである。この観点から、望まれる関係と望まれない関係、課された変容と不可能な変容を区別することは、存在論的レジリエンスの臨界点を認識することの一部である(Jacka 2015, 1)。カラオヤム村の多くの人々にとって、サウィットは種を超えた互酬関係の限界を体現するのである。

 存在の分散がビアン川上流域の植物=人間との関係を特徴づけるのであれば、認識的分散は、従来の文化人類学的研究手法を超えるやり方でサウィットの現実を理解するのに役立つかもしれない(Hartigan 2014; Myers 2015を参照)。ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1957[2005])が、人間以外の生物が知覚する世界を環世界(Umwelt)と呼んだように、人間である私たちがアブラヤシの環世界に住むことはできないかもしれない。しかし、植物、部品および製品としてのアブラヤシという「非単一的なビジョン(non-unitary vision)」(Braidotti 2006, 11)に向けて、多様なアクターや制度を引き寄せる認識的なノマディズム(epistemic nomadism)によって、分散した存在論への理解を深めることができるかもしれない。

 アブラヤシとそのマルチサイテッドの「社会的諸世界」(Barnes 2016)の現実と関係に対する洞察は、現代の批判的植物研究(critical plant studies)の研究者が試みているのと同じように、歴史学、経済学、哲学、生物学、植物科学、人類学、そして先住民のコスモロジーを織り交ぜているかもしれない。このようなアプローチは、研究領域や場所の相互受粉という形で、変革的な対話を通じて様々な知識、実践およびアクターを関与させる(Marder 2016を参照)。例えば、植物を動的な存在として捉える先住民の概念は、植物の知性という新たな科学と対話することができるかもしれない(例:Trewavas 2005; Chamovitz 2013)。同様に、先住民の植物的行為主体性(vegetal agency)という概念も、進化的なニッチ構築という観点から探求することで、アブラヤシが、どのように、重大だが無意識の環境工学の手法を通じて、環境を形成・強化しているのかを検証することができるかもしれない。確かに、「状況化された知識(situated knowledge)」(Haraway 1988)という政治と上手く向き合い、対処するのは困難である。しかし、認識的分断を乗り越えて横断的に取り組むことで、アブラヤシを他者として新たな方法で理解し、賢く関係性を育むことが可能になるかもしれない。

 

抱き返してくれない木

 ホストシスターのミナと私は、メラウケからジャヤプラへの飛行便を待っているところだった。カラオヤム村で生まれ育ったミナは家族にテキストメッセージを送り、私はドナルド・トランプこそが「自由浪費家、企画者、人種差別主義者、知識人、ツリーハガー[訳注:木を抱く者、転じて環境活動家を指す語]、そしてプロの価値裁定者」に対処する最善の策だと熱く論じる記事を読んでいた。ミナはちらっと見て、数週間前に覚えたツリーという単語を拾い、「ツリーハガーって何?」と尋ねた。私は、環境運動家という意味であり、活動家が伐採に抗議するために文字通り木を抱きしめることに由来する表現であると説明した。ミナはしばし沈黙したのち、こう尋ねた。「でも、もし木があなたを抱きしめ返してくれなかったら?」

 マルチスピーシーズや環境哲学の文献の多くを前進させている倫理的・生態学的喫緊性は、種間の出会いがハッピーエンドもアンハッピーエンドも保証しない一方で(Haraway 2008, 15[ハラウェイ 2013b])、一般的に人間の側が人間以外の伴侶種に対して尊敬や好奇心、ケアを働かせることができないために暴力を振るっているという前提があることを示唆している。しかし、非階層的な方法で人間以外のものが持つ差異を尊重しようという呼びかけは、種の階層の根底にあるのは必ずしも人間/人間以外のものの二元論ではないこと、そして種間関係において人間が必ずしもより強力な存在ではないことを認識しない限り、限界があることは明らかである。ビアン川上流域の場合、他の種を抹殺するのはアブラヤシという人間=植物であり、単作のプランテーションという「想定外の土地(unexpected country)」(Haraway 2007)に共感することのできない特定の人間集団である。この文脈では、人間以外の生物に暴力を振るえるのは人間だけだとするのも、また人間例外主義の一例といえるかもしれない。

 絶滅の危機に瀕している周縁化された存在に対し、声を与えることが常に道徳的問題を孕んでいる可能性があるのだとすれば、ミナが言うように「抱き返してくれない」人間以外の存在の増殖といった「トラブルとともにある」(Haraway 2016)ことは、さらに困難な作業だろう。ここで、植物=人間の関係において愛を真剣に受け止める(Archambault 2016を参照)には、その情動的片われである憎悪や哀れみ、両価性をも真剣に受け止めることが必要である。植物には「愛の行為」(Marder 2016, 25)を行うものもあれば、暴力行為を行うものもある。ビアン川上流域の「二重の死」(Rose 2004, 175)は、アブラヤシに食べられるすべての生き物に共通する運命である。こうした複数種の絡まり合いにおいては、パームと利益関係を結ぶ人間もいれば、耐えなければならない人間もいるのである。

 マルチスピーシーズ民族誌学者は、人間以外の伴侶種に出会う(そして真剣に受け取る)際に、感覚的没入、現象的接触、情動的受容性、そして共感的応答性を貴重な戦術として強調する傾向がある。出会い(Despret 2004)、絡まり合い(Kohn 2013[コーン 2016])、=(fingeryeyes)(Hayward 2010)、接触(Barad 2012)そして没入(Tsing 2011)は、現象的意味での種間関係を記述するために使用される多くの言葉の一部である。しかし、カラオヤム村の住民たちにとっては、アブラヤシとの出会いの難しさ、そのサプライチェーンの不明確さ、そして消費者の顔の見えないことこそが、アブラヤシの両義的な存在論を生み出しているのである。

 このことは、複数種の出会いと関係の不在不可能性、そして推測する出会いの進行中の想像力の役割に注意を払う必要があることを示唆している。触ることや触られることもできないことは、創造的想像力の源であり、触覚的思索(実際の出会いの触覚によって引き起こされる想像力)より、むしろ思索的触覚(起こりうる出会いの触覚が何を伴いうるかについての想像力;Puig de la Bellacasa 2009, 310–11)の一形態である。距離、喪失、そして想像上の出会いも――非物質的であるにもかかわらず――種の絡まり合いにおいても同様に重要である。現実を真摯に受け止めることに重点を置く存在論の人類学は、そこにはないが、あり得るものから生じる想像力の思索的実践のためのスペースを作る必要があるかもしれない。

 

図6. サゴのデンプンと水に映ったサゴの葉

 マルチスピーシーズ民族誌学者たちは、生態破壊が蔓延する時代において、「複数種の愛(multispecies love)」(Tsing 2011, 19)を実践することの倫理的重要性に注意を促している。ビアン川上流域の人々に対する植物の暴力は、人間であるかどうかにかかわらず、愛なき他者にも同じように注意を払わなければならないことを示唆している。愛なきものを気にかけることは、彼らを必然的に(あるいは可能性として)互酬的に愛すべき存在として免罪すること(のみ)ではない。それはまた、それらの愛のなさやその結果として起こる愛しづらさを、それ自体で意味のあるものとして受け入れ、認識することである。ケアの形態としての愛を持つことと愛をもたないことは、決して単純な「どちらか一方」ではなく、多様に配置された身体と持つ践を横切って移動する。こうした複数種への愛と嫌悪の変化こそが、種間のケアという道徳的にもつれ込んだ苦境に最も深く、かつ直接的に陥っているカラオヤム村のマリンドのような人々の生活世界を形作っているのである。 

 

謝辞

 ビアン川上流域のマリンドコミュニティには、本論文に際して多大なるご厚意と深いご理解をいただいた。また、メラウケ平和と正義のための事務局(Merauke Secretariat for Peace and Justice)の方々には、調査期間中、精神的・物質的な面で多大なご支援をいただいた。本論文の内容は、ヤープ・ティマー、イヴ・ヴィンセント、エベン・カークセイの各氏からの意見提供から多くを得ている。また、カリン・ボレンダー、ローラ・マクロークラン、シミニー・ハウ、およびカルチュラル・アンソロポロジー誌の3人の匿名査読者に感謝する。本研究は、エンデバー国際大学院奨学金、ヴェナー・グレン卒業論文フィールドワーク補助金、マッコーリー大学フィールドワーク調査補助金の支援を受けている。

 

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