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【連載/第3回

誰がパリ五輪に抵抗しているのか ?

Qui luttent contre les Jeux Olympiques 2024 de Paris ?

 

 

 

 

佐々木夏子

 

「大学・出版界」

 

 近代オリンピックの創始者であるピエール・ド・クーベルタンの母校を知る人は、相当年季の入ったオリンピック・マニアに限られるのではないだろうか。少なくとも筆者は、2021年10月12日にパリ政治学院(Sciences Po)で開かれたラウンドテーブルに出席するまで想像すらしたこともなかった。その日、同校がクーベルタンの母校であることを教えてくれたのは、パリ五輪組織委員会長、トニー・エスタンゲ[mfn](注1)エスタンゲはシドニー、アテネ、ロンドン大会で金メダリストとなった元カヌー選手であり、2012年から2021年まで国際オリンピック委員会(IOC)の委員であった。[/mfn]である。
 もちろんクーベルタンの最終学歴などはトリビアにすぎない。だがパリ政治学院がそのことを寿いでオリンピックをめぐる公開講演会を半年に一度開くとなると、それで話を済ませるわけにもいかなくなる。
 以下は、エスタンゲ会長に続いてその日登壇したお歴々の方々である:

 

ミカエル・アロイジオ:パリ五輪組織委員会長室長およびPARIS 2024広報官
ミシェル・カド:フランス国立スポーツ機関(l’Agence nationale du Sport)会長およびオリンピック・パラリンピック競技大会閣僚間代表(日本の五輪相に相当)
パトリック・ル・ガレス:パリ政治学院都市計画学部長、フランス国立科学研究センター欧州研究・比較政治学研究所長
サラ・ウラムヌ:フランス・ボクシング競技連盟副会長、フランス国立オリンピックスポーツ委員会(「日本オリンピック委員会(JOC)」に相当)都市政策顧問

 

 ル・ガレス以外、見事に利害関係者ばかりである。これだけの顔ぶれを一堂にそろえる五輪プロパガンダの公開イベント[mfn](注2)この日の模様は質疑応答まですべて録画・公開されている:
https://www.sciencespo.fr/evenements/?event=les-jeux-de-2024-enjeux-perspectives-controverses
[/mfn]が、2024年までにパリ各地で頻繁に行われるとは考えにくい。そしてその限られた場を提供したのがフランスの人文知の一翼を担うパリ政治学院であったことは、クーベルタンとのゆかりを考慮にいれてもやはり由々しき事態である。その背景には、パリ政治学院都市計画学部とオリンピック会場建設公社(SOLIDEO)が締結した連携協定[mfn](注3)協定内容は以下:https://www.sciencespo.fr/ecole-urbaine/fr/actualites/la-solideo-nouveau-partenaire-de-lecole-urbaine.html[/mfn]の存在も挙げられるだろう。

 日本では200以上の大学が「東京オリンピック・パラリンピック競技大会・大学連携協定」を組織委員会と締結[mfn](注4)協定締結大学一覧は以下:https://daitairen.or.jp/2013/wp-content/uploads/2014/07/a040fd29a3d2ac67548d200cce2ed72e.pdf[/mfn]していたのだから、フランスで似たような展開を目にしても驚くことではないのかもしれない。それでも私は「やっぱりね…」と余裕で受け入れられたわけではなく「フランスでもこうなるか…」と暗澹とした気持ちになったのだった。日本の大学でオリンピック批判を行うイベントを開くことの困難についても聞きかじっていたので、フランスでも同じような事態になることを恐れたのである。

 幸いなことに、2022年現在、フランスで200以上もの大学[mfn](注5)フランスの人口は日本の約半分であり、大学の数は100に満たないので単純な比較はもちろん不可能である。けれども日本国内の全大学の約四分の一がオリンピックと連携協定を締結した、という計算をフランスに当てはめると、20近くのフランスの大学がオリンピックと協定を結んで初めて日本に匹敵することになる。さすがにそんな事態になるとは考えにくい。[/mfn]がパリ五輪組織委員会と「パリオリンピック・パラリンピック競技大会・大学連携協定」を締結した、という話は聞こえてこない。そもそも日本以外で、スイスの一非政府組織主催のスポーツイベントの自国開催に、200校もの高等教育機関が連携するという事態が起きた話など聞いたことがない。この点について日本の大学関係者はいったい何を考えているのか、どのような過程を経てある大学が五輪組織委との連携協定締結を決めるのか、大学関係者、特に教員からの抵抗はどこまで見られたのか、誰かまとめて公開してくれれば後学のためになるはずだ。札幌への冬季五輪招致の現実味が日に日に高まっている現在、急務であるとさえ言えよう。本連載第2回で見た通り、どこの国でもマスメディアはスポーツ報道を経営に組み込んでいるので、テレビや新聞にスポーツイベント批判を期待するのはそもそも無理筋である。そのため開催国における批判意識の高まりは、大学や「マス」ではないメディアがどこまでオリンピックの批判を展開できるかにかかっているのだから、決して瑣末な問題ではない。

 話をフランスに戻すと、パリ政治学院が「あちら側に回った」ことは、フランスの大学によるパリ五輪批判シンポジウムなどを期待している私にとっては大きな失望であった。しかしパリ政治学院は政治家の輩出で名高い[mfn](注6)フランス第五共和政の大統領のうちポンピドゥー、ミッテラン、シラク、サルコジ、オランド、マクロンがパリ政治学院出身である。[/mfn]、そもそもが体制寄りの教育機関である。これがパリ第8大学や社会科学高等研究院(EHESS)といった、反体制的な知識人を数多く輩出している大学であれば話はだいぶ違ってくるが、クーベルタンの母校・パリ政治学院であるなら「さもありなん」と受け止められなくもない。

 むしろ問題は、パリ市に隣接する「フランス本土でもっとも貧しい県」セーヌ=サン=ドニ県の大規模な再開発が、パリ五輪の存在理由となっていることである(本連載第1回参照)。そのため同県に所在し、同県出身の学生を多く抱えるパリ第8大学(サン=ドニ市)、パリ第13大学(ヴィルタヌーズ市)、そしてその二大学をはじめとする複数の大学が参加する人文社会系合同キャンパス、「キャンパス・コンドルセ」(オーベルヴィリエ市)といった高等教育機関がパリ五輪に向けてすでに動員されてしまっていることの方が深刻である。

 たとえばパリ第13大学は2018年4月という早い段階で、トニー・エスタンゲ会長の「マスタークラス」をボビニー市キャンパスで開催している。同大学のウェブサイトによると、体育スポーツ科学部(Sciences et Techniques des Activités Physiques et Sportives)の学生たちは、五輪メダリスト(エスタンゲおよびバイアスロン選手、マルタン・フールカデ)との交流を存分に楽しみ、「歴史に刻まれる大会を作り、パリの未来を想像するための、学生たちそれぞれの願い、希望、夢に光を当てたひととき」[mfn](注7)https://www.univ-paris13.fr/retour-masterclass-de-tony-estanguet-martin-fourcade-a-luniversite-paris-13-franc-succes/[/mfn]を過ごした、とのことである。この「マスタークラス」にはパリ第13大学学長も臨席していた。

 キャンパス・コンドルセは2021年1月に「2024年オリンピック:セーヌ=サン=ドニ県の若者たちにとっての期待と展望とは?」[mfn](注8)https://www.campus-condorcet.fr/fr/agenda/fabrique-campus-3-jo-2024-quelles-attentes-et-perspectives-pour-les-jeunes-de-la-seine-saint-denis[/mfn]と題されたビデオ講演会を行っている。このタイトルだけではこの会が批判的なものだったのか、五輪翼賛的なものだったか判断できないが、参加者がサン=ドニ市スポーツ局に勤務する公務員であったり、五輪に批判的な研究が見当たらない研究者であったりするので、オリンピックに肯定的な内容だったのだろうと想像できる。

 一方、パリ五輪関連の開発が集中するサン=ドニ市に所在するため、五輪プロパガンダに狙い撃ちされているのがパリ第8大学である。2019年9月末の新学期を祝う大学祭では「2024年オリパラ大会のテーマが重要な位置を占め」、「スポーツクライミング、バスケットボール、フェンシング、格闘技などの実演」[mfn](注9)https://lemag.seinesaintdenis.fr/Les-etudiants-de-Paris-8-mobilises-pour-les-Jeux-de-Paris-2024[/mfn]が行われている。また大学当局は2019年の時点で、学生個人や学生団体・サークルをターゲットにオリンピックにちなんだ市民参加プロジェクトを募集していた[mfn](注10)https://www.univ-paris8.fr/Appel-a-projet-Jeux-Olympiques-et-Paralympiques[/mfn]。5年前にしてこのありさまなのだから、大会が近づけば五輪ボランティアの大動員をかけるであろうことは火を見るよりも明らかである。そして来るべきボランティア大動員に先立ち、パリ第8大学の学生たちはこのようなメールを大学当局から受け取っているのだ:

 

学生のみなさん

 

2024年パリ五輪開催にともない、パリ五輪組織委員会は大規模な採用キャンペーンを開始しました →https://www.paris2024.org/fr/nous-rejoindre/

 

学部2年生(Bac +2)から修士2年生までの就労学生やインターンを対象に、多種多様な分野での就業機会が提供されています:

 

都市計画
情報技術・システム
経営/マーケティング
コミュニケーション
法務
人事
プロジェクトマネージメント
国際関係
スポーツマネージメント

 

組織委の採用ページでは、これから24の新規採用が毎週発表されますhttps://www.paris2024.org/fr/nous-rejoindre/

 

⚙ プロセス:

自分にピッタリの採用条件があれば、プラットフォームから直接応募し、質問票に記入します。
履歴書や質問票への回答に疑問がある場合は、全学情報提供・指導・就職のカウンセラーまで連絡してください:r********z@univ-paris8.fr
迅速に対応するには、パリ五輪組織委の新規採用情報を毎週確認しましょう(組織委のプラットフォームでアカウントとアラートを作成すれば、メールで受信することになります)。

 

(出典は学生からのリーク)

 

 心ある日本の大学関係者から「いずこも同じか」との嘆息が漏れてパリまで届きそうである。とはいえパリ第8大学のこうした動きは、パリ政治学院とは異なり大学の運営側のものであり、教育・研究部門が関わっているわけではない。フランスで社会運動が起きるたびに真っ先にバリケードが築かれる大学として名高く、校内が極左のステッカーで覆われている「パリ8」が、オリンピックプロパガンダを無抵抗に浴び続けるままで終わってしまうなどということがあるのだろうか?

 本連載の「番外編」として紹介した、今月(2022年5月)21、22日に開催される「反オリンピック国際集会」の会場は、パリ第8大学となったことが発表されている。この集会の主催者となっているコレクティブ、Saccage 2024が公表している情報を見る限り、大学関係者が積極的に関与してる様子は伺えない。けれども同大学の教員の協力がなければ大講堂を集会会場にすることなど、もちろん不可能である。つまり「パリ8」には反五輪勢力、あるいは少なくともそのシンパは確実に存在している、ということだ。 

 これからパリ五輪開催までの2年間で、パリ第8大学は五輪賛同者と反対派の衝突する場となるだろうか? それを見通す上でも、21、22日の反オリンピック国際集会には注目すべきだろう。この集会以前にパリ第8大学でオリンピックに批判的なセミナーや講演会が行われた記録は見当たらない。けれどもひょっとしたらこの集会が燻っている火種への燃料投下となって、これからさまざまな企画が生まれるかもしれない。

 パリ首都圏の研究機関によるオリンピックを批判するセミナーは、2022年になってようやく社会科学高等研究院(EHESS)で開催されるようになった。同校は日仏財団と提携して「オリンピックとグローバル都市」というオリンピックに肯定的な研究プロジェクト[mfn](注11)http://ffj.ehess.fr/oggc.html[/mfn]も立ち上げているけれど、それはそれこれはこれで、教員が自由に企画を立てられる環境にあるようだ。セミナーのタイトルは「蓄積と加速の激化:オリンピックはゲーム(遊び)か、真剣勝負か?(Intensifier les accumulations et accélérations : jeux ou sérieux olympiques ?)」[mfn](注12)https://www.fmsh.fr/fr/projets-soutenus/intensifier-les-accumulations-et-accelerations-jeux-ou-serieux-olympiques[/mfn]というもので、責任者はクリストファー・ポルマンという法哲学者である。全8回に及ぶセミナーの講師は全体的に年齢層が高く「名誉教授」の肩書きが目立つものの、オリンピックに伴う監視強化を扱った会(4月5日)には研究者ではない若いアクティビストも招いており、なかなか野心的な企画となっている。

 私は4月19日の会までこのセミナーに全参加している。一番面白かったのは招聘講師が急に来られなくなってしまい、ポルマンが代役を務めた初回(3月8日)であった。ポルマンは、自身も公の場で認めている通り、オリンピックやスポーツに関心を持つようになって日が浅く、さまざまな課題を未消化なままこのセミナーに臨んでいる。そのためにわか仕込みの脇が甘いスポーツ批判理論を急遽セミナー初回で披露する羽目になり、参加者からの鋭い批判が飛び交う刺激的な夕べとなったのだった。というとまるで人の窮地を喜んでいるみたいだが、このセミナー初回では講師が権威として君臨することがなかったからこそ自由闊達な意見交換が可能となり、「災い転じて福となす」状況が生まれたのである。

 その日指摘されたポルマンの講演での発言の問題点は、スポーツの持つ競争原理に資本主義社会のあらゆる弊害の起源を見出し、何でもかんでもスポーツのせいにしてしまっていることだった。たとえばスポーツ界における性暴力の問題はよく知られている。しかし性暴力が存在するのはスポーツ界だけではない。このあたりの議論を曖昧にしたまま「性暴力の温床たるスポーツの廃絶」にまで話が飛躍してしまうのである。その日の参加者の一人の表現を借りると「スポーツ固有のものではない問題にまでスポーツを結びつけて」いるために「カリカチュアに陥って」しまっているのである。

 先述の通りポルマンのスポーツ批判理論はにわか仕込みであり、彼のオリジナルではない。このセミナーの企画においてポルマンは、第五回(5月10日)招聘講師のパリ西ナンテール・ラ・デファンス大学教授、マルク・ペルルマンや、最終回(6月21日)招聘講師のモンペリエ第3大学名誉教授、ジャン=マリー・ブロームといったフランスのスポーツ批判社会学者の影響を大きく受けている。というかポルマンの展開するスポーツ批判理論は、ペルルマンやブロームの受け売りである。

 マルク・ペルルマンは1953年生まれの、ル・コルビュジエ批判で知られる建築家である。早くから建築と身体の問題に関心を持ち、その延長でフランクフルト学派(特にアドルノ)の影響を大きく受けたスポーツ批判を展開するようになった。対するジャン=マリー・ブロームはペルルマンより10歳以上年長で(1940年生まれ)、元は高校の体育教師であった。第四インターナショナルに加盟しているシチュアシオニスト、という何だかよくわからない話がつきまとう人物なのだが、そのラディカルなスポーツ批判によってフランスの体育・スポーツ業界では相当な有名人となっている。資本主義社会のあらゆる弊害の源をスポーツに求め、「サッカー=資本+警察+白痴主義(crétinisme)=ファシズム」との公式を憚ることなく提出する彼のスポーツ批判理論は、1975年から97年まで『いかなる身体か?(Quel corps ?)』という雑誌で展開されたのち、2007年以降は後続の『いかなるスポーツか?(Quel sport ?)』[mfn](注13)http://www.quelsport.org/[/mfn]誌に引き継がれ、フランスの言論界に「反スポーツ」の一極を築いている。ペルルマンとブロームは2006年に『サッカーという情動のペスト:スタジアムの野蛮(Le football, une peste émotionnelle: La barbarie des stades)』という共著を出しているのだが、漏れ伝わってくる話によると、どうも近年では仲違いしているようである。言ってることはほとんど同じなのだから仲良くやれそうなものなのに、と傍から見たら思うのだけど、そこには色々あるようだ。

 ブロームやペルルマンといった古参のスポーツ批判理論家たちは、パリ五輪をめぐる闘争とはほとんど没交渉である。というのも、「祝賀資本主義」(ジュールズ・ボイコフ)がもたらす「例外状態」(ジョルジョ・アガンベン)による民主主義的原則の否定、セーヌ=サン=ドニ県再開発に伴うジェントリフィケーションや環境破壊、顔認証に代表される新しい監視技術の導入、といったことを懸念して反オリンピック闘争に身を投じることになった多くの人々にとって、ブロームやペルルマンの展開するスポーツ批判は、良くて緊急性が低い。もっとはっきり言うと、アドルノの文化産業批判がそうであるように、大衆文化に対する蔑みを隠さない差別的な言説であってとうてい受け入れられるものではない。たとえばブロームが署名者の一人となっている、『ル・モンド』紙に掲載されたパリ五輪中止を求める意見記事[mfn](注14)https://www.lemonde.fr/idees/article/2020/09/15/jo-de-paris-il-est-irresponsable-de-dilapider-l-argent-public-dans-une-operation-de-prestige-pharaonique_6052197_3232.html[/mfn]では、「スカーフで頭髪を覆う女性アスリート」をオリンピックが受け入れることを批判している。ここに保守的な「イスラム恐怖症」を見出さずにいることは難しい。またペルルマンは2022年2月というタイミングで『ロシア・トゥデイ』の番組に出演した他、『Causeur』のような極右メディアにも寄稿[mfn](注15)https://www.causeur.fr/jo-jeux-olympiques-droits-homme-147312[/mfn]しており、それだけで左派が警戒するのに十分である。

 マルク・ペルルマンが2021年に出版した『2024年:オリンピックは開かれなかった(2024 : Les Jeux olympiques n’ont pas eu lieu)』は、2022年5月現在、フランスでもっとも広く読まれているパリ五輪批判本である。しかしそれはこの本の評判が高いためではなく、他に目ぼしい出版物が出ていない、ということに過ぎない。
 日本では2016年、つまり(本来ならば)大会4年前というタイミングで、航思社から『反東京オリンピック宣言』という充実した本が出版されている。それから2年後の2018年にはジュールズ・ボイコフの『オリンピック秘史』(早川書房)やデヴィッド・ゴールドブラットの『オリンピック全史』(原書房)の邦訳も出版され、東京大会2年前にはオリンピックをめぐる最先端の批判的知見が日本語で読める環境が整っていた。

 フランスではそうはなっていない。本連載第一回(後編)で取り上げたNon aux JO 2024 à Paris(2024年オリンピックのパリでの開催反対)の会長、フレデリック・ヴィアルは2018年、つまり大会6年前という非常に早い段階で『2024年パリ五輪:奇跡か蜃気楼か?(Paris JO 2024 : miracle ou mirage ?)』という本を編集しているのだが、出版を急ぎすぎたため書かれた内容の半分以上がすでに古くなってしまっている。それに執筆者がフランス人かフランス在住の外国人に限られていて、主に英語圏で進んでいる批判的オリンピック研究の成果が全く反映されていない。同書の出版から3年後に先述のペルルマンの本が出た他は、2022年2月に「革命のあとで(Après la Révolution)」[mfn](注16)https://apreslarevolution.org/[/mfn]というマルクス主義建築家団体(アソシアシオン)が「2024年パリ・オリンピック:闘争ノート(JO Paris 2024 : Carnets de Luttes)」という特別号を出している。しかしアソシアシオン内部でのこの特別号の位置付けはどうもはっきりしていないようで、公式ウェブサイト内にこの特集号についての情報はどこにも見当たらないのだ。編集責任者となっているマリアナ・コントスが「サン=ドニ2024年オリンピック監視委員会(Comité de vigilance JO 2024 Saint-Denis )」のメンバーであるため、その周囲で活動している市民団体の声が大きく取り上げられている他、ジュールズ・ボイコフの論考の初の仏訳や、高祖岩三郎の寄稿などもあり、おそらく現時点で最も充実したフランス語による五輪批判の書となっている。しかし流通および宣伝のネットワークがきわめて脆弱なためまったく話題になっていない。値段の高い(20ユーロ!)zineみたいになってしまい大変残念である。 

 そのような状況の一方で、ではオリンピックを盛り上げる出版物は花盛りなのか、と問われればそういうわけでもない。本連載第2回で確認した通り、パリ五輪の関係者は明らかにロープロファイルを志向しているので、オリンピックが争点として浮上していない、というのが大会を2年後に控えたフランスにおける現状である。こうした出版状況において目立っているのが、ロベール・ラフォン社が国立スポーツ体育研究所(Institut national du sport, de l’expertise et de la performance:INSEP)と共同で手がける叢書「ホモ・ルーデンス(HOMO LUDENS)」[mfn](注17)https://www.lisez.com/robert-laffont/collection-homo-ludens/104260[/mfn]の精力的な刊行である。エドガール・モラン、ポール・ヴィリリオ、ミシェル・セールといった大御所哲学者から、スポーツを専門とする若手人文科学者まで、幅広い書き手によるスポーツをめぐる短いエッセイやインタビューが一律10ユーロで出ている。すべてに目を通しているわけでもないのに総括のような真似をするのもおこがましいが、それでも言ってしまうと、この叢書の編集方針はスポーツ改良主義である。現代スポーツの過剰なパフォーマンス追求に、マイルドな批判が提供されているのだ。たまたま大会4年前に刊行が始まっただけで、パリ五輪のことは全く意識していない企画なのでは、という疑いも否定できないほど、スポーツメガイベントについての政治・経済的分析は微塵も見られない。もっともそのような仕事を国立スポーツ体育研究所が関わる企画に期待するのは、もちろんお門違いであろう。

 パリ五輪を2年後に控えたフランスにおけるオリンピックをめぐる言論状況を一言で述べると、2018年の日本よりもオリンピックへの関心は遥かに低く、それに正比例する形で議論の質も下げ止まっている、といったところに落ち着くだろう。個人的な所感を述べると、このタイミングでいまだにジュールズ・ボイコフの仏訳が刊行されていないのはやはり残念だ。今月末の反オリンピック国際集会にはボイコフも参加するので、フランスの編集者との良い出会いを切に願うばかりである。