『それ自体を表す象徴』(ロイ・ワグナー) 訳者解説

久保明教・谷憲一

編集部より

 ロイ・ワグナー『それ自体を表す象徴』(2025年12月20日発売)の刊行を機に、同書の「訳者解説」を発売に先立って公開する。

 近年の人類学における「存在論的転回」の先駆とみなされたロイ・ワグナーの仕事は、日本国内では2000年に翻訳が刊行された『文化のインベンション(『文化の創出』)』(玉川大学出版部、新版は以文社より刊行予定)が先行して紹介されてきたが、今回、ここに公開する「訳者解説」にもあるとおり、その難解な内容から十分に理解されてきたとは言い難い。『文化のインベンション』に続く日本語訳となった『それ自体を表す象徴』を刊行するにあたって、ワグナーの人類学的思考を丹念に読み解き、かつ平易な解説に努めた訳者による本解説は、ワグナー人類学の最良の入門になるだろう。この記事が同書に触れるきっかけにもなれば幸いである。

 また、本稿の著者のひとりであり、『それ自体を表す象徴』の監訳者である久保明教の『内在的多様性批判――ポストモダン人類学から存在論的転回へ』(作品社、2025)では、ワグナーの仕事を、「多様性についての内在的な批判」(内在的多様性批判)の観点から再評価し、従来の「存在論的転回」の観点とは異なるかたちで、現代人類学の再定義を促す(とりわけ、ワグナーについて中心的に扱った「第4章 創作としての文化――ギアツ×ワグナー」や、同書の終章にあたる「第7章 「転回」をやりなおす」を参照)。『それ自体を表す象徴』を含めたワグナーの仕事をいかに現代の理論的射程において位置づけるのか、参考にしていただきたい。

久保明教『内在的多様性批判──ポストモダン人類学から存在論的転回へ』(作品社)

 あわせて、同じく本稿の著者であり、『それ自体を表す象徴』の訳者である谷憲一は、現代イランにおけるホセイン追悼儀礼の実践について、統治体制に内在する国家と宗教の関係を考察した自著『服従と反抗のアーシュラー――現代イランの宗教儀礼をめぐる民族誌』(法政大学出版局、2023)において、宗教的言説に基づく国家における宗教儀礼が持つ「服従」と「反抗」という二つの極の間を揺れ動く「動態的な性質」を分析する上で、ワグナーが『それ自体を表す象徴』で語る「弁証法」を理論的な参照点としている。

谷憲一『服従と反抗のアーシュラー――現代イランの宗教儀礼をめぐる民族誌』(法政大学出版局)

 ワグナーの思考を現代民族誌へと応用する好例として、ぜひあわせて一読いただきたい。(以文社編集部)

 


 本書は、Roy Wagner. Symbols That Stand for Themselves. The University of Chicago Press. 1986の全訳である。著者ロイ・ワグナー(一九三八―二〇一八)はアメリカ合衆国の文化人類学者であり、メラネシア民族誌および人類学理論において多くの著作を残した。代表的著作のうち、パプアニューギニアのダリビの人々をめぐる民族誌として『ソウゥの呪い(The Curse of Souw)』(一九六七)、『ハブ(Habu)』(一九七二)、『致死の語り(Lethal Speech)』(一九七八)、バロクの人々をめぐる民族誌として『アスィウィナロング(Asiwinarong)』(一九八六)がある。また人類学一般に関する理論的著作として、『文化の創出(The Invention of Culture)』(一九七五)と本書の他に、『主体の人類学(Anthropology of the Subject)』(二〇〇一)、『コヨーテ人類学(Coyote Anthropology)』(二〇一〇)、『創出の論理(The Logic of Invention)』などがある。

 『文化の創出』で提示した理論的枠組を発展させ、ダリビにおける親族・儀礼・神話に加えて西洋史を論じる本書の内容は、いうなれば奇跡的な難解さをおびている。構造主義人類学から神経心理学まで多様な学問的蓄積に対する鋭敏な読解とダリビの人々をめぐるフィールドワークに基づいて案出される分析概念の数々が、これ以上ルーズになれば学問的言明としての輪郭を失いかねない自由度において定義され組みあわされ、多角的で壮大な議論が展開されていく。訳者として可能な限り明確な訳出を試みたが、率直に言ってワグナーによる論述の一字一句を完璧に理解することは不可能であるようにも思われる。だが、この極めて難解な本は、辛抱強く読み解いていけば、人類学的思考が到達できる最高度の論理的な精緻と奔放をかね備えた発想を引きだしうる著作でもある。その一助となるために、以下では、本書の論旨を構成する主な概念について各章の内容に沿って概説していきたい。

比喩としての文化

 まずは表題から検討しよう。象徴とは通常それ自体とは別の何かを表す(stand for something else)ものだとされるのに対して、本書の表題は「それ自体を表す」(stand for themselves)象徴である。象徴がそれ自体を表すとは、いかなることだろうか?

 ワグナーは「それ自体を表す象徴」の範例として隠喩を位置づける。隠喩とは比喩の一種であり、何かを別の何かに喩える語法である。S・K・ランガーが『シンボルの哲学』1で示した例で説明しよう。火事において炎が「燃えあがる」と言うとき、通常それは火の状態を指すものとみなされる。こうした「字義通りの表現」に対して、「王の怒りが燃えあがる」という比喩表現は、火の状態ではなく、王の怒りを火の状態に擬えたものを表している。

 字義通りの表現においては「王の怒り」と「燃えあがる」がそれぞれ異なる対象を指すのに対して、これらの異なる対象を指す表現が接合されることで「王の怒りが燃えあがる」という隠喩が構成される。この文がいかなる対象を指しているのかと問われれば、王の怒りが炎のように燃えあがることだとしか言いようがない。このように、比喩的な表現が指し示しているのはその表現そのものであり、だからこそ、それは「自らを表す象徴」なのである。言語表現の正確性を重視する人であれば、「王の怒りが燃えあがる」が指しているのは激しく怒る王の姿であって「燃えあがる」は単なる修辞にすぎない、と言いたくなるかもしれない。だが、正確を期すのであれば、比喩的な表現と厳密に対応する対象が当の表現なしには措定できないことを認めざるをえなくなる。「燃えあがる怒り」と「激しい怒り」は正確に同じものではないからだ。

 ただし、こうした比喩の自己言及性は、字義通りの表現と比べたときの相対的な特徴に他ならない。つまり、ある表現が「比喩的な表現」か「字義通りの表現」かを決定する所与の基準があるわけではなく、ある表現が別の表現と関わるなかで、一方が他方よりも比喩的な/字義通りの表現として現れる。例えば「景気が冷え込む」と「景気が悪くなる」という二つの表現を比べれば、前者は比喩的な/後者は字義通りの表現に見える。だが、両者がいずれも和歌や俳諧で詠まれる景色や情景を意味する「景気」という言葉を経済的状況にあてはめた表現であることを踏まえて、「経済が停滞する」のような表現と比べれば、ともに比喩的な表現だと感じるだろう。さらに、「経済の停滞」もまた、一方向的な進行や成長を前提とする事象(「水が淀む」、「成績が伸び悩む」など)に経済的な事象を擬える表現であると考えれば、いくら言い換えても純粋に字義通りの表現には到達できないように見えてくる。

 だが、私たちは通常「景気」を比喩だと思ってはいない。経済の状況を山河の情景や水の流れである「かのように」捉える表現は、人々が日々それらを真剣に用いることでより字義通りのものになり、景気の悪さや経済の停滞は現実に「ある」ようになる。一方で、「景気が冷え込む」や「バブルがはじける」などの表現は、景気の悪さや経済の停滞を季節の変化や泡沫の破裂の帰結である「かのように」捉えることを可能にもする。比喩的な表現が字義通りの表現と関わるなかで生じる、「かのように」が「ある」になり、「ある」が「かのように」となっていく運動によって構成される世界を現に私たちは生きている。

 ワグナーはこうした比喩が生みだす運動をモデルとして文化を捉えようとする。この点で彼の議論は、字義通りの表現を一次的で基礎的なものとして/比喩的な表現を二次的で派生的なものとして捉える一般的な発想とは異なるものであり、これが本書を極めて難解なものにしている第一の要因である。「字義通りの表現=別の何かを表す象徴」は「比喩的な表現=それ自体を表す象徴」の派生的な産出物でもある。なぜなら、単一の対象を指示する字義通りの表現は、比喩的な表現が生みだす複数の指示の接合体が慣習的に維持されているものに他ならないからだ。経済的な状況と詩歌の情景という異なる領域に属する表現の接合体が指すものを単一の対象とする慣習を生きる私たちにとって、当の接合体である「景気」が字義通りの表現としか思えないように。ただし、比喩的な表現が接合する複数の指示のそれぞれは字義通りの表現によって措定されるとも言えるために、字義通りの表現と比喩的な表現は、一方が他方の前提となるような相補的な関係をなしている。

 こうしたワグナーの議論の立て方は、文化を「象徴の体系」として捉えるタルコット・パーソンズの文化システム論を継承した師デーヴィッド・シュナイダーの議論を、さらに発展的に継承したものとして把握できる。シュナイダーは『アメリカの親族』(一九六八)において、象徴とは「それ自体とは別の何かを表す」ものであり、原理的には恣意的な関係しか持たない象徴とその意味を整合的に結びつける体系が「文化システム」であるとしたうえで、文化システムとしての米国の親族における意味の体系的な構成や、その「中核的な象徴」を明らかにすることを試みた。本書もまた「文化的な生を構成し組織化する力としての意味についての本」として提示されており、文化を象徴の体系として捉え、ダリビや西洋史における中核的な象徴の解明を試みる著作だと言える。ただし「象徴の体系」の内実は著しく異なる。象徴として扱われるものが、「別の何かを表す」字義通りの表現だけでなく、「それ自体を表す」比喩的な表現でもあるからだ。両者が共存する象徴の体系もまた、ソシュール派言語学的な差異と対立からなる静的体系ではなく、既存の意味の布置が常に相対化され再構成されていく不確定な動的体系として提示される。

 比喩をモデルとして文化を捉えることで、文化相対主義が措定する諸文化間の相対性だけでなく、個々の文化の内部における相対性に焦点をあてることが可能になる。前者の意味での相対性は、例えば「景気」という日本語に正確に対応する英語は存在しないといった仕方で現れるが、後者の意味での相対性は、「景気の冷え込み」が「経済の停滞」であるとされ、「資産価値の高騰(と急落)」が「バブル(が弾けた)」とみなされるように、比喩的な表現と字義通りの表現が互いに互いを相対化し、後者において区分される諸表現が前者において接合され/前者における接合体が後者において新たに区分されていく、流動的で革新的な運動を通じた文化の「創出」(invention)という仕方で現れる。

 ただし、ややこしいことにワグナーは何かを何かのモデルとすること自体を比喩として捉えている。例えば、DNAの構造を「二重らせん」によってモデル化することは、既知の形象によって未知の対象を組織化するアナロジーの働きに他ならない。つまり「二重らせん」はDNAの構造を表す隠喩として働くのであり、その結果として、DNAという対象によって二重らせんというモデルを再構成すること、つまりDNAが二重らせん状のものにとってのモデルとして働くことも可能になるとワグナーは言う。そう考えれば、比喩をモデルとして文化を捉える本書の民族誌記述においては、文化が比喩=モデル化として把握されるだけでなく、そのように文化を把握する民族誌もまた、比喩としての文化の比喩=モデル化として把握されることになる。さらに、二重らせんがDNAのモデルとして定着するなかでDNAが二重らせんのモデルとなるように、民族誌が文化のモデルとなるなかで文化は民族誌記述のモデルとなる。ここに本書を難解なものにしている第二の要因がある。つまり、ダリビの文化や西洋史における比喩の働きに関する本書の記述もまた、それらの対象を指示する字義通りの表現ではなく、それらの対象に属する諸表現と近代的な学問としての人類学に属する諸表現の接合体からなる比喩的な表現なのである。研究対象における文化の創出を描くだけでなく、それをモデルとして文化をめぐる人類学的言明を創出(再構成)することが『文化の創出』と本書を貫く企図となっている。

 本書における「字義通りの表現」と「比喩的な表現」の関係は、『文化の創出』において「慣習的ないし集合的な象徴作用」と「差異化ないし個別化する象徴作用」の弁証法とされたものに対応している。ワグナーは「弁証法」をまずもってヘーゲルやマルクスの用法よりも元々のギリシア的な観念に近しい「互いに矛盾すると同時に支えあう二つの考え方や視点のあいだの緊張ないし対話的な交替」を意味する概念として用いているが2、『文化の創出』では二つの視点の「緊張」により焦点が当てられていたのに対して、本書では両者の「対話的な交替」を一つのプロセスとして捉えることに主眼が置かれる。このプロセスこそ、比喩的な「かのように」と字義通りの「ある」が互いに互いを置き換えていく運動であり、これをワグナーは「オブヴィエーション」と呼ぶ。ここまでが第一章で提示される、本書全体の基礎となる内容である。

オブヴィエーション

 第二章では、「それ自体を表す象徴」を基礎として文化を捉えるためのモデルが、以下で概説する諸概念を組み合わせることによって構成されていく。

 まず、字義通りの表現は、「〒」が郵便を表すように、それが指示するものをコード化(暗号化)する象徴、すなわち記号として把握できる。これに対して、比喩的な表現は、「景気が冷え込む」と言うことで経済的な状況がまるで季節の変化のように感じられるように、人々がアナロジーを通じて現象を知覚することを可能にし、そうした知覚の対象をイメージさせる象徴である。前者は「指示的コード化」や「指示基準点」、後者は「知覚的イメージ」や「知覚的アナロジー」と言い換えられる。両者のまとまりはそれぞれ象徴の「小宇宙(ミクロコスモス)」と「大宇宙(マクロコスモス)」と呼ばれ、「ある」と「かのように」の相互置き換えは、小宇宙と大宇宙が互いを包摂していく運動として把握される。

 こうして、文化を捉えるためのモデルは、『文化の創出』における集合的な象徴作用と個別的な象徴作用の弁証法を発展的に再構成した、象徴の小宇宙と大宇宙の対話的な交替として提示される。これによって、本書の議論にとっての最大の仮想敵であり、乗り越えるべき対象とされる構造主義(ソシュール派言語学およびその発想と整合的な限りにおけるレヴィ=ストロースの構造人類学)との差異が明確になる。というのも、構造主義においては言語をはじめとする文化的事象が諸記号(別の何かを表す象徴)の差異や対立からなる体系によって説明されるわけだが、そのような体系としての「構造」に対応するのがここで言う「小宇宙」だからだ。文化を構成する象徴の働きを、諸記号のあいだの対比や分類によって現象が区画される構造主義的な小宇宙だけでなく、そうした小宇宙と諸々の区画を接合し拡張していくイメージの大宇宙との関わりにおいて捉えること、それが本書における構造主義を乗り越えんとする試みの内実である。それは同時に、自然現象としての人々の身体的な知覚が文化的現象としての記号の体系によって秩序づけられるという、ソシュール派言語学が前提とする自然/文化の二分法を退けることを含意する。意味とは知覚的イメージと指示的コード化のあわいから引きだされるものであり、そのいずれかが他方よりも自然的/文化的であるということはない。

 では、指示的な小宇宙と比喩的な大宇宙のあいだの対話的交替を担う「オブヴィエーション」とはいかなるものだろうか。ワグナーは「obviate」(未然に予期して除去する)と「obvious」(明らかな)が、いずれもラテン語「obvius」とその関連語を語源にもつことから、「obviation」をこの二つの意味を兼ね備えた概念として用いている3。簡潔に言えば「オブヴィエーション=除去―顕在化」とは、「何かが先行する別の何かを除去し、それに置き換わることによって、そこに潜在する何らかの可能性が明らかになる」という一連のプロセスのことである。この用語は『文化の創出』では差異化する象徴作用(=それ自体を表す象徴)が持つ効果を指すものとして用いられていた。例えば、「景気」という表現は、経済に関する既存の表現を詩歌に関する表現によって置き換え、経済がそのなかで人々の生が営まれる情景のような性格を持ちうることを顕在化させる、と言えるように。これに加えて、『致死の語り』や本書におけるオブヴィエーションは、主に指示的コード化と知覚的イメージ(慣習的な象徴作用と差異化する象徴作用)の関係を表すものとして、一段高い論理階型において用いられる。それはつまり、比喩の効果としての「オブヴィエーション(除去―顕在化)」が比喩的な/字義通りの表現の双方に見いだされるということであり、これによって、知覚的イメージと指示的コード化が互いの隠喩として働き、小宇宙と大宇宙が互いの働きを媒介していく一連のプロセス、第三章以降でオブヴィエーションの「シークエンス」と呼ばれるものを対象化することが可能になる。このように、ワグナーは、AとBの関係として概念化したものをさらにAと呼ぶという論法を頻繁かつ意図的に用いる。こうした「論理階型の混同」を、ベイトソンとは異なり分析される対象に見いだすのではなく分析する側の道具として用いていることが、本書を難解なものにしている第三の要因である。『文化の創出』では主に「創出(invention)」概念に用いられていたこの操作は、本書では「オブヴィエーション」や「比喩(それ自体を表す象徴)」に適用されるだけなく、「比喩の累乗」という概念によって対象化されていく。

 象徴の小宇宙と大宇宙の弁証法(対話的な交替)は、両者の一方が、もう一方と弁証法の外部にある要素の関係を媒介するという仕方で構成される。指示的コード化(小宇宙)は知覚的イメージ(大宇宙)と社会的な集合性のあいだを媒介し、知覚的イメージ(大宇宙)は指示的コード化と個別的な事実のあいだを媒介する(図2)。各種の指標に基づいて語られる「経済の停滞」が、より比喩的な「景気の冷え込み」を知覚する人々を社会的な集合体に結びつけ、体感に基づいて囁かれる「景気の冷え込み」が、より字義通りな「経済の停滞」に言及する人々を経済の変化を通じて生じる個々の出来事と結びつけるように。言い換えれば、小宇宙が前面(「図」)で働く際には大宇宙が背景(「地」)となり、大宇宙が図として働く際には小宇宙が地となることによって、両者は互いの働きを媒介する。

「図2 媒介的な焦点としての大宇宙と小宇宙」(本書五三頁所収)

 さらに、両者は自らの媒介としての働きを使い尽くす(解消する)ことによって他方に包摂される。大宇宙におけるイメージのオブヴィエーションは字義通りの表現を比喩的な表現に置き換え、出来事を集合体に結びつける慣習的な隠喩(例えば字義通りの「景気」)を形成することで自らの働きを解消し小宇宙に包摂される。小宇宙における慣習のオブヴィエーションは比喩的な表現を字義通りの表現に置き換え、集合体を出来事に結びつける個別的な隠喩(例えば比喩としての「経済の停滞」)を形成することによって自らの働きを解消し大宇宙に包摂される(図3)。このとき、比喩の効果としてのオブヴィエーションは、比喩的な表現だけでなく字義通りの表現にも見いだされている。比喩的な表現(「景気」)が十分に普及すると、それは「別の何かを表す」記号に見えてくるし、それを字義通りの表現に置き換えたもの(「停滞/成長する経済」)を「自らを表す」比喩的な表現として見る(これをワグナーは「逆向きの隠喩」と呼ぶ)ことも可能になる。このように、比喩的な表現が字義通りの表現となり、字義通りの表現が比喩的な表現となる運動を通じて、図/地としての小宇宙/大宇宙が地/図となる「図と地の反転」が知覚できるようになる。こうした比喩による知覚それ自体を捉える知覚を可能にする比喩が、本書において「比喩の二乗」や「二次の比喩」と呼ばれるものである。

「図3 媒介的解消としてのオブヴィエーション」(本書六三頁所収)

親族のシークエンス

 以上で概説した諸概念によって「それ自体を表す象徴」を基礎として文化を捉えるモデルが構成され、ダリビの実践や西洋史に適用されていく。それらはまずもって、指示的コード化(字義通りの表現)/知覚的イメージ(比喩的な表現)が、知覚的イメージ/指示的コード化によって置き換えられ、それがまた指示的コード化/知覚的イメージによって置き換えられていくという、置換のシークエンス(連なり)として把握される。シークエンスの一点をしめる各表現は、前述したように、先行する表現に対してより字義通りの/より比喩的であるという相対的な位置づけにおいて指示的コード化/知覚的イメージとみなされる。ただし、こうしたオブヴィエーションのシークエンスは、単に二種類の点が交互に現れる直線的な流れとして提示されるわけではない。先行する点を隠喩として表す(=除去/置換する)各点は置換が進むにつれてより包括的な枠組を形成するようになり、その枠組において各点のより広範な意味が明らかになっていく。ワグナーはこれを「点の隠喩」が「フレームの隠喩」へと拡張していく運動として捉えたうえで、シークエンスを構成する各点を、ヘーゲル流の弁証法におけるテーゼ(正)、それに対立するアンチテーゼ(反)、両者の対立を止揚するジンテーゼ(合)の三つ組からなるプロセスが展開される起点(正)とみなし、各点が構成する三角形がより大きな三角形によって包摂される図形を示しながら、この運動を記述し分析する。こうした図形を伴う分析の基本的な特徴を、第三章で展開されるダリビの親族関係をめぐる議論に即して説明しよう。

 ダリビにおける親族関係は男女の婚約という段階から始まるが、そこには、男性の兄弟と女性(多くの場合は少女)の母親に関わる人々のあいだの、あらゆる社会的な関係に制限を課す禁止が伴う。これは、制限の対象となる人々を結びつけうる様々なイメージ(「友人」や「ハトコ」など)を、婚約した少女の贈り手と受け手をめぐる慣習的な規約が指示する忌避へと置き換える指示的コード化であり、これをワグナーは「置換A(ないし点A)」と呼ぶ。ただし、婚約は「富と肉に対する返礼」として授けられると言われており、少女を受けとる集団から彼女の親族へと肉や真珠貝の贈与がよどみなく続くことも期待される。肉や真珠貝という富の知覚的イメージは、社会的な区別を直に措定するのではなく、二つの集団のあいだを横向きに流れる関係性のアナロジーとして働くことで、交流を制限するコード化(置換A)の働きを除去する「置換B」として働く。婚約はまた、将来の夫となる男性が属する系統に属する人々が妻となる少女の「魂を受けとること」だと言われている。「少女の魂」は、贈られた富の返礼として自らを捧げる花嫁の社会的なアイデンティティであり、モースが論じたハウのように花嫁が属する系統への贈与を促す。花嫁の父の家の前で行われる婚姻の儀礼では、花婿と彼と同じ系統に属する男たちが「少年の魂」と呼ばれる装束を身につけ、彼らが手にする真珠貝を着飾って現れた花嫁が受け取っていく。このように、男性的な富からなる婚資と花嫁をはじめとする女性的な富が交換されることで、置換Bにおける富の横向きの流れが除去され、性別化された互酬的な流れに置き換えられる(置換C)。ただし、婚姻儀礼における置換Cは、男性的な富からなる流れと女性的な富からなる流れという性別化が特定の視点に依拠していることを「明らか」(obvious)にもしてしまう。というのも、各集団において身体や財の流れは常に男性の縦に連なる流れとして把握されるために、妻を贈ることは、妻の受け手となる人々にとっては女性的な流れだが、妻を贈る人々にとっては埋め合わされなければならない男性的な富の喪失でしかないからである。

 こうして、指示的コード化と知覚的イメージが互いを除去する置換の連鎖は、それによっていかに諸関係が組織されているのか自体を顕在化させる。ワグナーは、AからCに至る点(=置換)の連なりを、Cを頂点とする三角形によって図示するが(図4)、ここで置換が終了するわけではない。婚姻儀礼(C)において性別化された互酬性は、受胎される子供のイメージによる置き換え(D)、子供の帰属をめぐる慣習的な贈与による置き換え(E)、慣習的には区別される男性的な流れと女性的な流れの等価性を表すイメージによる置き換え(F)を経て、性別化されない関係性全般のアナロジーによる置き換え(G)に至る。置換Gが、A(交流の制限)を否定するD(婚姻に基づく生殖による流れ)を否定するもの、「Aでなくはないもの」としてAに重なりあうことで、置換の連鎖は出発点に戻る。つまり、字義通りの表現と比喩的な表現が互いを置き換えていくA~Gの連なり自体が自己言及的に働くのであり、ここに至って「それ自体を表す象徴」という本書の表題が、比喩的な表現だけでなく、字義通りの表現と比喩的な表現の関係(置換の連鎖)を意味することが明らかになる。こうして一連のオブヴィエーションのシークエンスは、点Fと点Bをつなぐ直線を底辺として点Dを頂点とする三角形BDFによって三角形ABC/CDE/FEAと逆三角形ACEが包摂される、入れ子状の図形によって示されることになる(図10)。

「図4 ダリビの親族関係のシークエンスにおける第一の閉鎖」(本書七七頁所収)
「図10 弁証法的包含と対抗創出」(本書九九頁所収)

 この図形は、指示的コード化(A・C・E)と知覚的イメージ(B・D・F)が交互に現れることで構成されており、前者のまとまりとしての小宇宙(逆三角形ACE)が後者のまとまりとしての大宇宙(三角形BDF)によって包摂されることを示すだけでなく、各点がそれに先行/後続する二点との関係を超えたより大きな枠組において持つ意味を把握するために用いられる。例えば、各点は正・反・合の三つ組の起点となるために、ある正・反・合(例えばA・B・C)に連なる点(D)は、元々の正(A)を取り消す新たな正・反・合(B・C・D)の終点(合)として現れる。したがって、ある点はそこから三つ先の点と向かい合う位置にあり、その点によって取り消されることになる。つまり、A(交流の制限)がD(生殖の流れ)によって、B(性別化された流れ)がE(子供の帰属をめぐる贈与)によって、C(互酬的な流れ)がF(流れの等価性)によって取り消されることで、置換の連鎖が時間的に前進する(反時計周りの)運動が生じる(図9)。

「図9 取り消しと軸による包含」(本書九七頁所収)

 一方で、指示的コード化に至る三項関係(ABC、CDE、EFG)は、シークエンスを一時的に閉鎖するその終点(合)によってその起点(正)を遡及的に動機づける。つまり、C(互酬的な流れ)がA(交流の制限)を、E(子供の帰属をめぐる贈与)がC(互酬的な流れ)を、G(関係性全般のアナロジー)がEを動機づけることで、時間的に後退する(時計周りの)運動が生みだされる(図10の点線矢印A→E→C→A)。性別化された互酬性(C)による性別に基づく交流の制限(A)の動機づけが諸集団を性別化することの恣意性を明らかにしてしまうように、遡及的な動機づけはオブヴィエーションの連鎖を通じた意味の構築の恣意性を顕在化させることによって、相対化に抗する努力を人々に促すものとなる。

ダリビの中核的象徴

 外側の三角形BDFが人々の婚約や結婚や子孫の誕生をめぐる交換(ACE)を媒介するアナロジーを形成するのに対して、内側の逆三角形ACEは婚約や結婚や誕生の対価として払われる真珠貝をはじめとするモノの流れ(A→E→C→A)を形成する。Aを除去しながらAによって置き換えられる点Gは、この逆方向に進む二つの流れが構成する関係性全般のアナロジーである。それは、人間は真珠貝などのモノの循環を通じて互いに結びつけられており、親族の内部における生命の流れはその外部で反対方向に進む不死のモノの流れによって再生産されているという知覚を可能にする。置換の終点となるGは、置換の始点であるAによって置き換えられながらAを除去するものである限りにおいて、Aから始まる親族のシークエンス全体を相対化する効果を含んでいる。ワグナーは点A~Fが構成する小宇宙と大宇宙の対話的交替を「一次の比喩」としたうえで、点Gを、一次の比喩における意味の拡張の限界点であると同時に、こうした意味の拡張が二次の比喩における「図と地の反転」へと至る契機になるものとして位置づける。

  続く第四章では、ダリビにおけるソウゥの神話とハブの儀礼がオブヴィエーションのシークエンスとして分析される。

 ダリビにおける起源神話に相当するソウゥの神話は、なぜ人間が不死ではないのかという問いに説明を与えるものであり、親族のシークエンスと同様に、人がまだ不死であった状態を形成する置換(A)から始まり、神話の筋書きに沿ってBからFまでの置換が現れ、Aで「なくはない」G(人間の不死性を担う外部の行為体)へと至るシークエンスとして把握される(図11)。こうした神話のシークエンスは、三章で提示された親族をめぐるシークエンス(図7)を取り消しのライン(D→A、E→B、F→C)にそって反転させたものに極似した布置をなしている。

「図11 ソウゥの物語における相対化と動機づけ」(本書一一七頁所収)
「図7 オブヴィエーション的暗示の点」(本書八九頁所収)

 そのように見れば、神話のシークエンスにおける三角形BDFは親族のシークエンスにおける小宇宙(逆三角形ACE)に、神話の逆三角形ACEは親族の大宇宙(BDF)に対応することになる。つまり、神話の三角形は親族のシークエンスにおける小宇宙と大宇宙を反転させたものになっている(図12、13)。ソウゥの神話はダリビの親族をめぐる道徳性を基礎づける条件に関わるものであり、神話のシークエンスにおける字義通りの/比喩的な表現は親族のシークエンスにおける比喩的な/字義通りの表現に対応しているのである。したがって、二つのシークエンスを結びつけることができれば、字義通りの/比喩的な表現が比喩的な/字義通りの表現になり、図/地としての小宇宙/大宇宙が地/図として現れる「図と地の反転」を知覚することが可能になる。

「図12 親族のシークエンスの軸による反転としてのソウゥ神話のシークエンス」(本書一一八頁所収)
「図13 ソウゥ神話と親族のシークエンスのあいだでの効果の反転」(本書一一九頁所収)

 ワグナーは、こうした図と地の反転を儀礼的に上演するものとして、ハブの儀礼を位置づける。ダリビの人々にとって、病気とは死霊の憑依によるものであり、憑依された人は通常の能力を失っている度合いに応じて「死んで」おり、同じ度合いに応じて憑依する死霊もまた「生きて」いる。茂みのなかでの死や埋葬すべき遺体を回収できなかった死のような「悪い」死の結果として現れた死霊は特に危険である。それはしばしば豚や子どもたちに病や死を伝染させ、普段は生の背景(地)に留め置かれている死を前景(図)に浮かびあがらせることによって、社会の存続を脅かす危機を引き起こす。ハブ儀礼は、このような危機を封じ込めるための統制された「図と地の反転」として行われる。

 ハブ儀礼の進行もまた点A(豚と子供への憑依)から点G(男たちの魂を獲ろうとする男装の女たち)に至るシークエンスとして把握されるが、その各点は、相互に反転する親族と神話のシークエンスの各点を接合する隠喩として把握される。ただし、指示的コード化と知覚的イメージの相対的な区別が無視されるわけではない。親族と神話のシークエンスにおいて小宇宙を構成する諸点(親族のACE、神話のBDF)はハブにおいては比喩的な表現として現れ、大宇宙を構成する諸点(親族のBDF、神話のACE)はハブにおいては字義通りの表現として現れる。例えばハブにおける点A(豚と子供への憑依)は親族における点A(交流の制限)を比喩的な表現に近づけると同時に神話における点A(不死の内在化)を字義通りの表現に近づけることで両者を接合し、ハブにおける点D(死霊に憑依されるハブの男たち)は親族の点D(受胎のイメージ)を字義通りの表現に近づけると同時に神話の点D(社会的な萎縮)を比喩的な表現に近づけることで両者を接合する。つまり、ハブの各点は親族と神話における対応する二点を接合することで構成される。親族と神話とハブのシークエンスは、前二者における小宇宙と大宇宙が反転しているために単純に重ね合わせることはできない。だが、神話のシークエンスをACEが外側の三角形となるように変形したうえで、親族と神話のシークエンスの両方を内部の逆三角形(親族のACE/神話のBDF)に沿って折り曲げ、同じアルファベットを持つ全ての二点が一致するように接着すれば、ハブの八面体モデルが得られる(一三四頁図14)。このように、ハブは二次の比喩としての「図と地の反転」の知覚を可能にする儀礼なのである。

「図14 ハブの正八面体モデル」(本書一三四頁所収)

 ただし、この図示はハブが何らかの固定的な構造をもつことを意味するわけではない。ダリビの人々はこの儀礼の意義について自分たちは全く無知であると言うが、だからといって人々が生きる無意識の構造をワグナーという人類学者が解明したということにはならない。というのも、親族の点Aからハブの点Gまで、指示的コード化(別の何かを表す象徴)と知覚的イメージ(それ自体を表す象徴)が互いを置換しながら形成してきたオブヴィエーションの連なり自体が「それ自体を表す」隠喩だからである。ダリビにおける「中核的な象徴」もまた、あるシークエンスのどれか一点に対応するわけでなく、置換と反転を介して複数のシークエンスを横断する隠喩の連なりとして提示されている。隠喩としての親族―神話―ハブのシークエンスは、無意識の構造のような対象を指示するものではありえないが、ダリビの人々が生と死を特定の仕方で構築することを動機づけると同時に、点からフレームへの拡張を通じてその構築を相対化するという矛盾を孕んだ意味の拡張を引き起こす。この矛盾が頂点に達するのがハブ儀礼において示される「図と地の反転」であり、それを通じて人々が自分たちの生を取り決めながら相対化するこの逆説こそが、シュナイダーが「中核的な象徴」と呼んだものであるとワグナーは結論づけている。

画期と中世/近代

 第五章に入ると、ここまでの議論が時間という観点から捉え直されていく。同型のシークエンスによって把握されたダリビの親族・神話・儀礼は、時間的なスケールにおいては著しく異なっている。親族の諸関係は二世代以上に渡り、神話は数分で語れ、ハブ儀礼は一カ月以上かかる。こうした通常の時間の測り方は、だが、シークエンス間の相互関係を捉える際には意味をなさないとワグナーは言う。オブヴィエーション(除去―顕在化)は、常に先行する何かを自らの「今」へと同化させる、それ自体が関係性である出来事であり、「数分」や「一カ月」といった間隔に位置づけられるものではないからだ。この点において、オブヴィエーションは、構造主義をめぐって繰り返し問題とされてきた「無時間的な構造/歴史的な出来事」の対立を無効化する。この対立が、全ての出来事や変化を特定の「間隔」において捉える(ために構造を位置づけられない)時間性を前提とするからこそ生じるのに対して、関係性かつ出来事であるオブヴィエーションは自らに固有の時間性を持つからである。

 ワグナーは、「間隔」に基づく時間性を「字義通りの時間」、オブヴィエーションの時間性を「有機的な時間」と呼んだうえで、両者の関係を「字義通りの表現」と「比喩的な表現」の関係と類比的なものとして把えている。つまり、人々が直接的に経験しているのは「有機的な時間」であり、「字義通りの時間」はそれをある仕方で翻訳したものにすぎない。私たちは通常、時計や暦が指し示す時間をこの世界に実在するものとみなしている。だが、私たちの日常から全ての時計や暦、それらに関する知識が消失すれば、そこにあるのは「今」だけである。過去の記憶も未来への展望も「今」に吸収される。時間とは今であり、今こそが時間である。こうした「時間それ自体を表す時間」のあり方をワグナーは「画期(エポック)」と呼び、字義通りの時間における「間隔(インターバル)」と対置する。「間隔」とは空間化された時間であり、画期におけるオブヴィエーションの閉鎖(例えば日の出や日没)が時計などの測定器具をつうじて「周期」へと変換されることで産出される。とりわけ産業革命以降の西洋においては、時間の間隔においてエネルギーや仕事の量を測定する、機械時計を原型とする様々な自動機械(蒸気機関、エンジン、コンピュータ)が生活の隅々にまで浸透するなかで、「字義通りの時間」が自然界に実在するものとみなされるようになってきた。それは同時に、画期を模倣した機械やその作動原理としての数学的公式に対応するものとしての「自然」が現れ、象徴や解釈や比喩に満ちた「文化」と対置されるようになってきた過程でもある。

 近代社会において実在するものとされる字義通りの時間は、画期からなる有機的な時間が翻訳され空間化されたものである。このように考えることで、第三~四章のダリビを対象とする分析手法を第六章の対象である西洋中世/近代史に適用することが可能になる。通常は直線的な時間軸にそって記述される歴史もまた、以下のように画期となる諸点が置換されていくシークエンスにおいて把握できることになるからだ。

 中世においては、自然という偶有性を通じた比喩的な神の顕現(A)が、聖体拝領における偶有性から実体への字義通りの変容(B)へと置き換えられ、偶有性と実体の哲学的な区別に基づく中世的な社会(結社的な教会)と理性(スコラ哲学)の発見に至り(C)、さらに、教皇全盛期における実体としての神の現前(D)、実体から生みだされる偶有性としての贖宥状(E)を経て、実体と偶有性の分離可能性を否定したウィクリフの「見えない協会」(F)に至る(図18)。

「図18 中世のサイクルの取り消し」(本書一八七頁所収)

D/E/FはそれぞれA/B/Cを取り消し、宗教改革と科学革命が共に担う点G(存在の世俗的な根拠たる自然としての偶有性の発見)において図の地の反転が生じることで、近代のシークエンスの開始点となる点A、「人間による信仰の関数(効果)としての神の現前」が現れる。それは、カルヴァン派の予定説における生得的な秘跡ないしデカルトにおける「思惟する実体としての心」と「延長された実体としての偶有性」の二元論(B)を経て、予定説という信仰を集合的な理性に置き換えた啓蒙主義(C)に至り、さらには政治と自然に一貫する合理的な秩序としての理性の専制(D)、産業革命を通じた理性と自然の生産における象徴的な統合を経て(E)、実存主義や現象学や消費社会化における生産の人間的な意味の観点からの解釈に基づく、個人を生産するシステムとしての社会(F)に至る(図20)。

「図20 近代のサイクルにおける取り消し」(本書二〇二頁所収)

 こうして、西洋史における中世と近代は、直線的な進歩の図式にそって前者から後者へ至るような、一般的な歴史の捉え方とは著しく異なる仕方で提示される。中世と近代のシークエンス(点A~点F)はダリビにおける親族と神話のシークエンスと同じように、それぞれが画期の連鎖を通じた点の隠喩からフレームの隠喩への拡張において把握されるだけでなく、二次の比喩を通じて両者が接合された八面体(図21)において把握される。

「図21 中世―近代の反転」(本書二〇三頁所収)

ここにおいて、中世と近代は、前者から後者への発展としてではなく、二つのシークエンス(点A~Fの連なり)が図と地の反転を通じて相互に関係づけられるなかで西洋の中核的な象徴が現れる、そのような視界において知覚されることになる。それは同時に、「字義通りの表現」や「字義通りの時間」に対応する諸要素が属する領域とされる「自然」や、それらの要素を人間が様々な仕方で意味づけ解釈する領域とされる「社会」や「文化」、事実と対応する字義通りの表現よりも下位に置かれる修辞的な比喩といった、本書の序盤から批判的に検討されてきた近代的思考の前提となる観念の成り立ちを捉えうる視界でもある。そして、この視界を可能にしているのは第三~四章のダリビをめぐる分析に他ならない。つまり、中世―近代の八面体モデルが示しているのは、西洋史の人類学的記述に舞台を移したワグナーによるハブ儀礼の再演である。「それ自体を表す象徴」を基礎とする論述(一・二章)をモデルとしてダリビの文化(親族・神話・儀礼)が捉えられる(三・四章)ことによって、ダリビの文化をモデルとして当の人類学的記述の前提にある西洋史を捉え直すこと(五・六章)が可能になる。こうした記述と分析における主体と客体の相互反転のなかで、本書が展開する文化をめぐる人類学的言明は、その基礎にある近代的思考もろとも再構成されているのだ。

自然と文化を包括する隠喩

  終章となる第七章では、前章までの議論をふまえて「三次の比喩」について論じられる。一次の比喩とは、指示的コード化と知覚的イメージの相互置換からなる小宇宙と大宇宙の弁証法(対話的な交替)によって意味が拡張されていく過程であり、ダリビの親族/神話/儀礼、西洋の中世/近代という五つのシークエンスとして示されてきたものである。二次の比喩とは、指示的コード化/知覚的イメージが知覚的イメージ/指示的コード化とみなされることによって図と地の反転が生じ、複数のシークエンスが接合される過程であり、ハブ儀礼や中世―近代の八面体モデルによって示されたものである。三次の比喩、比喩の三乗とは二次の比喩における図と地の反転が可能であることを表す比喩であり、人間の条件を境界付ける媒介変数としての身体の小宇宙と大宇宙を相互に構成するものとして定義される。 ワグナーによれば、人間の脳は、その独自に特化した半球において、大宇宙的な知覚と小宇宙的なコード化の弁証法的な相互依存を具現化している。言語は自分とは異なる知覚者を含む社会と個々人の心を結びつけ、セクシュアリティは異なる身体を統合する。脳が身体という大宇宙のなかに心という小宇宙を内包するように、生殖的な小宇宙としての子宮は胎児の身体という大宇宙を内包する。こうして言語(脳)とセクシュアリティ(身体)は図と地を反転させながら互いを包みこむ(図22)。

「図22 具現化、比喩の三乗」(本書二三二頁所収)

ここでは、六章まで検討されてきた文化の弁証法、小宇宙と大宇宙の対話的交替それ自体が、一段高い論理階型において、身体という大宇宙に対する小宇宙として位置づけられている。ただし、それは象徴の体系としての文化が神経科学的な脳の構造や生物学的な身体によって基礎づけられるということではない。三次の比喩において産出される小宇宙/大宇宙は一次の比喩における媒介の対象となるものであり、二次の比喩における図と地の反転によって媒介されるものであって、一次から三次に至る比喩の累乗は再び一次に戻って再帰的に循環していくからだ。比喩的な表現が生みだす文化の弁証法は、セクシュアリティや身体によって包摂されると同時にそれらを包摂するものであり、一次から三次に至る比喩の全域が「それ自体を表す象徴」として働いているのである。

 

 以上で概説した本書におけるワグナーの議論は、まずもってパーソンズからシュナイダーへと継承された象徴の体系としての文化概念を独自の仕方で発展させたものであり、とりわけシュナイダーが一九七〇年代から提示してきた、自らの著作を含む人類学的親族研究が西洋に固有の「自然/文化」の二項対立を前提とする自文化中心主義的な分析に陥っているという批判を、近代的な自然/文化概念の成り立ち自体を包含しうる象徴一元論とも呼べる方法論にまで昇華させたものとして捉えることができる。こうした理解は、二一世紀初頭に台頭した「存在論的転回」と呼ばれる潮流において、ワグナーの著作がマリリン・ストラザーンやエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの著作と並んで、「転回」の先駆者とされた際の捉えられ方でもある。例えば、二〇一七年に刊行されたマルティン・ホルブラードとモルテン・アクセル・ペデルセンによる『存在論的転回』では、シュナイダーの議論が親族研究の前提となってきた自然と文化の区別が米国の文化における構築物であることを批判するに留まっており、文化という概念自体はそのまま温存するものであったのに対して、人類学的分析の前提となる「文化」や「自然」という概念自体を掘り崩すことを試みた論者としてワグナーが位置づけられている4

 ホルブラードらは、存在論的転回とは「この世界には何が存在するのか」という問いに対する最終的な解答やその基礎づけを試みるものではなく、人類学的なフィールドワークの場を構成する諸々の存在を表現するために人類学的諸概念がいかに調整され変容されるべきかという問いを追求し続ける試みであると論じる5。こうした位置づけは、ダリビと西洋を横断しながら文化という基礎概念を再構成していく本書の議論にも確かにあてはまる。しかしながら、人類学者と現地の人々の視点が交錯する民族誌的な場における存在論的な不確定性を根拠として存在論的基礎づけを試みている(ように見える)論者たちを「私たちの存在論的転回」から排除するホルブラードらの議論に沿った理解だけでは、文化を構成する原理として隠喩を置く発想に基づくワグナーの議論の幅広い射程は捉えきれないように思われる。たしかに本書で提示される方法論はダリビの文化をモデルとするものだが、そのことは、脳や身体や人間の条件一般について論じることを決して妨げていない。

 存在論的転回の先駆者としての位置づけを離れてワグナーの議論を捉えれば、学説史的に先行ないし後続する様々な論者との相互関係を見いだすことができる。まずもって指摘できるのは、シュナイダーと同じくパーソンズが創設したハーバード大学社会関係学科に学び、文化システム論をより批判的に継承したクリフォード・ギアツの議論との並行性である。本書で繰り返し強調されるモデルと対象の反転可能な関係性は、社会的相互作用と象徴体系が互いに互いのモデルとなる(model of / model for)過程を文化の弁証法として提示したギアツの議論を、比喩的な表現を象徴の中心に組みこむことによって変形し、文化とそれを描く民族誌の関係にまで拡張したものとして把握することもできる。

 本書の学説史的な位置づけにおいて最も重要な論点の一つは、レヴィ=ストロースの議論との関係であろう。本書で批判される構造主義の発想はあくまでソシュール派言語学と整合的な範囲に限定されている。そのように理解された構造主義の「構造」概念を指示的コード化の束としての象徴の小宇宙と対応させ、それを包摂するイメージの大宇宙との動的な弁証法を提示するワグナーの議論は、構造と反構造の弁証法的な関係を提示したヴィクター・ターナー、構造が再生産されるミクロな過程を解明しようとしたピエール・ブルデュー、構造概念と歴史的な出来事の接合を試みたマーシャル・サーリンズらと同様に、構造主義における静的な構造概念の乗り越えを試みたものだとも言えるだろう。ただし、ワグナーは本書において、自らのアプローチは文化の本質に「ブリコラージュ」を据えた「構造なき構造主義」だと記してもいる(二八頁)。実際、『野生の思考』において、ある物品から引き抜かれた部分を用いて別の物品を構成するブリコルールの営為においては、その部品が元々の物品という「一つの技術的体系の構成単位」であったことから過去の「必然的関係の凝縮された表現」をなすために、完成した物品は「はじめに漠然と想像されていたままであることも、当初によりよいと考えられていたままであることもけっしてない」6という仕方で説明されるブリコラージュの過程は、それを複数の体系に共通する不変の特性を解明する構造変換と類比的なものとして捉えるレヴィ=ストロース本人の議論よりも、「除去―顕在化」の連鎖からなるワグナーのオブヴィエーション論により親和的なものだとも考えられる7

 本書だけでなく『致死の語り』や『創出の論理』でも用いられているオブヴィエーションのシークエンスに基づく分析手法は、ワグナーの指導学生であるジェームズ・ウィーナー(James. F. Weiner)によって「オブヴィエーション分析」と名付けられ、ニューギニアのフォイについての民族誌8The Heart of the Pearl Shell 1988, The Lost Drum 1995)で用いられており、ストラザーンの『部分的つながり』 の後半部ではこうしたオブヴィエーション分析が構造主義的な分析を発展させたものとして位置づけられ、それをさらに発展させたものとして、文化と人類学の双方に創造的な空白(ギャップ)を見いだすストラザーン自身の方法論が展開されている9。このように考えれば、本書の議論を、レヴィ=ストロースの構造主義人類学からソシュール派言語学的な構造概念を除去することでその潜在的な可能性を顕在化させてきた学問的系譜の端緒として捉え直すことも可能になるだろう。

 本書において最も印象的でありながら最も怪しげに見えるのは図式を用いた分析ではないだろうか。何故どんな事例もこの形にきれいに収まるのか。各点が正・反・合の起点になるという見立ては何によって正当化されるのか。これらの図式それ自体を最終的な成果とみなすことなく本書の学問的意義を掴むことは容易ではない。だが、ワグナーはこれらの図式はオブヴィエーションそのものではなくその働きを把握するための測定器具にすぎないと明言しているし、正・反・合の三つ組はあくまで対象を捉える/対象によって捉え直されるためのモデルであると言うだろう。本書における複合的な記述と図形の連なりが生みだす指示とイメージのあわいからいかなる意味を引きだすことができるかは、最高度の論理的な精緻と奔放を尽くしたうえで、読者に委ねられている。


  1. スザンヌ・ランガー 二〇二〇 『シンボルの哲学――理性、祭礼、芸術のシンボル試論』塚本明子訳、岩波書店。二六〇―二六一頁。 ↩︎
  2. Roy Wagner 1981 The Invention of Culture (Revised and Expanded Edition) (Chicago: University of Chicago Press, 1981), 52. ↩︎
  3. Roy Wagner Lethal Speech: Daribi Myth as Symbolic Obviation (Ithaca: Cornell University Press, 1987),  31-32. ↩︎
  4. Martin Holbraad and Morten Axel Pedersen 2017 the Ontological Turn: An Anthropological Exposition (Cambridge: Cambridge University Press, 2017), 75-76. ↩︎
  5. ibid., 11. ↩︎
  6. クロード・レヴィ=ストロース 一九七六『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房。二二―二五頁。 ↩︎
  7. 久保明教 二〇二五 『内在的多様性批判―― ポストモダン人類学から存在論的転回へ』作品社。一九〇―一九八、二九五―二九六頁。 ↩︎
  8. James F. Weiner The Heart of the Pearl Shell: The  Mythological Dimension of Foi Sociality (Berkeley: University of California Press, 1988); The Lost Drum: : The Myth of Sexuality in Papua New Guinea and Beyond (Madison: University of Wisconsin Press, 1995). ↩︎
  9. マリリン・ストラザーン 二〇一五 『部分的つながり』大杉高司・浜田明範・田口陽子・丹羽充・里見龍樹訳、水声社。



    ↩︎

久保明教 (くぼ あきのり)

大阪大学大学院人間科学研究科単位取得退学、博士(人間科学)。一橋大学社会学研究科教授。

谷 憲一(たに けんいち)

一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学、博士(社会学)。国立民族学博物館特別研究員(PD)。