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マルチスピーシーズとアートの未来

四方幸子

(聞き手)奥野克巳

 小社では2021年、叢書「シリーズ人間を超える」の第1回配本『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』、第2回配本『マンガ版マルチスピーシーズ人類学』を続けて刊行した。

近年、人類学を中心に人間と人間以外の多種との絡まり合いに注目した「マルチスピーシーズ」研究が高まりを見せている。同シリーズを記念して、2022年1月に美術評論家連盟の新会長に就任した四方幸子氏を招き、マルチスピーシーズとアートの関係についてお話を伺った。インタビューはシリーズ第1、2回配本の共同監修者の1人である文化人類学者の奥野克巳氏(立教大学)にご協力いただいた。

なおインタビューは2022年1月6日、zoomにてオンラインで実施した(以文社編集部)。

美術評論家連盟会長に就任して

奥野:2022年1月、美術評論家連盟会長就任おめでとうございます。まずは、抱負や展望を一言お願いいたします。

四方:ここ数年、社会でもさまざまな問題が出ていました。美術においてもそれは例外ではありません。例えば2019年のあいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」の件などです。美術評論家連盟は個人の評論家による任意団体ですが、ここ数年は検閲などについての意見書を出すことが多く、それにかなりのエネルギーを使わざるをえなかったということもあり、時代の転換期だと感じていました。インターネットを通して迅速に意見を出す必要性が出てきたのですが、そもそも批評家や評論家というのは熟考を前提とするものです。時代の要請の中で、急ぎの対応に追われて無理があったと言えるでしょう。デジタル化が進み、出てきていた近代的なシステムのズレが、コロナ禍によってさらに加速されたと思っています。しかし、そのことによってようやく真の意味での21世紀が訪れつつあるのではないでしょうか。私たちがどう対応するかにかかっているように思います。

美術評論は近代からの系譜を持っています。近代科学などと同じく、美術も評論も近代的なシステムの1つとしてあるわけです。それを踏まえつつ、多様なアート表現が出てきている現在、人々のために、人々とともに行い、考えていくあり方が重要になってきていると思います。そして、人間以外の存在、例えば動植物、自然、デジタルエンティティを含めて、インタラクティブに美術そして世界を創造していくような時代になっているように思います。

会長として、方向性を3つ挙げたいと思います。1つめは美術評論家連盟の内外のコミュニケーションを活性化することです。2つめに美術と美術評論の社会における存在意義を伝えていきたい。3つめに批評の同時代性を連盟内外の皆さんとともに考えて実践していきたいと思っています。 

ヨーゼフ・ボイスと「マルチスピーシーズ」

奥野:ありがとうございます。今のお話の最後にもありましたが、今回、以文社から刊行された叢書「シリーズ人間を超える」の第1回配本『モア・ザン・ヒューマン』、第2回配本『マンガ版マルチスピーシーズ人類学』は、まさに人間と人間以外の存在との絡まり合いの現実に注目した論集です。マルチスピーシーズ研究は、その立ち上げの時点から、アートやパフォーマンスとつながりの深い分野です。今回のシリーズの刊行を機に、ぜひ人間や非人間、あるいは生命や非生命を視野に幅広いキュレーションを行ってこられた四方さんにぜひ、お話を伺えればと思います。

四方さんのこれまでのお仕事として、1982年に遡りますが、ヨーゼフ・ボイス関連の雑誌を手伝われ、ボイスと対話したラウリン・ウェイヤースの記事を訳され、84年の来日時にはボイス本人にお会いになっておられます。「人は誰でもが芸術家である」「社会彫刻」など1人ひとりの創造性を大事にし、そのことで社会変革を目指したボイスは、現代アートのあまりにも先を言っていたと四方さんは述べられています。

74年には「コヨーテ――私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」という作品でボイスはコヨーテと1週間暮らして、アメリカ社会の先住民に対する抑圧を批判したとされます。それから30年を経て2000年代になると、アダム・ザレツキーが、ショウジョウバエ、酵母、大腸菌、カエル、カラシナ、ゼブラフィッシュ、鼠などの多種とコンテナで1週間暮らし、自らをホモ・サピエンスの代表として展示しました。エベン・カークセイの2014年の編著『マルチスピーシーズ・サロン』では、マルチスピーシーズのパフォーマンスの1つとして取り上げられています。70年代から00年代までには、「人間-動物」という1対1関係から「多種の絡まり合い」へのシフトがあるように思われます。

『マルチスピーシーズ・サロン』では、「人は誰でもが芸術家である」というボイスの言葉が何度か取り上げられ、ボイスの「コヨーテ」に関して、カークセイ、シュエッツエとヘルムライヒは、当時の批評家たちは、ボイスの試みを無批判に称賛したのだと述べた上で、以下のように評価しています。

  最近になって、美術史家たちがこの作品を厳しく批評している。ボイスは「自然」が人類史の物理的な背景だという概念を超えて、自然が現代の人間社会の「文化的無意識」に深く浸透しているのだと想定した。ボイスは自然を神秘化し、先住民の宗教的伝統を不正利用した一方で、コヨーテを「社会彫刻」に参加させ、人間が動物や生態系に対して支配的だという考えを不用意に強化・維持してしまった。動物や植物、微生物を「アーティスト」や「共同作業者」として、ある共通のプロジェクトに参加させることも、支配と搾取の関係を隠してしまう危険性がある。(Kirksey, Eben(ed.) The Multispecies Salon, pp.20-21. Duke University Press)

先住民や動物の乱用と人間-動物の支配-被支配関係の再強化という批判のようです。

「ボイスは、近代の危機をいち早く感知し、人間以外の存在(動植物や自然全般)とのコミュニケーションを促し、遊牧民やシャーマン、仏教などを念頭に『ユーラシア』をめざしていた」。そのため「ポスト『人新世』に向かって、人間中心主義から抜け出て動植物や鉱物をはじめ、地球や地球外の存在と共存していく方向が、よりリアルなものに見えてきた」時期に、ボイスがふたたび意識されるようになったのだと四方さんは述べられています。

20世紀から21世紀にかけてのボイスの評価や再評価、ボイスへの批判などを含めて、今日の同時代的なアート、とりわけ人間以外の存在をめぐるアートの可能性や課題をどのように見られているのかをお聞かせいただけませんでしょうか?

四方:アダム・ザレツキーについては、奥野さんから昨年お聞きするまで知らなかったので、とても驚きました。ボイスに対して、美術史家がそのような批判をしていたことにも驚きました。ボイスは、しばしば挑発的な言動を行いましたが、それは確信犯的に社会に議論を巻き起こすためのものとしてあります。ボイスがカリスマ的存在であったこともあり、死後もさまざまな解釈や意見が交わされ、その中には批判も多くありました。最近では2021年がボイスの生誕100年で、ドイツを始めヨーロッパを中心に多くの国で展覧会などが開かれ、話題となったこともあり批判が再燃したようです。ボイスが育ったのはオランダ国境に近い、ドイツでも周縁的な地域で、かつてチンギス・ハンが到達した地でもあったため、彼は遊牧民を介した「ユーラシア」という地域に親和性を感じていたといいます。ただ若い頃にナチス・ドイツの戦闘機の通信員だったということもあって、批判されているのです。戦闘機が墜落し、瀕死のボイスがタタール人に助けられたというエピソードが有名です。

ナチズムとの関係では、マルティン・ハイデガーの場合が有名ですが、その人の実績とその背景で個人的に関わっていたことが関係しているのか、関係づける必要があるのかどうかという問題は常にあって、この件について現時点ではこれ以上言うことはできません。ただボイスはハイデガーと異なり年少だったこと、戦争で心身に負った傷のため2年ほど鬱で引きこもり、死ぬまで後遺症に悩まされていたといいます。

奥野さんが紹介された美術史家のボイス批判に戻りますと、私はこう思います。芸術作品は時代時代に再解釈されます。これは文学でもそうですし、批評の場合でも同様です。称賛される場合もあれば、批判される場合もあります。どの作品も時代の反映として、その作家が全力で作り上げ世に出します。しかし「作品」は、1960年にロラン・バルトやウンベルト・エーコが提示したように、多様な解釈に開かれたものなのです。それは時代毎に人々がどのようにみているかという反映、つまりリフレクションとしてあります。美術史家たちがボイスを責めたというのは、当時称賛されたということ自体に異議を唱えたということと、ボイスの行ったことに対しての異議と両方あったのだと思います。ボイスがコヨーテのパフォーマンスを行った時代よりも、近年は動物愛護の意識が高まっていることが、違和感を高めた一因でもあるでしょう。

リフレクションとしてさまざまな立場の人が自分の責任を負って批評する、伝えるということは重要です。当然、私の解釈や私の書く批評もそうなのですが、自分の今の立場から発信できる精一杯のことを突き詰めて発信しているわけです。批評は、多面的な視点や複数性に開かれていると思います。さまざまな人たちが関わり、考える、それぞれが責任を持って発信すること、その上でディスカッションに開かれることが重要です。つまり、ボイスに対する批判が起こったことも、非常に重要なことなのです。

とはいえ、美術史家の「参加させた」とか「支配」「搾取」という言葉には、批評的な眼差しが欠けているような気もします。もう少し精密に書かないといけないでしょうし、問題の背景を掘り下げ、文脈に沿って解釈する必要があると思います。ファクトを単純なファクトとして表層的に見て、勝手な解釈をすることは、批評ではなく一種の暴力だと思います。批評は、物事の背景や文脈を見据えること、そして考えや発言する自分の行為の背景や文脈とも距離をとって見据えることから始まります。その上で行う評論や発言も、もちろん発された時点で何らかの権力を持つことは避けられません。それを引き受けながらも、発信し続けることが重要でしょう。

「参加させた」とか「支配」「搾取」という言葉について言えば、ボイスが何を使ったかというよりも、何が起きたかが重要だと私は思います。私の解釈では、このコヨーテのパフォーマンスが行われた1974年当時というのは、アメリカが高度資本主義を発達させていた時代です。ボイスはそれに対する批評的な抵抗として行ったのでしょう。ですから参加させたというよりも、相互のコミュニケーションを試みたと私は解釈しています。そのコミュニケーション自体、当初はあまりうまくいかなかったのですが、むしろ困難を前提として行っていたし、その中から徐々にお互いが影響し始め、共に変容していったわけで、ボイスはそれを起こそうとしていた。変容というプロセスから考えると、このパフォーマンスの重要性が見えてくると私は思います。

また、今日の同時代的なアートについてですが、とりわけ人間以外の存在をめぐるアートの可能性や課題について、私はボイスから入りながら、ボイスのビジョンを時代に即して延長することを念頭に置いてきました。いわゆる社会と科学・技術の関係からアートを捉える視点です。アートを独学したこともあり、現在も自分としてはアートを外から見ていることが多いのです。90年代初頭にメディアアートに出会い、黎明期の実験的な状況の只中で作品やプロジェクトのキュレーションをしてきたのですが、当時念頭にあったのが、「表象からプロセスへ」という言葉です。メディアアートというものは動的で、時間軸があり変容していくのですが、それは表象的側面から表現や解釈がなされる絵画などとは異なり、プログラムとデータの入力によるプロセス自体がインタラクティブに作品を生成するという意味で用いています。

1997年に実感したメディアアートの重要な側面として、私がよく思い出すのは、体験後、その空間から出て日常に戻ったとき、世界がそもそもインタラクティブだったということを改めて感じるということです。

人間中心主義ではなく、アルゴリズムや環境、さまざまな人や物とのコラボレーションに開かれている。同時に始めも終わりもない状況で、いろんなかたちで変化しアップデートされていき、体験はいろんな場所に開かれているということになります。そういったものがアートだとずっと思ってきたのですが、ようやく時代的にも、インターネットが普及したこともありそのような状況になってきた、アートも日常もそうした流動的なリアリティを持ち始めたように思います。

メディアアートについてもう1つ付け加えたいのですが、私は、最新技術をスペクタクル的に駆使した作品をメディアアートとは見なしていません。むしろメディアアートを、いわゆる境界学やマイノリティ・スタディーズと接続されうるものと捉えています。既存のジャンルに当てはまらない人やハッカーが領域を超えて集まる避難場であり、これまで無視されてきたもの・なかったもの、例えば新たな素材や技術の潜在的な可能性を読み取って実験したり、新たなメディアを創造したり、新旧のメディアを結合するなど批評的な実践がメディアアートの本質的な側面だと考えています。そうした意味で、マルチスピーシーズ人類学とメディアアートは共通する点が多いのではという気がします。

2000年以降、環境計測によるデータの可視化や空間の変容を扱うプロジェクトを多くキュレーションしてきました。自然環境や都市空間にセンサーを設置して、データを取り、それに基づいてドローイングをするとか、物が動くとか、そのようなプロセスを扱っていたので、人間によるアートに加えて、人間以外によるアートや人間と人間以外の存在がコラボレーションするアート、人間以外に向けたアートもありうるのではと思っています。そのような気持ちは、年々強まってきています。

大小島真木、大山龍、トントン・ホウウェン

奥野:ありがとうございます。カークセイらはマルチスピーシーズのアートやパフォーマンスはボイスの言葉からスタートしている、という評価をしているわけです。四方さんは90年代以降のメディアアートの流れの中で、広く環境というようなものを捉え、人間・非人間の領域に進んでこられたのだと思います。そこで少し具体的に話を伺ってみたいのですが、HILLS LIFE「エコゾフィック・フューチャー」の連載の中で書かれていらっしゃる「土地、土、大地、コンポスト……そしてビヨンド」は、人間以上の世界にまで踏み込んで、多種の絡まり合いを扱うマルチスピーシーズ人類学と交差する部分が多くあり、示唆に富んだ、とても刺激的な論考だと思います。

地表から地上だけでなく、地中の所有という点に目を向ければ、土や水、微生物や動植物が、本来的にはコモンズとしての生態系であるのに、なぜか国家という仕組みの中に組み込まれて、植民地化されてしまっている。そういう問題意識を踏まえながら、四方さんは「大地に根ざすあらゆる地上の存在、およびその総体としての地球」を「テレストリアル」という概念で捉えるブリュノ・ラトゥールに拠りながら、人間と地球の関係を改めて考えてみなければならないとおっしゃっています。ヒューマンはヒュームス(腐植土)でもあったのに、近代は、人間を自然の循環から疎外してしまった。

このような問題意識のもと、例えば、三原聡一郎さんがコンポストを生涯継続されるという取り組みを追うと、より一層その意義が浮かび上がってくるのだと思います。人間と非人間をめぐって思考するだけでなく、それを具体的な物質性のうちに示すことによって、理解を促すという意味で、アートが果たす役割は大きいのだろうと思います。

土、大地、微生物、動植物などとの複雑な関係性の中に人間をふたたび巻き込むという点を視野に入れたアートには、他にどのようなものがありますか? また人間以上の世界に私たちの思考を拡張していく上で、アートにはどのような可能性があると四方さんはお考えでしょうか?

四方:まず3人ほどアーティストを挙げたいと思います。1人目は奥野さんもよくご存知の大小島真木さんです。彼女とお会いしたのは一昨年の9月で、彼女が出展していた「練馬区立美術館開館35周年記念 Re construction 再構築」展にご一緒し、作品を解説していただきながらゆっくりお話をしました。以来、トークに出演いただいたり、今年は新作をキュレーションしたりする予定です。練馬区美での展示は、土や腐敗、発酵、あるいは自然と身体がどのように繋がっているのかなどを扱うものでした。

また大小島さんは数年前に海洋調査船のタラ号に乗って北太平洋で白い鯨の遺体に群がる鳥たちの姿を見た経験から、1つでは生きられない種が「共存」というよりも絡まり合って、独自に生きていることを感じたとおっしゃっていました。鯨もたくさんの命に食べられて栄養になり、鯨自身が与えている、というような言い方をしていたのです。「ああ、そうなんだ」と思いました。互いに自然の中で流動的に必要なものはおのずと摂取されていき、個体は分解されるけれども、それとは別のかたちで生きていく、続いていく……、そのように感じました。

大小島真木《 ゴレムGolem 》(2020)
陶器、刺繍、綿布、木、珪化木、猪の骨、ガラス、縄文土器、貝、火山石、造花、糸、アクリル絵具、マーカー。ヘブライ神話の中に登場する土の人「ゴレム」の左脚は、台座を超えて異形の大樹へと繋がっている。
「Re construction 再構築」展、練馬区立美術館。Photo: Kenji Chiga

四方:2人目は、大山龍さんです。2020年12月に台北で展開したバイオアート、デジタルアートのワークステーション「Forking PiraGene」の5組の作家の1人として参加いただきました。元々彼は薬学を学んで、その後、ドイツのカールスルーエ公立美術大学(HfG)でアートを学び、バイオアートを手がけています。台北では、「違和感/変化/状態」というタイトルで展示とイベントを行いました。私も台湾に行ったのですが、2週間の隔離期間中に彼はホテルの浴室をラボにして、玄米を発芽させ、発芽ホルモンを抽出したりしていました。展示中に開催したイベントでは、手作りの発芽ホルモン入り寒天や座薬を来場者に食べさせたりしました。座薬を食べさせる、と聞いただけで驚きましたが……(笑)。

土があって水があって、玄米があって、特定の環境で育てて生成した発芽ホルモンを体内に取り込むこと自体が、非常に興味深くて。大山さんとは、制作段階で植物のアレロパシーなど不可視の領域について話していました。昨年からは石や鉱物について情報交換しています。現在、沖縄に住んでいるのですが、DIYで民家を改造して最小限のエネルギーと出費で快適な暮らしをしています。

大山龍《違和感/変化/状態》(2020)
「Forking PiraGene」プロジェクト、「Lab Kill Lab」、台北C-LAB。インスタレーションの一部。米(福島、京都、台湾宜蘭県産)を寒天の上で発芽、実生途中の稲、新芽を集め蒸留する機材、ガジュマルの葉を米糊で象ったrice plants(本作はその後タイトルを《身土不二》に変更)。
Photo: Yukiko Shikata

四方:3人目は、トントン・ホウウェン(東冬侯溫)さんです。彼は台湾の先住民のタロコ族(太魯閣族)のシャーマンの家系生まれで、トランスジェンダーのシャーマンでありアーティストでもあります。タロコ族のシャーマンは5種類の儀式を行うそうですが、そのうちの医療の儀式と夢の魔女の儀式を行うとのことでした。おばあさんがシャーマンだったそうです。映像と音楽、歌、詩、パフォーマンスなどを手がけながら、タロコ族のアーティストやクリエイターの作品を扱うショップのプロデュースもしています。最近は地元の中心人物として、アートフェスティバルのオーガナイズも始め、並行して大学院でジェンダー・スタディーズを学んでいます。私は7年前にお会いしたのですが、いずれキュレーションをしたいと思っています。一昨年末、彼の村に大山さんや「Forking PiraGene」の共同キュレーター、シュー・リー・チェンたちと訪れ、お世話になりました。ちなみに私が首飾りにしているこの緑色の輪は、実はタロコ族の男性が狩猟の際に着ける伝統的な指輪で、トントンさんがはめていたものと同じです。大きいので、チェーンを付けて使っています。

タロコ族の住む山の近くにはヒスイが採れる谷があるのですが、山川とヒスイと人々が一体化していることを感じました。トントンさんに、現地で見つけた石を持って帰っていいかと聞いたら、祈りを捧げて、山や石に対して聞いてくれたんです。「この人が持って帰りたいと言っているが、いいかな」と。少ししたら「うん、いいよ。持って帰って」と言ってくれた(笑)。

人と石などの自然が一体化している、自然が身体の一部なのだなとも思いました。山や川などの自然と人々とは切り離せない関係であり、精神的にも結びついているのではないか。トントンさんの作品やパフォーマンスからもそのようなことを感じます。

トントン・ホウウェン(東冬侯溫)、パフォーマンス《Forest wandering, Hagay dreaming》(2020)
「PHYTOPIA」プロジェクト、「Lab Kill Lab」、台北C-LAB。蓮から山に入ったタロコ族の住む土地の自然との交歓を表現したパフォーマンス。
Photo: Yukiko Shikata

マルチスピーシーズとアートの可能性

四方:アートの可能性について言うと、アートには世界にあるさまざまなもの、さまざまな素材を使って、それを新しいかたちで接続できる自由さがあると思います。ボイスが「人々は誰もが芸術家である」と言ったように、広く人々の知覚を刺激し想像力を喚起してくれる。アート作品を見たり、体験したりした人たち自身がアート的な感覚や見方を持つようになり、それを伝えたり発信していくことが重要だと考えています。

また、可能性と同様に重要だと思うのは、限界を知ることです。アートには限界がないように思えますが、やはり確実にあると思います。アートに限らないのですが、人間はこの地球に生まれ育ち、とある時代や文化環境、自然環境の中で生きているわけですから、人間の身体自体、重力や空気の成分や気圧、温度など特定の条件から作られているわけです。ですから、人間の身体や人間の言語、そこから生まれた思考や想像力さえも一定の限界があると思うのです。それぞれが生きる社会や環境にも限界があり、アーティストとしての活動も、空間、時間、予算などさまざまな制約と格闘しながら生み出されます。

アーティストだから何でもできるということではなく、アーティストとして、人間としての限界を自覚しながら、自分が今できること、できないことを問いながら取り組むことが重要だと思います。アートはさまざまなものの潜在性を発現させうる自由な精神の領域であるとともに、世界の限界を見据え続ける批評の場なのではないかと考えています。

奥野:アーティストやパフォーマーが、自らの限界を熟知した上で、そのスペキュラティヴな行為の上に作品に仕上げていく、それが重要だということでしょうか。

四方:そうですね。知覚や想像力、身体などさまざまな限界があると思いますが、限界があるからこそ自由に発想して試みることができるのではないでしょうか。個体としての人間は必ず死にますし、終わりがある。しかし、その人が投げかけたものが誰かに伝わっていけば、それがまた次の人に受け止められ、次のものを生み出していくことが可能になる。そのような連鎖がアートにはありうるわけで、身体的・時間的な限界を抱えてはいますが、精一杯投げかけ続けることが重要ではないかと。

アートと人文学、アートと自然、その可能性の先へ

奥野:ありがとうございます。それでは次の質問に移りたいと思います。人類学とアートの交差に関しての質問です。ティム・インゴルドは『人類学とは何か』(亜紀書房、2020年)の中で、人類学のリサーチとは、データを持ち帰って民族誌にまとめるだけでなく、それプラス、スペキュレーションとエクスペリメントである、その点で人類学は科学ではなく、今後はアートにますます近づくだろうと述べています。インゴルドにインスパイアされて、私はアートにとても興味を持ち始めました。

インゴルドがよく持ち出してくるのは、パウル・クレーの言葉です。『生きていること』(左右社、2021年)の中でも「かたちは終わり、すなわち死だ」という言葉を引いて、創作をめぐるアリストテレス的な質料・形相論的なモデルを、素材の流動と遷移を第一の与件とする存在論に書き換えるべきだと主張しています。民族誌という完成品を目指して人類学するのではなく、流動的な制作過程における自己変容を含む思索や実験を含んだものに人類学を更新するというのが、インゴルドの企てです。

「エコゾフィック・フューチャー」の連載の第6回目「『螺旋の思考』——ミクロ/マクロ、生命そして宇宙のつながり」では、四方さんは、非生命から生命を含めた螺旋運動を取り上げて、自然・人文科学の議論や知識を援用しながら迫真性のある議論をされています。そこには、世界をどう捉えるのかに関して、インゴルドが述べているのと相似的な図式が出されていて、思わずはっとしました。それは、例えば、

宇宙から生命まで、世界にあるすべてのものは流れとして存在し、流れがもつリズムがそれを形態へと形成し、形態は空間を形成し、時間の中で変容し可視・不可視にかかわらず拡散していく。胎児も、DNA(無機物)が細胞の中で生命(有機物)へとつながり、まるで点から線、線から面そして立体へと襞を形成しながらなだらかに次元を増やしていく。隣接する次元は、なだらかにつながり入れ子状になり、常に流動している……。

という表現の中に現れています。

そして、そうした世界を生み出す力について考えれば、直線ではなく曲線、その延長として渦巻や螺旋であり、形態や物質とは、そうした情報の流動の軌跡や痕跡であるということになるわけですね。インゴルドもどうやら、クレーを始めとして、アートをつうじた思考に多くを負っているような気がします。

ところで、こうした考察の先に四方さんは、「人間を自然の一部として再発見することであり、人間と人間以外の存在(生命、非生命を含めて)との親密性を取り戻すこと」を見据えていらっしゃる。四方さんの書かれたものを読んでいますと、アートがあるからこそ、こうした抽象的な思考にまで高めることができることなのではないかと思えてきます。アートは思考を促すためにあり、逆に、思考はアートによって鍛えられるという「相依」の関係があると言ってもいいかもしれません。

人間と非人間をともに含め、アートと自然・人文学を横断することが四方さんのテーマであると、Twitterの自己紹介欄には書かれていますが、こうしたテーマの今日性や意義に関してどのように考えておられるのかをお聞かせください。

四方 インゴルドの言葉、素晴らしいですね。共感します。パウル・クレーも大好きですし(笑)。1990年代にメディアアートのキュレーションをしていたときも、パウル・クレーが生きていたら、絶対にメディアアートに取り組んでいただろうなと思っていました。20世紀初頭の芸術家たちは既にアルゴリズミックな思考を持っているし、自然との関係も構造においてよく捉えているんです。実際20世紀の前半には現代のアートで試みられていることのほとんどの萌芽が見られるわけですね。もちろんそれはアートに限らず、文学や音楽、科学・技術などにおいても同様に見られます。ヴィジョンが先行して現れ、技術が後から追いついてきたというのが最近のことなのかなと思います。

今日性ということで、今私が関心を持っていることを3つほどお話ししたいと思いますが、よろしいですか?

奥野:はい。ぜひ、お願いします。

四方:まず1つ目は、「精神」についてです。昨年はボイス生誕100年ということで、2つのフォーラムを開催しました。最初のフォーラムは「想像力という〈資本〉」というもので、京都府域展開アートフェスティバル「ALTERNATIVE KYOTO –もうひとつの京都−」のキックオフ・イベントとして行いました(京都での開催がコロナ禍のためDOMMUNEの協力で収録配信)。このフォーラムでは奥野さんにもパネルディスカッションにご登壇いただきましたね。基調講演は、オードリー・タンさんやラウリン・ウェイヤースさん(オランダ)にお願いしました。もう1つは、一般社団法人ダイアローグプレイスの主催によるもので、長野県の茅野の「対話と創造の森」からライブ配信した「精神というエネルギー|石・水・森・人」です。ここではタイトルに「精神」が入っています。

フォーラムの詳細にはここでは詳しく触れられませんが、ここでの「精神」は、西洋における近代以降の精神と身体という人文学的な概念としてあるのではなく、むしろ森羅万象、私自身の言葉で言えば「情報のフロー」とを念頭に置いています。そこでは物質と精神を明確に分けないのです。

「情報のフロー」的な観点から言えば、見えないものと見えるもの、非物質と物質との間が常に動的に往還し続けるプロセスが重要です。実際、粘菌のように状況に応じて変化するような存在が1つの喩えになるかもしれません。それは精神と非精神、生命と非生命を繋ぐこととも言えるでしょう。

先ほど紹介いただきました「エコゾフィック・フューチャー」の「螺旋の思考」でも書いたように、「プロセスが形態になる」ということですね。古くはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの研究とも関わってくるものだと思います。「情報のフロー」によって、時に物質になり、時に非物質となるというのは、水や雲を想像してもらうといいかもしれません。大気の状況によって生まれる雲は、物質ではないけれども、可視と不可視を往還しつつ偏在しているわけです。人間もそれと同じような存在なのではと思ったりするわけです。

チャールズ・サンダー・パースは「精神は推論の法則に従って徐々に展開していくひとつの記号に他ならないと結論できよう」(The Essential Peirce, Vol1,  p.53. Indiana University Press.翻訳は檜垣[2021]より孫引)とも書いています。そして、エドゥアルド・コーンは「記号は精神に由来しない。むしろ逆である。私たちが精神あるいは自己と呼んでいるものは記号過程から生じる」(奥野克巳監訳ほか『森は考える』亜紀書房、64頁、2016)と述べています。まさにその通りだと思うのです。

精神を記号過程、つまりさまざまなもののプロセスの中から生まれてくるものであり、動的な記号論や言語だけによらない生命的な記号論、そして、言語も生命とも関係する生命記号論的な問題として考えていきたい。これは、ジェスパー・ホフマイヤーやヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界などに関係していると思っていますが、私自身90年代から念頭に置いていることでもあります。

2つ目は、先ほどもお伝えした山や川といった自然に関することです。奥野さんが別の機会におっしゃっておられたのですが、たとえばニュージーランドのマオリの人たちは川に人格をずっと感じていた。それが2010年代になって国から法的に認められたという話がありますね。たとえばアイヌの人たちと川の関係を見ていても近しいものを感じます。先住民の方々と自然との関係というのは非常に近しいもので世界が身体の一部であり、身体が世界の一部なんですよね。

先日、山梨県でアートプロジェクトとしてフィールドワークを実施したのですが(深澤孝史《道祖神リプレゼンテーション》、山梨県立博物館、2021年)、とある地域には道祖神として「丸石」というものが多く見られます。人など具体的なかたちをしたものではなく、シンプルで抽象的な丸石です。丸石を、漬物石やドア押さえなどに使う人もいます。道祖神として神格化されたものとされていないものがあるようです。アーティストの深澤孝史さんは、後者を「石神未満」と名づけていました(笑)。

フィードワーク中、とある民家の庭の横にちょこんと佇んでいた丸石に一目惚れをしたんです。勝手に「My丸石」と呼んでいるんですが、「My」と言いつつも、それは同時に、みんなの「宇宙の丸石」だなあと感じています。そのお宅の方に「この丸石はどこから来たのですか」と訊ねたところ、「覚えていないけれども、そこに10数年前からなんとなくある」とおっしゃって、不思議な共存状態があるわけです。そのお宅の奥さんは「山も川も同じものですよ」ともおっしゃっていました。この言葉に私は非常に感動したんです。「山も川も同じもの」。丸石もね、おそらく関東山地から笛吹川を経由して転がってきて、この地域に辿り着くまでに丸くなってきた可能性があるわけですが、山も川も、そして海までも繋がっていると、そのように考えさせられます。山というのも、単体ではなくて皺のように連なるものとして複数で考えられますよね。さまざまなものが繋がっていて、そこには人間の身体や精神、動植物や微生物などを抱合しながら1つのコスモスを形成しているのかなと思ったり。

3つ目は、これは少し趣が異なるかもしれませんが、「平和」についてです。大きな枠組みで言えば、第二次大戦以降、国際連盟に変わるかたちで国連ができたことで「平和」というものが進められてきたわけですが、その「平和」を21世紀に即して再検討して更新したいというが、私の昨年からの強い願いなんです。

洞窟絵画が描かれた時代に、芸術と技術の両方が一挙に発達したわけですよね。人類史の黎明期に、芸術や美術があるわけですが、文明が生まれて戦争が起こって、現在、「人新世」と呼ばれる時代に至り、環境汚染の深刻化とともに人間中心主義が見直されつつあります。戦争は現在、高度な科学技術によって遠隔化するだけでなく、至る所に設置された監視カメラやAIを駆使したターゲットマーケティングやSNSの応酬のように日常の中に偏在しています。

互いを信頼できなくなり、アルゴリズムやシステムを介して常に監視している状態、そしてそれを経済的な利益を目的にした一部のメガ企業が扇動しており、人間やその他の動植物が服従せざるを得ない状況がある。技術にも自然にも善悪はないけれど、使う人間の価値観によって大きく左右される。マクルーハンがかつて述べたように、人間は新しい技術を手にしたときに、古い習慣や概念、価値観でしかそれを扱うことができないという問題があると思います。そして、そこにこそアーティストが入り込む可能性があるのではないでしょうか。

新たに開発された技術やシステムに対して、アーティストはまずその意味と可能性を検討します。開発側の意図や普及する過程で固定化、内面化されてしまう前に、オルターナティブで創造的な使い方があるのではと考える。そのような中、テレビやビデオが出てきたときにはビデオアートが、インターネットが出てきたときには、ネットアートが出てきたわけです。そのようにアーティストは、人々の知覚や先入観を自由にしていく可能性に気づき可視化するのです。

そのようなアーティストの可能性を踏まえながら、アートと平和の連携を実現させたいと思うのです。「平和」と言ってもただ「戦争はいけないよ」というのではなくて、人はやはり生きていかなければならないし、人以外の存在も生きていかなければならない。人間としては、食欲や睡眠欲、性欲など、生きるための本能が暴走せずに健やかに保たれながら、他者や動植物、環境を脅かすことのないように。人間の抱く愛や闘争本能は、コインの表裏であると考えていて、押さえつけるのではなく過剰にならないかたちで共存させながらも、人間以外の存在も含めて共存できるような「平和」はないだろうかと考えているのです。

これまでの平和は、人間のための平和だったわけですよね。国民国家をベースにした平和であったわけで、国家と国民を守るための戦争であり、兵器の使用だった。しかし、人間以外の存在までも考えると、無闇に戦争をしたり、ミサイルを打ち込んだりなんてできないと思うのです。その意味で、やはり人間以外のことも含めた平和を考えたいと思っています。

奥野:最後の「平和」のお話は、何か新しい科学技術が出てきたときにアーティストが、人間と非人間を含め、ある種の別の気づきを与える役割を担っているのではないかということですね。そういった深い洞察が語られたのだと思います。それは、人類学にとっても、同じことが言えるのではないかと思いました。1つの方向として、人間だけに閉じてしまうのではなく、人間と非人間、生命と非生命というようなものへと開き、拡張しながら考えようとする姿勢によって、今日の人類学とアートは非常に似通ってきているように感じます。

四方:ありがとうございます。最後に冒頭のボイスに関連して1つだけ、パフォーマンスやパフォーマティビティ(行為遂行性)の問題を付け加えたいと思います。メディアアートやバイオアートというのは、作品にパフォーマンス的な要素が内包されているところがあります。時間軸があり、インタラクティブなプロセスを持っていますから。そのことを踏まえると、人間や生物以外、たとえば風の流れや空気の動きなど、身体や地球を取り巻く環境と、生体内の動きも含めて、パフォーマンスと考えることが、今の時代はできるのではと思います。

たとえば、イェンス・ハウザーというバイオアートの研究者は、「マイクロパフォーマティビティ」という言葉を使っています。細胞レベルの動きや反応など、ミクロなスケールにおいても、アート的な観点からパフォーマンスとしての側面を見出しているのです。人間というメゾスコピックなスケールでも人間によるものでもない、これまでにないパフォーマティビティであるわけです。

20世紀後半には、それまで特定のアーティストやダンサー、パフォーマーに限定されないパフォーマンスや身体表現が、脱近代的な流れの中で再発見されました。たとえばボイスも関わっていた1960年代のフルクサスもそのひとつです。特定のフォーマットから逃れ、自然の流れや日常の所作へと開いていくもので、ボイスのパフォーマンス(彼は「アクション」と呼んでいた)は、そのような文脈を踏まえながら、自らもその仲間と感じていたマイノリティ的な存在、たとえばコヨーテや死んだウサギなどとの交信が試みられました。

インターネットが張り巡らされ、デジタル化が進んで生命科学や宇宙科学、AIなど科学・技術がSFを凌駕するほど進んだ現在、バイオアートにおける細胞培養や異種のハイブリッド化など、それ自体のパフォーマティビティがあり、加えて専門家に閉じずアーティストが実験し、倫理・哲学的側面から広く問題提起をすることもパフォーマティビティと見なすことができるでしょう。

同時に現代の観測技術やデータ可視化技術が可能にした、宇宙の起源から連綿と続くミクロ・マクロのスケールで展開しているプロセス自体をパフォーマンスと見なすこともできるのではないかと思います。そうすると、人間と非人間、生命と非生命、知性を持つものと持たないものというような分け方なのは、もはやできない状況であると。そのような時代において、パフォーマンスの概念をもっと開いていければと思っています。ボイスにおけるエネルギーの流動、私の言う「情報のフロー」は、まさしくパフォーマンスとしての、ミクロ/マクロスケールを超える世界の様態に関わっているのです。

参考URL

・美術評論家連盟 https://www.aicajapan.com/

・大小島真木 http://www.ohkojima.com/

・大山龍 https://www.ryuoyama.com/

・トントン・ホウウェン(東冬侯溫)

http://www.pulima.com.tw/Pulima/Characters_15100818215657525.aspx

・フォーラム「精神というエネルギー|石・水・森・人」

・四方幸子「エコゾフィック・フューチャー」第6回「螺旋の思考」

https://hillslife.jp/series/ecosophic-future/the-spiral-thoughts/

・檜垣立哉「ベルクソンとアメリカ哲学 ――ジェイムズとパースとの関連において――」

https://researchmap.jp/read0090797/presentations/31867613

著者紹介
四方幸子
キュレーティング/批評。美術評論家連盟会長。「対話と創造の森」アーティスティックディレクター。多摩美術大学・東京造形大学客員教授、IAMAS・武蔵野美術大学非常勤講師。「情報のフロー」からアート、自然・社会科学を横断し活動。

奥野克巳
文化人類学。 立教大学異文化コミュニケーション学部教授。以文社より共著、共編著者として『今日のアニミズム』『マンガ版マルチスピーシーズ人類学』 『モア・ザン・ヒューマン』 『Lexicon 現代人類学』を刊行している。