海とセキュリティ・フェンスの狭間で

パレスチナにおける植民地的抽象とジェノサイド

イアン・アラン・ポール(Ian Alan Paul)

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北川眞也訳

 ガザの建築物と残骸が形成する分裂的コラージュ。そのコラージュの全域において、生の抽象が生それ自体と競合している。ガザの領域をたえず高密度で覆い、そしてコード化する諸々の社会的テクノロジーに生は包摂されている。この包摂を通じて、生はこの類の生、あの類の生のように、なんらかの種類の生として包括的に表象され、認識されるようになってしまう。この世界でもっとも容易なこととは、アイデンティティの割り当てと分類化の分厚い波の下で、実際には何かが依然として生き続けていることを忘却することにほかならない。難民、戦闘員、民間人、人質、捕虜、兵士、犠牲者――こうしたものは、さまざまな軍事戦略や政治的策略、経済的プログラムのなかに生を位置づける抽象化の座標であり、それぞれの言葉が固有の暴力の程度や強度と対になった、固有のアイデンティティの形式である。こうした言葉は、生が何であるかをこれまでになく詳細に定めるコード――広く流通しているコード――であるが、さらに生に対して何をなすことができるのかをも定めてしまうコードなのだ。抽象として生き、死ぬこと。要するにこれが、海とセキュリティ・フェンスの狭間〔ガザ地区〕に住むすべての人びとに課された運命である。

 抽象化は、生の形式とそれが生きられる条件を定めてしまうほど現実的なものである。抽象化は、検問所[チェックポイント]を通じてアクセスを許可したり拒否したり、水と電気を供給したり遮断したり、束の間の避難所を提供したり攻撃の標的としたりする。パレスチナ人か、イスラエル人か? ムスリムか、キリスト教徒か、ユダヤ教徒か? 男か女か? 市民か難民か? どんな類の生が生きられるのか、どんな類の死が必然的に到来するのかは、こうした用語をもとに実行される評価[ランク]と分類[ソート]を通じて性別化・人種化された生をめぐるヒエラルキーを改変、再編し、それぞれのアイデンティティを一元的な植民地的オペレーションの変数として統合する、抽象的計算法によって必然的に定められていくことになろう。ガザのすべての生は、生を支配する諸勢力によって生が表象され、認識されるやり方のいっさいによって、じわじわと窒息させられている。ガザのすべての生は、コード化かつカテゴリー化された数多の生のひとつとして、生が包摂され従属させられるやり方のいっさいによって、じわじわと窒息させられている。ガザのすべての生は、生の抽象化を容易にし、そうすることで継続する生の服従と根絶をも容易にする〔生を言い表す〕述語のいっさいによって、じわじわと窒息させられている。

 国際監視団が無差別殺戮の停止を要求するとき、かれらが理解し損なっていることがある。それは、殺戮がいつも一段と識別力を増し、ますます諸々の違いを見分けられるようになっていて、今まで以上に個別化され、情報に基づいたかたちで殺戮が常に実行されるようになっていること、そしてそれにもかかわらず、殺戮が破壊的ないしは全面的であることが軽減されるわけではないということだ。イスラエル兵が広いガザの土地から生を抹消する準備をするさいには、そこにとどまり軍隊からの避難命令に刃向かうことを選んだ人びとの携帯電話の発信位置を示すデータを用いており、そのことが計画的破壊に解像度を追加しては磨きをかける。頭上をずっと飛び回るドローンが、トラックの荷台に急いで乗り込んで逃げる家族を観察しており、空軍が爆撃を最適化する手助けをする。水道は遮断され、食糧と医薬品の輸送は削減されるか、停止させられる。その一方で、イスラエルの官僚がガザに監禁された全住民によって消費されるべきカロリーを計算している。おそらく、イスラエルは歴史上のどの体制よりも、おのれが誰を抹殺しているのかを熟知している。そうした知識が暴力を一部ですら阻止することはない。ただ増幅させるだけである。一つひとつの生が植民地状況のなかで抽象化されればされるほど、そして一つひとつの生がこの類やあの類のパレスチナ人の生として捕獲され、計算され、流通すればするほど、殺害は洗練されたものとなる。この植民地的骨組みにおいて、生の抽象化は非物質的なものではないし、無差別的なものでもない。というよりそれは、生の支配を戦術的に強化するべく設計されているのだ。情報とアイデンティティに対する統制を強化することは、つまるところ、領土と身体に対する統制を厳しくすることの手始めでしかない。

 定期的に投下される大量の爆弾が、窓を粉砕し近隣地域を吹き飛ばすとき、この家に、あの病院に避難する生は、以下のように思うかもしれない。自分の死は大して遺憾でもない民間人の犠牲者としてカウントされるのだろうか、それとも見事に制圧されたテロリストとしてカウントされるのだろうか。自分の死は軍司令官の戦闘シミュレーション用の一データとして収集されるのだろうか、それとも国連のスプレッドシート上のさらなる入力事項として収集されるのだろうか。政党の旗印のもとで殉教者として追悼されるのだろうか、それともすぐに過去投稿へとスクロールされるオンライン上の投稿として追悼されるのだろうか、と。封鎖のなかで不足していく日用品を求めて通りを歩くときであれば、来るべき地上侵攻に向けて低軌道からその移動の一つひとつを追跡する人工衛星のこと、もしくは軍のデータベースに登録された生体認証プロファイルと顔との一致を期待しながら、群衆を映し出す映像を流すドローンのことが頭をかすめ、こう思うかもしれない。たんに敵地の取るに足らない些事のひとつとして監視されているのだろうか、それとも地図から抹消するために標的とされているのだろうか。抽象化された人間を爆破しようとミサイルが発射されるとき、家族は一つの部屋にいっしょになって隠れるべきか――そうすれば少なくともいっしょに死ねるだろう――、多数の建造物へと散開するべきか――そうすれば少なくとも家族のなかで誰かが生き残り、そして生き続けられるかもしれない――を決断することになる。イスラエルのアパルトヘイトによる抽象化のエッジが生に形式を与えるのは、ただこれまでにないほど数多くの死の体制へと生をさらすためだけである。より効果的に略奪するために生は記録され、より効果的に飢えさせるべく生は分類[ソート]され、より効果的に破滅させるべく生は表象される。

 生がこんなに思慮もなくやすやすと、それを言い表す述語一覧に取って代わられることが可能なのは、生の抽象化に基づいてこそである。この述語一覧を通じて、生はまるでばらばらの記述可能な特性の一式であるかのように、計算、観察され、潜在的に処分可能となる。IDカードや警察の捜査記録、住民データベース、政府による数々の許可証といった蓄積物が連動し合うことで、生が生きられる地勢が形成され、その生がどこで勉強し、移動し、買い物をし、建築し、仕事をできるのかできないのか、さらにはどのような医療、食糧、水にアクセスできるのかできないのかを定める外形が変化する。生と死というのは、完全なる定義づけ、最終的な定義づけを逃れるものであるかもしれない――生まれてくる生、亡くなっていく生を目の当たりにするとき、言葉を失ったり、無言になったりすることが頻繁にあろう。しかしその一方で、生と死の抽象化は、もっとも極端なかたちの破壊ですらも、感覚を失い躊躇いなく口にできてしまうような地固めをしている。「ガザの100万の住民に避難が命じられた」、「ハマースを匿っている地区は消し去られることになる」、「ガザに残る人はみな責任を負うべきであり、代償を払わねばならない」。ジェノサイドとは、抽象化がおのれ自身で包み込み、包囲するいっさいをしまいには窒息させる瞬間でなければ、いかなるものだろうか? ジェノサイドとは、抽象化がおのれ自身で完全なまでに分類[カタログ]し、囲い込んでいるものから生のいっさいをしまいには絞り出す瞬間でなければ、いかなるものだろうか? いかなるジェノサイドも、生に対するおのれ自身のコードと種別化[クラス]なしに、おのれが抽象化する人間を的確に根絶やしにしていくことなしに、進行することはない。

 パレスチナにおける戦争と平和について論じることとは、簡単に言うと、一元管理された抽象化プロセスの二つの様式の名に言及することである。一つは突然死をもたらすプロセスであり、もう一つは手続き的に、じっくりと、配分的なかたちで死をもたらすプロセスである。空爆や気まぐれな逮捕、国境検問所や経済封鎖、無期限拘禁や標的の暗殺、ブルドーザーや催涙ガスの集中攻撃。これらはもっともわかりやすい、もっとも広く確認されたテクノロジーにすぎず、必死で生きようとする人間をこれまでにないほど多数、窒息させている。いずれにしても、抽象的なものは、たえず流通している暴力のいっさいを最適化、合理化すべく機能する。抽象的なものは、生の破壊をより効果的に計画し、完遂すべく生の分類に取り組む。抽象的なものは、たんにパレスチナ人をさまざまな速度で全滅させる約束をするだけの戦争と平和をかたちにすべく稼働する。

 生きられた経験がもたらす多様な不協和音が、民族や宗教をめぐるあれやこれやの歴史、あれやこれやの政党や派閥、あれやこれやの歴史的トラウマや先祖代々の主張といったこと――生が生きられる条件を定めていく数々の抽象物――からなる座標のなかで抽象化されるにつれて、生がおのれの抽象と完全に同一化し、おのれの抽象をおのれ自身とみなすようになってしまうのは不思議なことでは些かもない。これはある意味で、非常に実践的[プラグマティック]な事柄である。というのも、パレスチナ人の生存への闘争が、生存者をめぐる表象と一体化するようになっているからだ。それが原因で、生は生を表象すると主張する人びとによって開かれた、存在を規定するどんどんと狭くなる「大通り」のなかで生きることになる。ガザのハマースとヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治政府はともに、この抽象的植民地体制の外部委託管理者であることに甘んじている。両者とも、パレスチナ人を厳格に表象し、不安定なやり方で経済的に支える一方でそれと同時に、パレスチナ人の生を取り締まり、自分たちによる抽象の独占を損なうものは何であれ鎮圧する。ハマースはイスラエルを粉砕すると約束し、パレスチナ自治政府はイスラエルと協力することを約束する。しかしその一方で、両者はともに、占領の抽象化を補完的に拡張する役割を果たしている。ハマースは絶滅させられるべき敵対的生を表象し、パレスチナ自治政府は追放されるべき平和的生を表象している。

 生のおのれの抽象との一体化は、政治的な一体化でもある。おのれをパレスチナ人とみなすことは、他のパレスチナ人たちと共通の歴史を有していること、そしてすべてのパレスチナ人が収奪と支配のプロセスに共通してさらされてきたがゆえに、生存と闘争の伝統を共有してきたと了解することである。パレスチナ一帯を密に循環する数々の抽象物は、こうした意味で、おのれをたんに〔パレスチナ人の〕生に刻み込むだけでなく、生がそこに引きつけられ、巻き込まれるようになってしまう形式としても現出するのだ。パレスチナの抽象は、種々のアイデンティティやナショナリズムのなかで主体的水準の形式を獲得することで、抑圧の形態として機能するだけでなく、生きられた経験かつ社会的な文脈としてもまた機能するのであり、ともに服従を強いられてきた人びとは、そこにおいてともに生存し、ともに叛乱するメソッドを追い求めることになる。こうした闘争はいつも植民地的抽象のただなかから火がつくが、なおも決め手となり続けるのは、次のことである――こうした闘争が、おのれの抽象的存在物へのわずかばかりの主権を維持する、なんなら確保する方向へと向かうのか、それともそれを完全に破壊することを切望するのか。パレスチナ、そしてパレスチナ人ディアスポラのなかには、そうした闘争がかれらを表象し、認識してきたどのようなやり方にも規定されずにいる人びとがいる。共有する過去の残骸と廃墟のただなかで互いを探し求め、その植民地的抽象から解放されたパレスチナを求めて闘う人びとがいるのだ。

 このようなパレスチナとは、いかなるものだろうか? 植民的抽象からうまく逃れ、パレスチナを全面的に表象し、アイデンティティを与えるものをどうにか焼き捨てようとし、根絶やしされることを拒否しておのれを根絶やしするものへと叛乱を起こすパレスチナとは、いかなるものだろうか? その抽象の覆いを取り払うパレスチナは、どのようなものであれ固有のアイデンティティといったものにはそれほど関心を示さず、創造的で、従順ではない運動としていっそう形式化され、何であるかということより、何をなしうるかによっていっそう組織されることになるだろう。これは、そうした形式を取り締まり、形式を課すことを望む人びとには、乱流や不協和音としてしか理解できない生の形式から生じるパレスチナ、海辺に打ち寄せる波と遊ぶことができるように、おのれの形式と戯れられるほどに自律的かつ自由となった生の形式から生じるパレスチナだ。このような生の形式は、多数性として、集合体[アンサンブル]として、そしていかなる統一をも必要としない集合体[アンサンブル]の一部として生きる。それは他のコード化された生の形式に対立するのではなく、その抽象化による荒廃と規定に対立する生として生きるのだ。こうした生の形式は、エメ・セゼールが述べる詩の特徴とちょうど同じく、おのれ自身への降下として、そして爆発として、ポイエーシスの形式を生きるのである。そこに残るのは、この類やあの類の生ではなく、生を内側に閉じ込めようとするいかなる容器をも破裂させてしまう生にほかならない。

 抽象に対するこのような蜂起は、パレスチナの消滅を生ぜしめるものではない。そうではなく、ただ捕獲しては締めつけ、断ち切っては縮小させるためにだけ機能してきた植民地世界の消滅をもたらすのだ。植民地部隊によってこれまでにないほど正確に地図化され、注意深く精査されるパレスチナ、ばらばらの属性と抽象的性質を蓄積していくアーカイブとして現出するパレスチナとは、おのれを支配しコード化するものの影として、占領の反転対称として存在するだけのパレスチナである。植民地の消滅とはこの意味で、植民地化する者たちの消滅のみならず、植民地化された者たちの消滅を必然的にともない、植民地とその規定を廃絶する手段として、植民地的抽象を廃絶するのだ。パレスチナがおのれの抽象に対する蜂起を成し遂げるときにのみ、パレスチナがイスラエルの拡大と支配がもたらす縮小へと向かう残余としてのおのれの抽象的存在物から逃れるときにのみ、パレスチナとは何であり、何をなしうるのかを、きっと真に学びはじめることができるだろう。

 パレスチナ一帯へと全面的に、そして身のすくむような仕方で軍事的荒廃が展開されることを予期しながらでさえ、いま、ここにおいて、生の根源的な特異性を防御し、生の植民地的抽象に攻撃を浴びせる人びと、取り囲む抽象的暴力の体制とはまったく調和しない、通約不可能な生の形式のうちで生きる人びとによる沸騰するような叛乱が依然として存続している。セキュリティ・フェンスに攻撃を仕掛け、ハマースの弾圧部隊への抵抗を組織するガザの蜂起する者たち、徴兵を拒否し分離壁をハンマーで打つイスラエル国内のアナキストたち、次なる殺戮のための象徴的な「砲撃の餌食」として自分たちの死者が利用されるのを許さない悲しみに暮れる家族、東エルサレムの監視カメラに火をつけ、ヨルダン川西岸地区の検問所[チェックポイント]を解体するサボタージュ活動に取り組む人たち、そして数多のアイデンティティを囲むように打ち立てられた数々の仕切りを粉砕し、それどころか、おのれが広大な生の星座=布置のただなかにいることを見出す人たち。

 海とセキュリティ・フェンス、川と海のあいだには、コード化とアイデンティティ形成から自由であり、生の植民地的抽象・支配によってはもはや規定されないパレスチナの諸々の形式が宿すかすかに光る多数性、そして表象不可能な多様性を横切って螺旋状に広がる未来のために、隣人と闘い続ける生のすべてがとどまっている。万事は、生に対する抽象の支配を拒否する生、諸々の形式を暴力的に分離し絶えず根絶やしにする動きにおのれの形式を基づかせはしない生、そしてどうにかして別の世界を生きるべく、植民地世界を消滅させようとする生が宿す力を増殖させ、強化し、それと連帯して行動することにかかっている。

2023年10月


著者紹介

イアン・アラン・ポール(Ian Alan Paul)

1984年生まれ。2016年にカリフォルニア大学サンタクルーズ校で博士号を取得(映画・デジタルメディア研究)。
現在はバルセロナを拠点にアメリカ、メキシコ、スペイン、エジプト、パレスチナを横断しつつ、グローバル権力のレジームと抵抗の実践をめぐってアーティスト、理論家として活動している。
論文に“Controlling the Crisis” in Moving Images, Transcript Verlag, 2020、“Civil Disobedience” in The Routledge Encyclopedia of Citizen Media, 2021などがある。

訳者紹介

北川眞也(きたがわ しんや)

1979年生まれ。政治地理学、境界研究。博士(地理学)。三重大学人文学部准教授。現在、自身初となる単著を準備中。その他、共著として『惑星都市理論』(「惑星都市化、インフラストラクチャー、ロジスティクスをめぐる11の地理的断章——逸脱と抗争に横切られる「まだら状」の大地」、平田周+仙波希望編、以文社、2021)。主な論文に「地図学的理性を超える地球の潜勢力——地政学を根源的に問題化するために」(『現代思想』第45巻18号、青土社、2017)、「ロジスティクスによる空間の生産——インフラストラクチャー、労働、対抗ロジスティクス」(原口剛との共作、訳書にフランコ・ベラルディ(ビフォ)『NO FUTURE――イタリア・アウトノミア運動史』(廣瀬純との共訳、洛北出版、2010)。