『価値論』書評

 

私たちの夢の偽硬貨とはなにか?

What is the false coin of our own dreams?

 

 

 

クリス・グレゴリー Chris Gregory

藤倉達郎 訳

 
 
 

訳者まえがき

 

 『価値論』の著者であるデヴィッド・グレーバーは2020年9月2日に急逝した。
 グレーバーが所属していたロンドン・スクール・オブ・エコノミクス人類学部は、翌2021年秋、グレーバーを記念するセミナーシリーズを開催した。
 基本的に毎週金曜日、グレーバーの著作を一つ取り上げて、それについて2名の研究者が発表をした後、ディスカッションをする、という形式である。
 ロンドン時間の午前11時頃に始まるセミナーはzoomでライブ配信された。セミナーの動画はのちにYouTubeで、発表原稿はFocaalというウェブサイトで公開された。
 『価値論』の回を担当したのは、オランダのマルクス主義人類学者で元アナキストのドン・カルブ(Don Kalb)と、オーストラリアの経済人類学者クリス・グレゴリーである。
 グレーバーは『価値論』第2章で、グレゴリーによるメラネシアにおける贈与交換についての分析を、ネオ・モース派の議論の一例として詳しく取り上げている。ちなみに、グレゴリーはもともと経済学を専攻していたが、グレーバーの指導教員でもあるマーシャル・サーリンズの論文を読んで、人類学に転向した人物である。

 

 ここに訳出したグレゴリーの文章の題名に出てくる「私たちの夢の偽硬貨(The false coin of our own dreams)」というフレーズは、『価値論』の原書の副題 (サブタイトル)である。
 グレゴリーも述べている通り、グレーバーはもともとこのフレーズを原書の主題(メインタイトル)にしようと思っていた。だが出版社の意向で、グレーバーがもともと副題にしようとしていた『価値の人類学的理論へ向けて(Towards an Anthropological Theory of Value)』が主題になった。
 グレーバーはこのことに対する不満を『価値論』の「謝辞」のなかでユーモラスに伝えている(※ちなみに日本語訳とほぼ同時期に出版されたフランス語訳の主題は、グレーバーの当初の希望通り『私たちの夢の偽硬貨(La fausse monnaie de nos rêves)』になっている)。

 

 『私たちの夢の偽硬貨』という題名を見て、それがなにについて書かれた本なのかを推測できる人はほとんどいないだろう。
 それに加えて、本書執筆当時のグレーバーは博士課程を修了して間もない、ほぼ無名と言ってもいい研究者である。見たことのない名前の研究者が書いた、意味のわからない題名の著作を手に取る人がどれほどいるのか、という出版社の懸念も十分理解できる。

 

 しかし、グレーバーは「私たちの夢の偽硬貨」というフレーズこそ、この本の議論全体を表すのにふさわしいものだと考えていた。
 ではそれはどういう意味なのか? グレゴリーは本稿で、それを解き明かそうとしている。
 グレゴリー自身、初めてグレーバーの発表を聞いたとき、彼が何を言おうとしているのか、さっぱりわからなかった、と率直に述べる。そしてグレーバーのデビュー作であるこの理論書は、彼の著作の中でも「一番難しい本である」とグレゴリーは言う。

 

 グレゴリー自身が何年もかけてたどり着いた解釈は、本書とグレーバーのその後の著作である『アナーキスト人類学者ための断章』(2004=2006)、『直接行動 Direct Action』(2009)、『負債論』(2011=2016)、『ブルシット・ジョブ』(2018=2020)の5冊は、「価値」をめぐる一貫したテーマを追求した連作である、ということだった。

 

 ではグレーバーの価値への問いとはなんだろう? グレゴリーは自身がかつて専攻していた経済学(「ノーベル経済学賞」に象徴されるような経済学)が前提としている「富のイメージ」と、グレーバーが探求した、人間を中心に据えた経済における「富のイメージ」との対比を通じて、それを明らかにしていく。

 

 グレーバーは、価値についての問いこそが、社会理論を袋小路からから救い出すものだと信じていた。さらにグレーバーは、政治の究極的な課題は、なにが価値であるかを確立するための闘争である、とも信じていた。
 グレーバーの課題が「価値の総合理論」の構築であったのは、この理由による。
 彼のその後の著作で展開されるすべての議論の萌芽が含まれているようなこのデビュー作の日本語訳の題名を(彼の当初の意図とは異なる)『価値論』としたのも、彼が生涯を通して取り組んでいた課題がよりストレートに伝わる題名にしたいと考えたからである。

2023年2月8日 藤倉達郎

 

 

 正直に言うと、デヴィッドの初対面の印象はよくなかった。2006年にハレで行われた学会でのことだ。デヴィッドは、のちに『負債論』として公刊される本の概要を50分間で発表した。5000年の歴史を50分間でカバーしたのだ。彼がその発表をした頃、「大きな物語」は完全に流行遅れになっていた。とりとめのない支離滅裂な発表だ、と私は思った。

 それから15年のあいだに、私の考えは完全に変わった。私はつい最近発表した論文の中で、サーリンズとグレーバーは、ノーベル経済学賞を授与されるべきだった、と主張した(Gregory, 2021)。多くの人にとって、それは素晴らしい称賛を意味する。しかしデヴィッドがそれを受け取ろうとしたかどうか、私にはわからない。彼の価値の理論へのアプローチは、「ノーベル」経済学賞と呼ばれるものに象徴されるすべてと正反対だからだ。

 今日の私の役割は、彼の『価値論』について論じることである。私はその役割を、できるだけ忠実に果たそうと思う。
 ただし、『価値論』は彼が書いた本のなかで、間違いなく、いちばん難しい本である。
 正直にいうと、私は、『アナーキスト人類学のための断章』(2004=2006)と、『直接行動 Direct Action』(2009)と、『負債論』(2011=2016)と、『ブルシット・ジョブ』(2018=2020)を読んだあとで、やっと、『価値論』の中心となる議論を理解しはじめることができた。
 これらの本はすべて、共通の、きわめて一貫したテーマと内容に取り組んでいる、と私は感じた。これら5冊の本は、価値の問題をめぐる5部作である、と私は理解している。
 これが、デヴィッドの著作についての、もっとも正しい解釈だ、と私は主張しているわけではない。彼の著作に対しては、さまざまな接近のしかたがありうる。しかし、私にとっては、この解釈がいちばん有用に思えるのである。

 『価値論』の「謝辞」のなかで、デヴィッドは、本の題名の順番を変更させた編集者以外の、パルグレーヴ社のすべての人に感謝している。
 彼が望んでいた順番に戻すと、本の主題(メインタイトル)は「私たちの夢の偽硬貨(The false coin of our own dreams)」になり、副題(サブタイトル)が「価値の人類学理論に向けて(Toward an anthropological theory of value)」になる。
 このように反転することによって、この本を違った角度から見ることができるようになる。「向けて」という言葉は、古い理論から、新しい理論への、まだ完了していない動きを示唆する。そしてこの反転によって、「私たちの夢の偽硬貨」という言葉が前面、そして中心に位置づけられる。
 この言葉の起源は、マルセル・モースとアンリ・ユベールの『呪術の一般理論』(1902-3; 1972)まで辿ることができる。しかしデヴィッドはこのメタファーに21世紀的なひねりをくわえる。
 「私たちの夢の偽硬貨」というフレーズは、彼の価値についての書籍全5巻のすべてを構成する中心的なメタファーとなる、ある矛盾の輪郭を示す、と私は見ている。彼はどのような矛盾について語っているのだろう?

 簡潔に答えると、彼は世界を変えうるような大きなアイディアをめぐる政治的闘争について語っているのである。デヴィッドにとって、価値の問題は、なににもまして、複数の、競合する、富のイメージをめぐる闘争なのである。
 偽硬貨とは、過去の夢想家たちによってつくられた、富のイメージである。
 それらの偽硬貨の鋳造者たちがつくったイメージは、長年の過剰な使用によって、不純物が混ざり込み、劣化している。夢想家デヴィッドは、これらの劣化した富のイメージを再鋳造して、何が可能であるか、ということについての新しいイメージを創造しようとしている。
 彼の夢は、妄想ではない。その夢は、経済史と文化地理学と現在の政治状況とに根差した、現実的な可能性である。
 夢想家グレーバーは、支配層エリートの偽硬貨を奪取し、溶解し、希望ある未来のイメージを持つ人たちと協働して、新しいなにかを鋳造しようとする、政治活動家なのである。デヴィッドは、街路で、協働者たちと共に、「dream」という英単語の古来の意味の通り「叫び、わめき、歓喜の騒音をたて」(OED ※オックスフォード英語辞典) たいのである。 

 

 

富の新しいイメージとはなにか?

 デヴィッドがニューヨーク生まれで、ウォール街からほんの6kmしか離れていない、チェルシーで育ったということを、決して忘れてはいけない。
 彼はニューヨーク中心的な世界観を失うことがなかった。デヴィッドのアプローチの核心だ、と私が理解しているものを、この画像(図1参照)は捉えている。
 そこには1987年のブラック・マンデーの株価大暴落から間もない1989年に、作者であるアルトゥーロ・ディ・モディカがこっそりとウォール街に設置した彫刻「チャージング・ブル」が写っている。2017年にクリステン・ヴィスバルは「チャージング・ブル」に立ち向かう彫刻「恐れを知らぬ少女」を設置した。しかし苦情を受けて「恐れを知らぬ少女」はウォール街の別の場所に移され、「恐れを知らぬ少女」の象徴的な力はまったく変わってしまった。
 Googleマップによると、この少女は現在、ウォール街の重役会議における女性の平等のための闘いを表しているそうだ。もともとの位置関係は、それとはまったく違う解釈を可能にする。特に、若者の叛逆の歌「blah, blah, blah」の歌詞と重ねると、それがはっきりと浮かび上がる。

図1. 恐れを知らない少女の像、クリステン・ヴィスバル作、ニューヨーク市、ウォール街。写真、アンソニー・クインタノ licensed under CC BY 2.0

 グレタ[・トゥーンベリ]の「blah, blah, blah」は、若者に大人気の歌からの引用である(※グレタ・トゥーンベリは2021928日、ミラノで行われた「若者による気候会議(Youth4Climate)」の開会演説でこの言葉を用いた)。別の箇所の歌詞は「Ja, Ja, Ja」だ。
 作曲者のアーミン・ヴァン・ビューレンがダッチ(オランダ人)ということもあって、エリートたちはこの歌詞をダブル・ダッチ(ただのデタラメ)だと思うかもしれないが、そうではない。
 ポーランドのドクター・セヴという人物がグレタの演説とアーミンの歌をミックスし、2021年9月30日にユーチューブで公開した。若者たちの感情を揺り動かそうとして作られたこの音声的イメージは、重大な問いを喚起する。
 「No more blah, blah blah」は何を意味するのだろう? このような歌詞を通して、若者たちはどのようなメッセージを権力者に伝えようとしているのだろう?

 ここにデヴィッド・グレーバー、ウォール街のバイリンガル民族誌家が登場する。
 彼はウォール街のオフィス内の雄牛(ブル、上昇相場)や熊(ベア、下落相場)といった言語を学んだだけでなく、その外側のニューヨークやロンドンその他の街の路上の若い抗議活動家たちの言語も学んだ。彼は2019年5月、ロンドンで行われた「エクスティンクション・レベリオン(絶滅への反乱)」に参加した。彼は若者たちが語ったことをしっかりと記録し、報告した(Graeber 2019)。以下に、その若者たちの視点を、彼はこのように再-表象しただろう、と思われるものを、私なりにとても短くまとめてみる。

 「気候変動についての真実を私たちに言え。嘘はもう止めろ。ブルシットな話を止めろ。私たちにブルシット・ジョブをさせるのも止めろ。私たちも地球上の生命にとってのさまざまな可能性を想像する能力をもっている。権力の座にあるあなたたち年寄りが、私たちの夢に耳をかさないなら、私たちはみんなおしまいだ(we are all finished)。」(抗議活動家たちは最後のセンテンスで、Fからはじまる別の言葉を使ったかもしれない。) “No more blah, blah, blah“は、上記の内容を礼儀正しく言い換えたものである。

 デヴィッド(2018=2020: Ch 1, fn 10)は、嘘つきとブルシッターの区別に言及しているが、詳しくは論じていない。しかし、ここでは、その区別はとても重要だ。
 フランクフルトはその古典的論考(1986)で次のように述べている。ブルシッターはハッタリをかましたり、見栄を張るために、誇張し、たわごとを言う。それと違って、嘘つきは、故意に虚偽を用いて人を誤った方向に導く。言い換えれば、学者が見栄を張ろうとして訳のわからないことを言ってしまうのと、トランプのように真実を知っている政治家が意図的に虚偽を拡散するのとは、まったく違う。雄牛(ブル)は肥やしを生み出すこともできる。つまり学術的ブルシッターはとても有用なものを生み出すこともあるのだ。

 ここにあるのは、二つのまったく異なる価値だ。
 学術的ブルシットは両義的なので、とても注意深く取り扱わなければいけない。デヴィッドはその著作において、まさに注意深い取り扱いを実践している。
 しかし、彼独特の蛇行する文体に慣れるのには、少し時間がかかる。今となっては、その文体に長所があることもわかる。しかし、自分の学生にそれを模倣することは勧めない!
 では、バリケードの反対側にいる人物たちの言語についての、デヴィッドの分析に移ろう。学者だけでなく、彫刻家や歌手など、芸術家たちの想像力を刺激するウォール街の雄牛(ブル)や熊(ベア)についてである。一方には、市場を動かす政治家や株主たちから報酬をもらって、計算し、アドバイスをする、ビジネス・スクールや経済学部の学者たちがいる。
 他方には、しばしばキャリア上の犠牲を払いながらも、道路を占拠しラディカルな変化を要求する、デヴィッドのような学者たちがいる。

 そこで、学者を次の3つのカテゴリーに分けることができる。ウォール街のために働く学者、ウォール街に対抗する学者、そして、それ以外の問題に関心を持っている学者。
 英語では、奇妙なことに、ウォール街のために働く者は「政策アドバイザー」と呼ばれ、ウォール街に対抗する者は「政治活動家」と呼ばれる。ここからは両方を政治活動家と呼ぶ。
 すると、ビジネス・スクールや経済学部やロー・スクールには政治活動家がいっぱいいて、人類学部にはほとんどいないことが明白になる。
 このことは私たちのような非-活動家に、何もしないことについての居心地の悪くなる問いを突きつける。

 経済学部やビジネス・スクールの活動家たちは、その価値理論へのアプローチによって、さまざまな学派や政治的立場に分かれる。新スミス派、新リカード派、新マルクス派、新ケインズ派、新古典派、その他多くの派閥がある。その大多数は、シカゴ大学経済学部の経済学者の著作に代表される、主流の新古典派経済学に所属する。シカゴ大学経済学部は10人のノーベル賞受賞者を輩出している。受賞者数最多のハーバード大学より、2人だけ少ない。

 これらの人々の発想のもとになっている富のイメージは、デヴィッドの夢の正反対のものであり、反対命題としてデヴィッドの命題を定義づけている。説明しよう。富のイメージに関して言えば、デヴィッドは、ある意味で、ヨーロッパ経済思想の歴史全体と対立している。
 1776年のアダム・スミスから、2021年のノーベル賞受賞者まで、すべての経済学者と対立しているのだ。スミス、リカード、マルクス、ジェヴォンズ、ケインズ、フリードマン。全員とである。
 価値の概念と、価値についての特定の理論、特にマルクスの理論に関して言えば、話は別である。ここでイメージと、概念と、理論のあいだの、精密な区別が問題となる。この三項対立については、またのちほど述べる。ここでは、ある価値の理論がいくつかの概念を用いて議論を構築するとき、そこには道徳的原則としての特定のイメージが前提されている、とだけ述べておこう。

 この、ヨーロッパ経済思想の「偽硬貨」とは、どんなものだろう? それは、見る者の心に、どのような富のイメージを喚起するのだろう?

 アルフレッド・ノーベルは1895年に、「人類に最大級の貢献をした」人々に授与されるものとして、ノーベル賞を創設した。毎年、5つの賞が与えられる。物理学賞、化学賞、医学賞、文学賞、そして平和賞である。
 1968年、スウェーデン中央銀行がアルフレッド・ノーベルを記念する賞のための資金を寄付した。この賞はノーベル財団によって運営されているが、ノーベル賞ではない。
 しかし「接触呪術の法則」により、誤ってノーベル経済学賞と呼ばれている。しかし実は、その本当の名前は「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン準備銀行[Sveriges Riksban]経済科学賞」なのである。ノーベルの子孫たちは、この状況にとても不満である。
 ノーベルの甥の孫にあたるピーター・ノーベルは「ノーベルは、社会のことよりも、利益のことを気にする人たちを嫌悪していた」と述べた。彼らは2001年にスウェーデン準備銀行賞からノーベルの名前を外すように要求した。アルフレッド・ノーベルは経済学についてとても懐疑的だったので、このような賞の存在は、彼の遺産に傷をつける、と主張したのだ。しかし、その要求は受け入れられなかった。

  デヴィッド・グレーバーとアルフレッド・ノーベルは、経済科学が人類に富と平和をもたらす能力がどれほどのものか、ということについて、明らかにいくつかの前提を共有していた。
 なのでデヴィッドは、スウェーデン準備銀行経済科学賞を拒否するが、ノーベル平和賞は喜んで受けとるのではないか、と私は考える。ドン・カルブ(2014:115)が正しく指摘しているように、デヴィッドはマルクス・レーニン主義的革命ではなく、ガンディーの伝統につらなるアクティヴィストだ。彼の武器は銃ではなく、音楽とダンスと話し合いである。

 『価値論』のなかで、デヴィッドは「夢のしるし(ドリーム・トークン)」についてとても興味深い議論をしているが、彼は、価値のしるし(トークン)としてのスウェーデン準備銀行経済科学賞についても議論すべきであった、と私は考える。これは経済科学者にとっての本物の夢の硬貨だが、デヴィッドにとっては夢の偽硬貨である。
 デヴィッドにとってこれが「偽硬貨」なのは、それが消費期限をはるかに超え、劣化し悪化した、ヨーロッパ中心的な富のイメージの典型だからだ。
 これよりも良いイメージを追い求めることに、デヴィッドは生涯を費やした。その着想をえるために、彼は民族誌と歴史資料の収納庫を漁り、そしてもちろん、若者たちと話した。
 彼は、古くからの問いに、新しい答えを出すのではない。彼の思考は、私たちが地上の生命にとっての新たな可能性を想像する能力に対して経済史と文化地理学が課する制限を明らかにすることへと向かっているのだ。
 この思考を通して、彼は、新しい問いを立て、議論の前提をひっくり返す。マニフェストでも、命令でもなく、ただ、ものごとの根本へと迫る、難しい問いを立てるのだ。人間の状況に関わる、重要な差し迫った課題について、創造的な議論を喚起することが、彼の主な関心である。
 これらの問いに対する簡単な答えを探しているのだとしたら、あなたはそれをデヴィッドの著作のなかに見つけることはできない。彼は救世主ではない。彼は私たちに考える方法を教える。答えを教えるのではない。彼は価値の人類学的理論へ向けて、数歩、歩み出す。しかし、最後の目的地には達していない。

  価値の理論は、経済学においてもっとも激しい論争を引き起こすテーマである。
 例えば、10人の経済学者に貨幣の定義を尋ねたら、10の異なる答えが返ってくるだろう。しかし、富のイメージに関しては、驚くほど意見が一致している。
 私がここで言っているのは、豊饒の角のイメージのことである。豊穣の角はヨーロッパの神話に登場する食べ物と豊かさの象徴であり、スウェーデン準備銀行経済科学賞には刻まれているが、本物のノーベル賞にはない。89名の経済科学賞受賞者はすべてこのしるし(トークン)を彼らの夢の本物の硬貨の象徴として、誇らしく受け取った。

 

違いを探そう

図2. ノーベル賞 vs. スウェーデン準備銀行賞

 

 ヨーロッパ近代経済思想の起源はヨーロッパ経済神学の世俗化にある、とデヴィッドは正しく指摘している。彼の理論を例証するのに、ギリシア神話に起源を持つ豊饒の角のイメージほど適切なものはない。

 豊饒の角は、経済科学者たちにアダム・スミスのイメージを喚起する。スミスは彼らの崇敬する始祖であり、その著書、『諸国民の富の本質と原因に関する研究』(1776=2020)は経済科学の創造神話の役割を果たしている。この古典的文書の最初の行において、スミスの概念や理論の前提となる富のイメージが提示される。

 

国民の年々の労働は、まず第一に、国民が年々消費する生活必需品と便宜品のすべてを供給する基金(ファンド)であって、この生活必需品と便宜品は、つねに国民による労働の直接の生産物と、それに引き替えに他国から購入するものとで構成されている(Smith, 1776-2020:1  訳書二七頁)

 

 経済学入門の授業を履修する学生たちは、アダム・スミスの労働価値説を学ばない。
 カール・マルクスはスミスの労働価値説に触発された。スミスの労働価値説をマルクスは改良し、1867年に出版した。スミスと同じように、マルクスの古典的著作も、その1行目において、みずからの概念や理論が前提とする富のイメージを提示する。

 

資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる(Marx 1867=2005 :1 訳書五五頁)

 

 これら二つの富のイメージを隔てるのは、もちろん、産業革命である。
 この革命はマルクスのようなラディカルな思想家だけでなく、ウィリアム、スタンレー、ジェヴォンズの3人を含む保守的な思想家の新たな思考を触発した。
 この3人はそれぞれ独自に新たな価値理論を構築したのだが、その理論はスミスの客観的な労働価値説を転倒させたものだった。
 それは、主観的限界効用説で、財のさまざまな消費を通じて得られる快と不快の数学的計算にもとづくものだ。
 この価値理論は、賃金と価格と利潤に関する問いに対して、マルクスとは異なる解答を提供する。
 階級闘争の歴史に根ざした利潤と搾取の理論とは違って、ジェヴォンズの理論は、市場で自由な選択を行なう抽象的で非歴史的な個人のイメージにもとづいている。スミスの自由放任(レッセフェール)の教理は採用され、彼の労働価値説は放棄される。
 この新たな価値理論は、豊饒の角の、根本的に新しく矛盾に満ちたイメージを前提にしている。ロビンズが言うように「富はその実体的な性質によって富になるのではない。それは希少であるから富なのである」(Robbins 1932:47)。つまり、保守的な経済学者にとっての富とは、工業的賃労働によって生産された物質的な豊富さではなく、消費財の普遍的消費者が感じる主観的な欠乏感なのである。

 マルクスの政治経済学は、レーニン、スターリン、毛沢東らの夢を喚起した。
 ジェヴォンズの経済科学は異端者ケインズ、熱狂的信者フリードマンらの夢を喚起した。
 一方の極には、スミスに着想を得た、歴史的な具体性を有する剰余価値としての、とても否定的な富のイメージがあり、他方の極には、スミスに着想を得た、普遍的希少価値という、とても肯定的な富のイメージがある。その後の20世紀の歴史は、ご存知の通りだ。

 このヨーロッパ中心的な富のイメージの傲慢を正し、その彼方にあるなにかを想像することを可能にするような、21世紀の富のイメージを、デヴィッドは探し求める。
 デヴィッドの思考は、経済学者の論争の両極のあいだに、共通の地盤があることを彼に示した比較民族誌に触発されていた。
 サーリンズと同じように、彼は普遍的希少性の概念を否定し、非-資本制社会と前-資本制社会の民族誌的資料を渉猟することで、マルクスの射程を拡張し、21世紀のポスト資本主義のイメージを探し求めるのである。

 「政治経済学は、資本制社会における仕事が二つの領域に分離されている、と捉えることが多い。一方は賃労働であり、その典型は常に工場である。他方は家庭内労働(家事、子育て)であり、主に女性に割り当てられている」とデヴィッド(2007: 47)は書く。政治経済学は工場における抽象的労働時間を最重視する。デヴィッドは、これを転倒しようとしている。そして、自分たち自身が創り出す文化の中で、自分たちの社会と子どもたちを再生産する過程に携わっている人たちの、創造的な思考と活動が最重視されるようにしたいのである。

 価値問題一般についての思考という面では、デヴィッドの貢献はオリジナルなものではない。デヴィッドは、多くの人類学者たちによる先行研究に、みずからの着想を負っている、ということを注意深く記している。
 特に重要なのは、シカゴで彼が教わった、テリー・ターナーとナンシー・マンである。また彼が批判した、マリリン・ストラザーンや私の著作などについても、しっかりと参照している。彼の本の出版後、キース・ハート(Keith Hart)やクリス・ハーン(Chris Hann)など多くの人類学者が、人間を中心に据えた経済分析へのアプローチを発展させている。

 デヴィッドの貢献を際立たせているのは、彼の価値に関する全5巻の研究が、ずば抜けてラディカルで野心的なことだ、というのが私の意見である。デヴィッドの生涯の業績――私の数えたところでは15冊ほどになる――は、人間の条件の社会経済史と文化地理学の全体を射程に入れるものである。

 デヴィッドのアプローチを特徴づけるのは、経済神学ならびに富の政治経済学に対する彼の関心である。
 彼はヨーロッパの政治経済学のうちに経済神学を見いだし、非ヨーロッパの経済神学のうちに政治経済学を見いだす。私たちの富のイメージがどのようなものになっているのか、さらには、そのイメージが変化しうるという希望のしるしを、彼は探求する。

 デヴィッドのプロジェクトのうちの一つは、ヨーロッパ経済神学の世俗化の文化史を発掘することであり、そしてその世俗化がいかに未完の営為であるかを示すことだった。
 例えば、1662年のペティから、1867年のマルクスに至るヨーロッパ政治経済学は、富の創造主としての父なる労働と母なる大地についての語りに満ち溢れているが、赤子イエスという名の穀物の神や、母の乳を吸う赤子ゼウスという形をとる、子なる神についてはまったく触れていない。
 豊穣の角の神話の、この偏った世俗化は、母としての女性の価値をおとしめるだけでなく、最高級の富である息子としての男性の価値も下げる。これは人間の思考における、真の大いなる革命であり、英語におけるその歴史はオックスフォード英語辞典の編集者たちによって、とても詳細に記録されている。
 非ヨーロッパにも男性中心的な経済神学はいくつもあるが、ヨーロッパの経済神学ほど極端なものを私は知らない。

 例えば、21世紀のインドにおいては、スミスの自由放任主義(レッセフェール)的な富の追求が完全に支配的ではあるが、息子は最高の富であるというイデオロギーも同様に支配的である。
 男女比率の人口統計が示すように、このイデオロギーがもっとも強力なのは、北西インドのうちで資本制がもっとも進んでいる地域である。これとは対照的に、東部中央インドの私の調査地では、富の経済神学は、母なる大地ではなく、母なる水の娘であるラクシュミという名の、米(こめ)の女神への儀礼の形をとる。女性祭祀たちが歌う31,000行の聖なる詩は、従順な妻ではなく、恐れを知らない娘としてのラクシュミを讃える。実際、妻を殴打する夫との結婚によって彼女は最期を迎える。物語には、妻を殴る夫と、嫉妬深い他の妻たちが自分たちの間違いに気付く、というハッピーエンドがついている。
 この神学の政治経済は、子宮中心的、娘中心的、米中心的、水中心的である。さらに、デヴィッドが示しているように、このような比較を通じて、私たちは、ヨーロッパの政治経済学の前提になっている富のイメージが、男根中心的で麦中心的であることを、正しく認識することができるのである。

 

 

結び

 価値の理論は、(「使用価値」「交換価値」「互酬性」といった)限られた数の概念を用いて、「であること」についての一般理論を導き出す、現実世界についての記述的な説明として、みずからを提示する。
 しかしその記述的説明の裏側にあるのは、「であるべきこと」についての規範的命令である。記述と規範のあいだに存在するのが、両者間のギャップを無くすのに必要な変化をもたらすための、政策的提言である。
 政治経済学と経済科学に関して言えば、規範的命令は、豊饒のギリシア神話のアダム・スミス的解釈に由来する、とても単純な富のイメージである。一方には具体的な歴史から生み出された大量の商品のイメージがあり、他方には普遍的な希少財のイメージがある。

 このヨーロッパ中心的な夢は、何百万人もの人に、その先祖の物質的貧困から逃れることを可能にしたが、現在の私たちすべてにとっては悪夢になっている。その夢は、ある場所には想像を絶する富を、他の場所には凄惨な貧困を、そしてあらゆる場所で環境破壊をもたらした。
 政治経済学と経済科学の前提となっている富のイメージは、現在を生きる私たちの夢の偽硬貨だ、とデヴィッドは正しく指摘する。
 彼が、全ての著作のなかで展開する、人類学と歴史の知識にもとづいた概念と理論はそのどれもが、この偽硬貨が、もはや劣化し使いものにならないことを明らかにするという目的に関わっている。
 彼は、富の新しいイメージをつくりだすためには、どうすればいいのか、という集合的な思考を促進したいのだ。『価値論』と『負債論』と『ブルシット・ジョブ』に登場する概念と理論は、それぞれ、非-ヨーロッパの非-資本制経済、資本制以前の経済、そして21世紀資本制経済における、富についてのオルターナティブなイメージを私たちに提示する。

 デヴィッドの夢を特徴づける富のイメージは、すべての富のイメージと同様、とても単純で実現可能なものである。彼は商品の生産、そして財の消費ではなく、人の再生産に注意を向けたいのだ。今日の子どもたちが、明日の世界のあり方についての議論に、実質的に参加できるような再生産のあり方に。人々がみずからを再生産できるような世界を再-想像するという課題は、喫緊のものになっている。
 デヴィッドの著作は、可能な世界と、現実の世界とのあいだの、あまりに大きな乖離を明らかにする。彼は非暴力的な政治活動、そして彼の楽観主義を通して、学問的営為はこの目的を達成するために必要であるが、十分ではない手段である、と教えてくれる。政府や産業界のリーダーに「政策提言」をするビジネス・スクールやロー・スクールや経済学部の政治活動家たちは、この事実を、ずっと前から知っている。
 以前、ウォール街で「チャージング・ブル」に立ち向かっていた「恐れを知らぬ少女」は、デヴィッドにとっての人類学とは、ある視座からものを見ることだけではなく、行動することだ、ということを、私たちに思い起こさせてくれる。デヴィッドは、マルクスに倣って、こう言うかもしれない。人類学はこれまで、世界をただ解釈してきた。しかし、問題なのは、世界を変えることだ。

 

 

参考文献

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著者紹介

クリス・グレゴリー(Chris Gregory)

人類学者。オーストラリア国立大学名誉教授。専門はパプアニューギニアおよびインド中部のバスター地区。
著書にSavage Money, Routledge, 1997ほか。
編著にThe Quest for the Good Life in Precarious Times, ANU press, 2018ほか。

訳者紹介
藤倉達郎(ふじくら たつろう)
1966 年生まれ。シカゴ大学大学院人類学研究科博士課程修了、PhD。現在、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授。
著書に Discourses of Awareness: Development, Social Movements and the
Practices of Freedom in Nepal
, Martin Chautari, 2013.