【連載】反−万博論  対抗の地図を描き出すために 

  第1回「イベント中毒都市・大阪——原点としての1980~90年代」(前編)

  原口剛

 


 

1.はじめに

 いま目の前で開かれている大阪・関西万博は、しばしば「55年ぶりの大阪万博」と表現され、それゆえ70年大阪万博との対比で語られる。だがよく指摘されるように、2025年万博の開催動機の背後に潜むのが「もういちど70年万博の成功体験を味わいたい」という欲望だとするなら、このような語り口は間違いといわないまでもミスリードであり、見落とされしまう物事はあまりに多い。じつのところ「70年万博をもういちど」という欲望に駆られた都市政策は、すでに1980~90年代の大阪で大々的に展開され、しかも破たんに行き着いたという経験がある。とすれば2025年大阪・関西万博の原点は、よく言われるように70年万博にあるのではなく、80年代以降の経験に求められるべきではないか。少なくともその視点にたつことで、みえてくることがたくさんあるはずだ。

 たとえば本連載の「序」で述べたように1990年代末に繰り広げられた2008年オリンピック誘致運動(結局は北京に競り負けた)の実施計画において、選手村などの中心的施設の配置が予定されていたのは、人工島「舞洲」および「夢洲」であった。この「夢洲」こそ、2025年の万博の会場とされた人工島にほかならない。つまり、かつてオリンピックの開催地とされていたのと同じ人工島が、四半世紀後には万博の会場へとすり替わったのである。大阪維新の会が政策の目玉として掲げた万博プロジェクトは、じつのところ九〇年代の大阪オリンピック・プロジェクトの焼き直しにすぎない。愚かさのうえに愚かさを重ねていくかのような開発の螺旋のなかで、「改革者」として自己を宣伝する維新は、とうに破たんしたはずのプロジェクトにしがみつきつづけているわけだ。なにより注目すべきは、オリンピック誘致運動をはじめ80~90年代の大小のイベントを主導したのは、橋下徹および大阪維新のブレーンであり、25年万博の誘致にも誰より前のめりだった堺屋太一その人だということである。

 「序」で述べたとおりこの連載では、関西で開催された近現代のメガイベントを振り返りつつ、万博体制に覆われた現在に対する——税金の無駄遣いなどの指摘も重要だが、より視野を広げた——根本的な批判の視座を探るつもりである。よってこの連載では、大阪での最初の博覧会が開催された1903年以降の、長い歴史と経験を行き来することになるだろう。第1回となるこの文章では、上述した問題意識のもと、堺屋太一が80年代初頭に提唱した都市政策「イベント・オリエンテッド・ポリシー」や、この政策理念にもとづいて展開したイベント主導型都市開発の実態を取り上げることからはじめたい。

 以下でみていくように、堺屋が主導した「イベント・オリエンテッド・ポリシー」は、80~90年代の大阪にイベントと再開発が暴走するような状況を生みだし、その挙句に破たんへと突き進んだ。いわばこの時期の大阪は「イベント中毒」と呼ぶべき症状に陥ったのである。周知のとおり大阪維新の会は、大阪府市による乱開発と「負の遺産」を責め立てることで支持を集め、大阪府市を牛耳るにいたった。だが、はたしてその後の大阪は、この「中毒」から抜け出せたのだろうか。結論を先取りしていえば、まさにカジノ誘致の企みに象徴されるように、大阪維新の会は中毒の度合いを末期的なレベルまで深刻化させているように思われる。「末期的」というのは、生存に必要なインフラを切り売りし、生活や文化を破壊させてまで万博にしがみついているその姿を指してのことだ(たとえばいま市立中央図書館がどんな状況に陥っているのかを考えてみてほしい)。

 しかもいまやイベント中毒に陥っているのは、大阪だけではなくなった。日本政府および自治体は、2020年東京オリンピックの5年後に大阪・関西万博を開催し、さらにその5年後には北海道・札幌冬季オリンピックを誘致しようとした。5年ごとに刻まれるメガイベントの「どさくさ」は、まるで日本列島のカレンダーと化しているかのようだ(そしてこの点には、時空間を編成して日常生活に植えつけようとするメガイベントの権力作用が潜んでいるように思われる)。よって80~90年代大阪のイベント・オリエンテッド・ポリシーの内実や帰結を検証することは、いま日本列島を覆いつくしている政治状況に亀裂を入れるための糸口を探ることにもつながるはずだ。

2.イベント中毒都市の原点

万国博は一つとして大きいというが、その内容を見ると何十というパビリオンの集合体である。オリンピックも、細分すれば陸上競技、水泳、体操、サッカー、その他何十という競技大会の集合である。つまり多数の競技大会が一定の期間に比較的近い所で行われるというだけだ。これに対して、「大阪21世紀計画」は、より多様な行事が空間的時間的に拡散してはいるが、「大阪21世紀計画」という巨大な傘の下に入っている点では「一つの行事」でもある。ただ、いずれの場合にも必要なことは、それが「一つの傘の下」と概念され統合されているということだ。

(堺屋太一『イベント・オリエンテッド・ポリシー』, 307)

 通産省官僚として70年万博の企画・運営を率いた堺屋太一は、80年代初頭に新たに「イベント・オリエンテッド・ポリシー」(行事誘導政策)なる都市政策を提唱した。堺屋は、70年万博が巨大な経済的成功を収めたことを誇ってやまなかった。だが同時にかれは、70年代の経済危機や相次ぐ公害被害、そして抗議の声を受け生活環境を重視するようになった国内の政治状況のなかで、70年万博が実演してみせた経済的ポテンシャルが発揮されぬまま、「一度きり」の成功にとどめられたことにいら立ちを覚えていた。それは、財界がひろく共有していた不満でもあった。70年代後半に革新自治体の勢いが弱まるなかで、財界には失地回復の機会がおとずれ、その動きはしだいに活発になっていった。

 1970年代半ばに大阪商工会議所事務局の要請により開催されたシンポジウム『都市の復権』は、「大阪は情報化時代の国際都市としての自覚に立ち、それにふさわしい市民生活像をデザインするため、早急に具体的努力を開始すべきである」、「この新しい時代の大阪を象徴し、情報化と国際化に寄与し得る画期的な文化機関と施設群を創始すべきである」、「この新しい時代の大阪を支えるべき人材を育成・導入するための具体策を立てるべきである」といった提言を打ち出した1。続けて堺屋太一を中心に「活力ある大阪を求める会」が78年に結成され、81年には大阪府知事・大阪市長・関西経済連合会会長・大阪商工会議所会頭・日本万国博覧会記念協会会長による五者会談が開催された。そこでは21世紀までの長期計画を前提にした「大阪21世紀計画」が決定され、計画推進母体として「財団法人大阪21世紀協会」が発足したのである。大阪21世紀協会とは、財界と府知事・市長が直接的に都市の方向性を協議する場であり、こうした官民協働体制のもと80年代以降の大阪は、イベントを梃子とした再開発の舞台となった。

 このイベント主導型の都市開発政策の理論的支柱になったのが、「イベント・オリエンテッド・ポリシー」だったのである。「大阪21世紀計画」のもと開催された主要なイベントとしては、大阪築城400年まつり(1983年)、大阪世界帆船まつり(83年)、御堂筋パレード(83年~)、天王寺博覧会(87年)、国際花と緑の博覧会(90年)、そしてオリンピック誘致運動などがあり、その他大小のさまざまなイベントが次々と繰り広げられた。またイベント・オリエンテッド・ポリシーは、「行事群を先導役として世界中核都市を創生するという大都市開発のための行事誘導政策」となることを掲げ、この企図のもとで大阪ビジネスパーク(OBP)、天保山ハーバービレッジ、アジアトレードセンター(ATC)、大阪ワールドトレードセンター(WTC)など、数々の「パビリオン」が建設されていった。

 大阪21世紀計画では、次のように宣言されている。「屋内もあれば屋外もあり、デザイン、ファッション、スポーツ、音楽、シンポジウムなど多種多様なイベント群を総称するものでもある。万博やポートピアと違って、特定の期間、特定の会場において行われる博覧会ではなく、その会場は主として都市空間であり、道路、公園、港湾、河川、広場といった生活の場所が舞台であり、そして一過性のイベントではなく、都市のなかでイベントが定着していくことをねらいとしている」(石村1983)。ここで述べられているように、大阪21世紀計画はたんに万博のリヴァイヴァルを目指したわけではない。関西国際空港をメイン・ゲートとして、そこから流れ入るであろう客や資本を魅了するべく、都市空間を博覧会場へと飾り立て仕立て上げていくこと。これが、大阪21世紀計画の狙いだったのである。

 都市のイメージ工学(imagineering)

 現在から振り返れば、万博を繰り返せばおのずと経済成長を達成できるといわんばかりの堺屋の主張は、あまりに単純かつ能天気であるように思われるだろう。なにしろ私たちは、このようなイベントと再開発だのみの都市政策がもたらした帰結を、すでに知っている。のちに「バブル経済」と呼ばれることになった80年代の投機熱は、90年代に入ると急速に冷え込み、一転して深刻な不況に覆われた。にもかかわらず、80年代初めに始動したイベント・オリエンテッド・ポリシーは見直されるどころか、土地信託制度による公有地開発の手法(いわゆる「第三セクター方式」)などの追加燃料を投入してまで強引に進められたのである。そうしてガバン・マコーミックが指摘したように「成長と開発が目的達成の手段ではなく、自己目的化してしまう」状況へと突き進んだのだった。その結果として残されたのは、巨額の負債と、荒涼とした開発地の光景であった。アルコール依存のおそろしさは、飲酒したところでもはや酔えないことが分かっているのにアルコールに救いを求め、生活が破たんしてなお飲酒をやめられないところにある。これに似て「イベント・オリエンテッド・ポリシー」が行き着いたのは、「イベント中毒」というべき症状だったのだ。

 ただしこのような80年代以降の都市政策の過程と帰結を、堺屋太一という「万博に取りつかれた男」の執念の物語だけで語ってしまうわけにはいかない。というのもかれの展望は、少なくとも80年代初頭の時点では、世界的に台頭しつつあった都市政策の潮流に後押しされたものだった2。イベント・オリエンテッド・ポリシーに確信を与えた「成功例」には、万博やオリンピックといったナショナル・イベントのほかに、もうひとつ重要な事例があった。戦後世界のなかに現われた「超大規模の「大人の遊園地」」(堺屋 1983: 98)すなわちディズニーワールドである。重要なことに、ディズニーワールドが創り出した「イメージ工学」(imagineering)という言葉は、新たな都市空間の構築技法として脚光を浴びていた3。この用語が意味するのは、想像力(imagination)と工学技術(engineering)とを組み合わせる技術の総体である。テーマパーク空間の構築原理であったイメージ工学は、やがて都市空間の構築技術へと拡張されていった。80年代以降の都市政策においてその技術は、都市の建造環境に「国際性」や「グローバル性」を象徴するスペクタクルを植え込むための政治手法となり、また、都市開発にふさわしい場所性を構築するための経済的手段となったのだ(Paul 2004)。

 イベント・オリエンテッド・ポリシーが提唱されたのは、まさにこのような世界的状況においてのことである。堺屋は、「場所(ロケーション)のイメージ」をことさら重視し、「一つの都市が、この意味でのイメージを持つことは、そこで働く人々にとっても、その都市を擁する国にとっても限りなく大きな資産となる」と強調する(堺屋 1984: 273)。その言葉に込められているのは、グローバル資本の要請に応えようとする意図である。ただし繰り返せば、このスローガンに煽られた80年代以降の大阪は、前述したように、大規模な都市開発プロジェクトを展開した果てに破たんへと突き進んだ。また、そればかりでなく、都市全体を博覧会場へと塗り替えようとする目論見は、差別と分断を都市空間の奥深くに刻み込むものだった。その実践は、いまこそ批判的に検証されなければならない。

 「大阪築城400年まつり」と記憶をめぐる政治

 このように大阪21世紀計画のねらいとは、都市全体を博覧会場へと転換させ、テーマパーク化することであった。この大がかりなイメージ工学を実現させるために堺屋は、「象徴と権威の確立」が欠かせないと強調する。テーマパークがそうであるように「行事が大いに楽しみを与えるためには、明確なコンセプトにしたがってママストーリー」が大切」であり、「そのストーリーに沿わないものは整理排除しなければならない」(堺屋 1984: 312)。閉じられたテーマパークの世界を構築するうえでは、ディズニーランドにおけるシンデレラ城のような「権威ある象徴」を打ち立て、また物語にそぐわない要素を排除することが肝心なのだという。イベント・オリエンテッド・ポリシーは、この原理を都市全域に適用しようとする試みだった。その試みが実現された先に、消費のスペクタクルにみあわないような者たちは「場違いな存在」として排除されることだろう4。これについては連載の後編で論じることにして、ここではどのような景観が「博覧会都市の象徴」として選び取られ、そのことによっていかなる空間が構築されたかを検証したい。

 大阪21世紀計画が博覧会都市の象徴として選び取ったのは、ひとつは大阪城の景観であり、もうひとつはウォーターフロントの景観であった。いずれの選択も、都市をテーマパーク化するための文化戦略であると同時に、新たに開発するための経済戦略でもあった。まずは、前者の大阪城に対するイメージ工学の戦略に目を向けてみよう。1983年の「大阪築城400年まつり」は、大阪21世紀計画のオープニングイベントと位置づけられたイベントである。10月9日に御堂筋で開催された築城400年まつりのオープニング・パレードには1万7000人が集まり、その模様はテレビ放映された。こうして大阪城公園はイベント・オリエンテッド・ポリシーの最初の実験場となった。まつりの会場とされた大阪城の東側には収容能力1万6000人の「大阪城ホール」が建設され、また環状線の新駅「大阪城公園駅」が設置された。さらに、この地ではかつての兵器工場跡地を開発しようとする大型プロジェクト「大阪ビジネスパーク計画」が69年以来進められていた。築城400年まつりを皮切りに、計画地には松下グループによる2棟の超高層インテリジェンスビルから成る「ツイン21」の建設が始動し、開発プロジェクトは勢いづいたのである。  

 御堂筋のオープニング・パレードの意義について、堺屋は次のように語る。

御堂筋が車両通行止めとなったのは、昭和19年の「大観兵式」以来史上二度目だという。少々大袈裟にいえば、これには「歴史的な意味」がある。「車が走るための道」としか考えられなかったこの大道路が、行事イベントに利用されたことは、大阪の、そして日本の発想が、「モノを造ること第一主義から、知恵の値打ちを創ること優先に変わった」のを象徴する意味があるからである。(堺屋 1984: 27)

 このように楽観的な展望をひけらかす堺屋の語り口には、同時に不吉な予感が潜んでいることにすぐ気づくだろう。堺屋が言及する一度目のパレードは、アジア太平洋戦争中の1944年、戦意を高揚させるべく遂行された軍事パレードだったのだ。じっさい「大阪築城400年まつり」は、戦争と侵略の記憶とは無縁ではありえなかった。辛基秀・粕井宏之編『秀吉の侵略と大阪城』(第三書館, 1983)が指摘するように、現在の大阪城天守閣の景観は、「大東亜建設」の欲望に駆られた帝国日本がアジアの侵略へと乗り出していた最中の1931年に構築されたのであり、帝国主義のイデオロギーと分かちがたく結ばれていたのである5

 1983年の「大阪築城400年まつり」とは、まさにこの「350年まつり」の延長線上に位置づけられる。にもかかわらず、堺屋をはじめ「400年まつり」のプロモーターたちは、50年前に大阪城という景観が体現していた軍国主義の象徴性や、それを取り巻く土地の来歴になんら言及せず、反省を口にすることもなかった。「400年まつり」を起爆剤として展開した大阪ビジネスパークの開発は、かろうじて残された砲兵工廠の景観を破壊し、明るく清潔なオフィス空間へと塗り替えた。同じようにイベント・オリエンテッド・ポリシーは、世界都市・大阪に向け大阪城および秀吉を象徴として掲げるとともに、半世紀前の記憶を切断し、切り離したのである。

3.大阪世界帆船まつり——海のスペクタクルとグローバルな想像力

 このように大阪城が都市・大阪のアイデンティティを打ち立てるための象徴として祀り上げられたのに対し、大阪湾岸は「世界都市」としての先進性をアピールするためのイベントの舞台となった。冒頭で述べたように「イベント・オリエンテッド・ポリシー」とは「大都市開発のための行事誘導政策」であり、イメージ工学技術は都市開発のためにこそ動員される。なかでも開発の柱とされたのは、「ポート」という名をもつふたつの開発プロジェクトであった。ひとつは「エアポート」、すなわち94年に開港した関西国際空港。そしてもうひとつは、「テクノポート大阪」と呼ばれる開発プロジェクトであった。開発面積775ヘクタールというテクノポート大阪計画は、北米やアジアを含む環太平洋でみても飛びぬけて巨大な規模の開発プロジェクトだった(末尾の付録資料の表1を参照)。同計画は、産・官・学の研究開発、貿易機能、情報・通信機能、国際コンベンションやレクリエーション機能を詰め込んだ副都心を構築することを目的とし、その象徴となるべく「アジア太平洋トレードセンター(ATC)」および「大阪ワールドトレードセンター(WTC)」が建設された。とりわけ高さ256メートルを誇る超高層ビルWTCは世界都市・大阪の象徴となるはずだったが6、完成した95年にはすでにバブル崩壊のただ中にあり、2008年オリンピック誘致運動が失敗したころにはすでに無謀な開発を象徴する「負の遺産」と化した。

 埋立てによる解決?

 さて、湾岸開発におけるイベント・オリエンテッド・ポリシーの展開へと分け入るにあたって、まずは「テクノポート大阪」計画を大阪湾岸開発の歴史のなかに位置づけておきたい。大阪における人工島埋立ては、南港の造成からはじまった。木津川の河口部に立地していた木津川飛行場の移転用地を確保すべく1933年に開始された南港の造成は、しかし、飛行場の移転先が伊丹(現・伊丹空港)に確定することで飛行場計画が立ち消えとなり、さらにはアジア太平洋戦争の激化によって中断された。戦災を経た1958年に南港の造成は再開され、このとき想定されたのは重化学工業の用地確保であった。だが、石油コンビナートを建設する予定だったアラビア石油は64年に進出を断念し、重化学工化に伴う造成計画は頓挫した(林 2020)。しかし、いちど走り出した造成事業はとどまるどころか、それ以降に造成規模をいっそう拡大させていった。67年からは、コンテナ化に対応すべくコンテナターミナル建設が組み込まれ、また74年には人口約4万人の「南港ポートタウン」の建設が着手された。さらに79年の港湾計画改訂によって新たに「北港」の造成が計画され、都市的機能を中心とする土地を造成することが目指されたのである(図1)。

図1 テクノポート大阪計画 出典:大阪市港湾局『大阪築港100年——海からのまちづくり(下巻)』大阪市港湾局, 1999.

新たな都市機能を構築しようとする一連の開発をパッケージ化したのが、テクノポート大阪計画であった(大阪市港湾局 1999)。「北港」はふたつの人工島「北港北地区」および「北港南地区」で構成されるが、テクノポート大阪計画が進められていた最中の91年に、それぞれ「舞洲」「夢洲」と再命名された7。そしてこの夢洲こそ、2025年万博の開催地にほかならない。

 では、都市的機能を構築しようとする新たな人工島造成計画は、いかにして着手されたのか。これを考えるうえでまず注目すべきは、コンテナターミナル建設にあわせて都市機能を創出しようとする試みは、すでに神戸市が主導するポートアイランドの造成が先行的に展開していたことである(図2)。

図2 兵庫県と大阪府における海面埋立規模の推移(埋立免許・承認面積) 注:環境省「埋立免許・承認面積の状況」(https://www.env.go.jp/content/900514045.pdf)より筆者作成

神戸のポートアイランド計画は、陸上の不動産開発と海上の土地造成とをともに実現する「一石二鳥のプラン」(宮崎1993: 143)と称された。これに対し、神戸市に追随しようとする大阪市の人工島埋立て計画は「一石三鳥」を狙っていた。「三つ目」とはつまり、都市の廃棄物の埋立て処理である。高度経済成長を遂げた60年代にはすでに、都市経済が排出する廃棄物量は増加の一途をたどり、「待ったなし」の状況に陥っていた。このなかで、宅地等の開発で生じる残土と都市廃棄物とを組み合わせた埋立による人工島造成は、廃棄物の処分先の問題を一挙に解決し、新たな土地・不動産の造成をも可能にする画期的な方策とみなされたのである。だが、このような「埋立による解決」を批判する声は、その根本にある矛盾を見抜き、告発していた。「大阪湾問題——その保全と開発を考える」との特集を掲げた『瀬戸内海』(瀬戸内の環境を守る連絡会編, 1981)のなかで、西川栄一は大阪湾の埋立て開発の前提について、次のような疑義を投げかけている。

どの自治体も1955年以来の埋立開発で形成された人口、生産活動などが高度に集積した都市構造はそのまま存在するとし、加えてそれを出発点にして将来さらに一定の成長率で量的に増大していくと前提しているのである。このような量的拡大が何時まで可能なのだろうか。……〔自治体の意図する量的拡大構想は〕もし成功するとすれば、それはより一層の過密化を実現することになり、矛盾は拡大再生産されることになる。また環境改善の埋立というが、都市の環境悪化の元凶が過去の埋立開発にあることを思えば、新たな埋立計画は、いうならば埋立のつけをまた埋立で支払うことにほかならない。(西川 1981: 17-18)

 つまり都市廃棄物の埋め立てという方法は「矛盾の解決」というより先送りであり、いわば廃棄物問題の「空間的回避」であった。また、このような廃棄物問題の海上への押しつけと外部化は、第三世界への収奪、とりわけ「公害の輸出」と同型であることに気づくべきだろう8。要するに、国内で手にあまる公害産業を第三世界に移転させるのと同じように、海面は陸の都市で処理しきれなくなった廃棄物の処分先として見出されたのだ。そして、海面の埋め立てもまた、第三世界に対する収奪と同じような暴力をともなっていた。海面埋立事業は、すでに重化学工業化の時代から、汚染の拡大や漁業への打撃をもたらしてきた(梅川 1981: 31)。宇沢弘文が強調するように自然環境の特質とは不可逆性にあり、「ひとたび破壊ないしは汚損されたとき、元の状態に復元することは一般的に不可能であるか、あるいはたとえ可能であっても大きな費用、長い時間的経過を必要とする」(宇沢 1983: 6)。都市廃棄物の埋立による解決とは、海にかかわる生業の破壊や、都市による自然の無際限的な収奪を前提としていたのである。このような経緯を踏まえれば、2025年万博において夢洲の突貫工事によってメタンガス爆発の危険性が浮上したのも、当然の成り行きといわなければならない。そして、万博に対する批判は、危険な土地で万博を開催する無謀さへの批判をこえて、埋立により新たな土地を造成するという営みがもつ根源的な暴力へと向かわねばならないだろう。

 このような地盤のうえに新都心を建設しようとするテクノポート大阪計画は、大阪ビジネスパーク開発が大阪築城400年まつりを起爆剤としたのと同じように、大がかりなイベントを伴っていた。すなわち、築城400年まつりと同年に開催された「大阪世界帆船まつり」である。そしてこのイベントに対してもまた、ある重要なことがらが問われていたのである。

 大阪世界帆船まつりと新自由主義の暴力

 1983年10月22日、大阪湾上は世界各地から集められた大型帆船による海上パレードの舞台となった。同年11月1日まで開催されたこの「大阪世界帆船まつり」は、築城400年まつりを記念して開催され、チリ、コロンビア、インドネシア、メキシコ、ポーランド、ポルトガル、香港からの帆船が参加した。開催初日には市長や皇族、運輸大臣を招いたセレモニーが開催され、約500隻のヨットを引き連れて大阪湾を周航した帆船のパレードは、水上ショーや花火大会や船舶イルミネーションによって飾り立てられた。11日間の期間中には150万人の観客が集ったといわれる。

 世界各地から集められた帆船のなかでも最大の呼び物は、チリ海軍の練習船「エスメラルダ号」だった。世界帆船まつりの公式パンフレット『白鳥たちがやってくる』(図3)は、エスメラルダ号についてこう解説する。

図3 大阪世界帆船まつり公式ガイドブック表紙

「1952年にスペイン海軍練習船として建造され、‟ファン・デ・アウストリア“と呼ばれていたが、1954年にチリ海軍が購入した。‟エスメラルダ”(宝石のエメラルドの意味)と改名され、海軍練習船として活躍中。スペインの‟ファン・セバスチァン・エルカノ“とは姉妹船。最前部のマストに横帆、後3本に縦帆のある4檣バーカンティーンで、その優美な姿は世界中のファンの憧れの的」(大阪市港湾局 1983: 13)。このとき大阪湾の光景は、帆船の船体の美しさを演出し「夢とロマン」を想像させる場として演出された。

 だが、忘れてはならない。このように海の眺めに美しさを感じる感覚とは、社会的に構築された知覚にほかならない。1970年代までの港湾は、国内外から殺到する貨物の中枢であり、しかも貨物は港湾労働者の身体によって岸壁の倉庫に運ばれていた。港湾とは「労働の空間」だったのであり、流通を担う荷役労働者の群れ——しかもかれらは暴力的な環境のもと過酷な労働に従事していた——がひしめく空間だったのだ。しかし、60年代後半に世界各地の港湾を塗り替えた「コンテナ革命」は、物流を機械化するとともに荷役労働を不要化し、多数の労働者が仕事を失った。そして、物流の中枢は新たに建設されたコンテナターミナルに移転され、労働空間としての港湾はいわば「空白」の空間となった。そうした過程を経たのち、港湾は新たにウォーターフロント開発の標的となったのである。つまり「ウォーターフロント」という場所性が再発見され、赤煉瓦倉庫や「海の景観(seascape)」の審美性に注目が集まるようになったのは、港湾を「労働の空間」から「消費の空間」へと再編する過程を経てのことだった。そしてこのような知覚は、つい十数年前に同じ空間にひしめいた労働者の像をかき消してしまったのである。

 そればかりでなくエスメラルダ号については、グローバルな現実にかかわるもうひとつの重大な問いが潜んでいた。エスメラルダ号が日本を訪れるのはこれが初めてではなく、75年の沖縄海洋博の際に寄港していた。このとき、ひとりの抗議者はエスメラルダ号に火炎瓶を投げ入れた。またこの出来事を報じた新聞記事によると、同船は海洋博への寄港の直前に東京湾晴海ふ頭に寄港したが、このときラテンアメリカ共同委員会などは「チリ海軍はアジェンデ大統領をクーデターで倒したチリ軍事政権の立役者である」として入港に抗議していたという9。83年の大阪世界帆船まつりにおいても、全港湾をはじめとする港湾労働者組合は、エスメラルダ号寄港への抗議の意を表明した(辛・粕井 1983: 162)。抗議者たちは、エスメラルダ号の船体にちがう光景をみていたはずである。

 1973年9月11日、チリでアウグスト・ピノチェト将軍が起こした軍事クーデターにより、史上初めて自由選挙によって樹立されたサルバドール・アジェンデの社会主義政権は転覆された。クーデターにより政権を握ったピノチェトは憲法を停止させ、議会を解散させ、全国に非常事態を発令した。そうして1990年までつづく軍事独裁体制を構築したのである。アジェンデを支持した市民や社会運動や左翼的政治団体、貧困地区の診療所——これはアジェンデが構築した福祉制度の要だった(ドブレ 1973: 283-284)——を暴力的に弾圧し、破壊した。ピノチェト失脚後にチリ政府が作成した被害者についての調査報告書によると、独裁期間の「失踪」や処刑・拷問による死亡は3197件にものぼった。ただしアムネスティ・インターナショナルの調査は、じっさいの数はもっと多いはずだと指摘している。そしてなにより重要なことに——チリ政府は否定しているが——エスメラルダ号の船内は拘留・拷問センターとされ、凄惨な拷問のすえに虐殺された民もいたのである(Amnesty International 2003)。

 このようにエスメラルダ号の「優美な姿」を称賛する言説は、それが拷問船である事実や、その背景にある同時代のチリの現実を消し去ってしまった。海をつうじた交流を謳う世界帆船まつりは、じっさいには、グローバルな現実から人々の目を背けさせ、切断する場として機能したのである。ディズニーワールドのイメージ工学技術の至上命題は、テーマパークの空間を物語性で覆いつくすことであり、また、テーマパークの外側にひろがる現実をゲストの視野から消し去ることである。同じように都市のイメージ工学は、目の前の優美な船体に刻み込まれているはずの現実を遮断したのである。

 いま、私たちが注目しなくてはならないのは、こうして新自由主義が現実に台頭する最中にあって、しかしそれを認知することを妨げるような状況が、都市に生み出されていた事実である。というのも73年のピノチェトによるクーデターと独裁体制の構築は、新自由主義の最初の実験場であったのだ10。次から次に繰り広げられるイベントに喚起する人びとは、新自由主義の暴力によって世界が覆われていく現実を直視することなく、増殖するテーマパーク的世界に没入するよう促されていた。そのような意図を、「「パン」に満ち足りた中流階級は、より熱心に「サーカス」を求める」と言い放つ堺屋の言葉はあからさまに示している(堺屋 1984: 177)。

 さて、2025年万博の基本計画の筆頭に掲げられたのは「海と空を感じられる会場」である。いわく、「大阪・関西万博の会場は、四方を海に囲まれたロケーションを活かし、世界とつながる「海」と「空」が印象強く感じられるデザインとします」11。はたして藤本壮介をはじめとする会場デザインプロデューサーの目に、「海」に分厚く堆積する歴史やグローバルな現実は映っているのだろうか。

【後編につづく】


文献

石村義彦「大阪21世紀計画スタート——大阪築城400年まつりの意義と都市の活性化」都市問題研究35(9), 2-34, 1983.

宇沢弘文「環境破壊と費用便益分析」『公害研究』12(4), 2-7, 1983.

梅川勉「大阪湾岸の漁業の現状」『瀬戸内海』(瀬戸内の環境を守る連絡会編)11, 30-33, 1981.

大阪市港湾局『‘83大阪世界帆船まつり公式ガイドブック「白鳥たちがやってくる』

大阪港振興協会, 1983.大阪市港湾局『大阪築港100年——海からのまちづくり(下巻)』大阪市港湾局, 1999.

加藤政洋『大阪——都市の記憶を掘り起こす』筑摩書房, 2019.

コンスタンティーノ,レナト(津田守訳)『第二の侵略——東南アジアから見た日本』全生社, 1990.

堺屋太一『イベントオリエンテッドポリシー——楽しみの経済学』エヌジーエス, 1984.

辛基秀・粕井宏之編『秀吉の侵略と大阪城』第三書館, 1983.

ドブレ, レジス(代久二訳)『銃なき革命——アジェンデ大統領との論争的対話』風媒社, 1973

西川栄一「戦後大阪湾の埋立と開発」『瀬戸内海』(瀬戸内の環境を守る連絡会編)11, 12-18, 1981.

ハーヴェイ,デヴィッド(渡辺治ほか訳)『新自由主義——その歴史的展開と現在』作品社, 2007.

林昌宏『地方分権化と不確実性——多重行政化した港湾整備事業』吉田書店, 2020.

マコーミック,ガバン(松居弘道・松村博訳)『空虚な楽園——戦後日本の再検討』みすず書房, 1998.

宮崎辰雄『神戸を創る——港都五十年の都市経営』河出書房新社, 1993.

山崎正和・黒川紀章・上田篤編『都市の復権』河出書房新社, 1977.

Amnesty International, Chile Torture and The Naval Training Ship The “ESMERALDA”, Amnesty International, 26 June 2003.

Olds, Kris., Globalization and the production of new urban spaces: Pacific Rim megaprojects in the late 20th century, Environment and Planning A, 27, 1713-1743, 1995. 

Paul, E. Darel., World cities as hegemonic projects: the politics of global imagineering in Montreal, Political Geography 23, 571–596, 2004.

Sorkin, Michael ed. Variations on a Theme Park: The New American City and the End of Public Space, New York: Hill and Wang, 1992.Zukin, Sharon., The Cultures of Cities, Wiley-Blackwell, 1996.


表1 1990年代初頭の環太平洋地域の都市開発メガプロジェクト 出典:Olds(1993)をもとに筆者作成 注:ここに掲載したのは1993年当時に公表されていたか、進行中だったプロジェクトであり、すでに完了したプロジェクトは含まれない。

  1. シンポジウムのオルガナイザーは、山崎正和、黒川紀章、上田篤であった。その議論は、山崎正和ほか編『都市の復権』(河出書房新社, 1977)に収録されている。 ↩︎
  2. 例を挙げれば、「1970年代も後半になると、欧米でも「都市の復活」が見られるようになった。見捨てられたダウンタウンにビルが再開発され、新しい都心も生まれだした」(堺屋 1984: 86)との言葉は、堺屋がいちはやくジェントリフィケーションの効果に目をつけていたことを物語っているのである。 ↩︎
  3. ディズニーワールドの空間性は、1990年代以降の都市論においてテーマパーク的空間の増殖を批判的に考察するための中心主題として浮上した(Sorkin 1992; Zukin 1996; Paul 2004)。それらの研究が特に注目したのが、「イメージ工学」(imagineering)というキーワードだった。 ↩︎
  4. ここで思い出してほしいのは、大阪21世紀計画が始動した83年とは、横浜・寿町において少年たちによる「「浮浪者」襲撃殺害事件」が起きたその年だということだ。大阪においても、86年の四天王寺境内における野宿者襲撃、95年の「大阪・道頓堀川「ホームレス」襲撃事件」をはじめ、若者による襲撃・殺害が相次いでおこった。次章でくわしく述べるように、そのような暴力は、都市全体が博覧会場へと変容させられていく状況と無関係ではない。なお野宿者襲撃の詳細については「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」を参照のこと(http://hc-net.org/about/history/)。 ↩︎
  5. 辛基秀によれば、秀吉の伝記である「太閤記」は江戸期において浄瑠璃や歌舞伎の演目として上演されていたが、徳川幕府はこれを歓迎しなかった。ところが明治新政府の時代に入ると状況は一転し、秀吉は「国民的英雄」へと祀り上げられ、小学校唱歌に謳われるまでになった。その背景にあったのは、秀吉の朝鮮出兵と重ね合わせて朝鮮半島への侵略への熱狂を沸き上がらせようとする、明治政府の企図であった(辛・粕井 1993: 94-98)。このなかで大阪城天守閣の景観は、帝国主義が拡張するほどに象徴性を高めていった。天守閣再建事業は1928年の「御大礼記念事業」、つまり昭和天皇の即位記念事業として始動され、31年11月に完成した。31年に竣工式が開催されたのはまさに日本軍が中国大陸侵略へと突き進んでいく最中の時期だったのであり、天守閣竣工の祝賀を報じた朝日新聞は、その5日前の紙面にて見開きの「満蒙及支那本土大地図」を大々的に掲載し戦意を煽った。さらに、アジア太平洋戦争へと突き進んだ最中の1942年には「築城350年」を記念する祝賀が開催された。その名称は「マニラ陥落豊太閤奉告祭」とされ、大手前広場は約2万人の群衆で埋め尽くされたのだという。その名称が示すとおり「350年まつり」は、42年1月2日に日本帝国がマニラを占領した直後に開催されたのである。毎日新聞は秀吉そして天守閣の象徴性を強調しつつ「一億国民は公の気宇に学び、世界民族指導者たるの大国民を完成し、皇運の無窮、国基の盤石を翼賛せんことを期す」と報じたのである(辛・粕井 1993)。 ↩︎
  6. この大阪ワールドトレードセンターと競り合うようにして建設されたのが、関西国際空港の足元に建設された「りんくうタワー」(高さ256m)であった。なお、大阪市が主導するWTC建設事業は「日本一の高さ」の称号を手に入れるべく、95年に予算を積み増して高さを252mから256mへと変更した経緯がある。 ↩︎
  7. 「場所の精神」に誰よりもこだわってきた加藤政洋は、90年代開発の特徴として名づけの「珍妙さ」と開発地の「空虚さ」を見いだしている(加藤 2019)。土地の来歴や場所の精神に無関心な名づけは、没場所的というより、金融的であるというべきかもしれない。金融資本すなわち「擬制資本」が都市を支配する原理へと昇りつめたのに呼応して、土地や施設の名づけもまた擬制的なものになったのだろう。 ↩︎
  8. レトナ・コンスタンティーノ『第二の侵略』(全生社, 1990)によれば、戦後の日本は、戦前よりずっと巧みな方法で侵略の地図を展開しているのだという。典型的には日本による賠償問題の処理方法は、かつて侵略した地にふたたび侵出するための基盤形成に分かちがたく結びつけられていた。また、朝鮮戦争およびベトナム戦争を契機として、日本は共産主義の防波堤としての地政学的地位を確立すると同時に、戦争「特需」を糧にした経済成長を実現してきた。コンスタンティーノは「第二の侵略」における植民地主義の様態を、「二重の略奪」と呼ぶ。第一に、日本経済は、機械を動かすための原料や資源の供給地として、また国内の労働力を再生産するための食糧生産地として、第三世界の国々を経済的に従わせている。第二に日本経済は、大量に生産した商品を売りさばくためのはけ口を必要とし、同じ第三世界の国々を消費市場として組み込んでいる。「こうして価値の二重収奪が達成される。まず原料を低価格で買い、次いで完成品を高い価格で売ることによってである」(コンスタンティーノ1990: 46)。しかも低価格で買われるのが原料だけではない。第三世界をサプライチェーンに組み込むことにより、地元の住民は安価な労働力として動員され、搾取されるのだ。
     さらに重要なことに、この「二重の収奪」は、第三、第四の収奪を連鎖的に生み出していた。たとえば、「公害の輸出」である。汚染のひどさゆえに国内では維持できなくなった「環境汚染産業」は、第三世界に移転先を求め存続してきたのである。最後に、そしてもっとも重要なことに、日本経済が第三世界の国々に原材料や食料の供給を依存すればするほど、あるいは「グローバルな組立てライン」のネットワークを拡大していけばいくほど、「シーレーンの防衛」という命題が台頭していった。たとえばマラッカ海峡は「日本の全輸入量の40%と石油の輸入量の80%が通貨」し、かつこの地域は「土地と鉱物資源に飢えている日本にとって、潜在的な‟米びつ”であり、‟米金脈”」である(コンスタンティーノ 1990: 43-33)。日本の経済成長にとってこれらの地域の「権益確保」はまさに命綱であり、この命綱を守るという名目のもと軍備増強の声が力を増していく。つまり、第三世界に収奪のネットワークを張り巡らせながら実現された日本の「平和と成長」は——その反動ではなく——その論理の行き着く先に、ふたたび「軍事的なもの」を回帰させようとしているのである。コンスタンティーノが告発したのは、こうした新しい植民地主義と論理であり、また軍事主義の台頭であった。じっさいこの傾向は、戦中の「侵略」を「侵出」と書き換えようとした82年の教科書問題や、同じ年に登場した中曽根政権による軍拡路線によって、はっきり輪郭を現わしていたのである。 ↩︎
  9. 『朝日新聞』1975年7月23日夕刊。 ↩︎
  10. ピノチェトによる軍事クーデターは、ラテンアメリカからの社会主義勢力の一掃を狙うアメリカCIAが全面的に支援することで実現した。さらに、クーデター後にミルトン・フリードマンとその教え子たちはチリの政権の中枢に迎え入れられ、市場原理主義や自由貿易の促進、社会保障の私営化などを旨とする一連の改革を実行した。その結果としてチリは、フリードマンらが「チリの奇跡」と自画自賛する経済成長を遂げた一方で、貧富の差は劇的に拡大したのだった。このチリにおける軍事クーデターとならぶ同時代の実験場はニューヨーク市で、70年代の財政危機ののち同市の都市政策は公的部門をずたずたに切り裂きながら「都市再生」事業へと傾いていった。そして、チリやニューヨークでの「実験結果」から確信を得たレーガンやサッチャーは、80年代に新自由主義的政策の実行に乗り出した。同時期に登場した中曽根政権もまた、新自由主義のプログラムを始動させ、レーガンやサッチャーとともにやがて新自由主義が世界を席巻する端緒を切り開いたのだった(ハーヴェイ 2007)。 ↩︎
  11. 公益社団法人2025年日本国際博覧会協会「2025年日本国際博覧会(略称「大阪・関西万博」)基本計画」, 2020年12月(https://www.expo2025.or.jp/overview/masterplan/↩︎

著者紹介

原口 剛(はらぐち・たけし)

神戸大学大学院人文学研究科教授、専門は都市社会地理学および都市論。著書に『叫びの都市――寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』(洛北出版)、『惑星都市理論』(共著、以文社)、『釜ヶ崎のススメ』(共著、洛北出版)など、訳書にニール・スミス『ジェントリフィケーションと報復都市――新たなる都市のフロンティア』(ミネルヴァ書房)、ロレッタ・リーズほか『ジェントリフィケーション入門』(共訳、ミネルヴァ書房、近刊)がある。