D・グレーバー『官僚制のユートピア』訳者あとがき

酒井隆史


本書は、以下のような悩みをお抱えの方に、うってつけである。

 

・世の中は、規制はいらないとか、自由化だとか、官僚制の弊害だ、役人を減らせ、だとか、あいかわらず呼号されています。それに、そういうことをいうと、あいかわらず政治家も人気があがります。でも、世の中がそういう雰囲気になればなるほど、実際には、どこもかしこも規則とか規制だらけになっていくような気がしてなりません。しかも、規則の「遵守」——コンプライアンスですか?——もいろんな場面で以前よりもうるさくなっているし、なんにつけても融通がききません。こういうのをちょっと前までは「お役所仕事」といっていたのではないでしょうか? そもそも、その時代のほうが、まだ融通がきいたようにおもえるのはわたしだけでしょうか。それに、なにをするにもめんどうな手順が増えました。それだけでなく、悩ましいのは、作成しなければならない書類がとんでもなく増えていることです。気のせいか、役人というか官僚も相変わらずいばってる、というか、あんまり変わっていないようにもみえます。いわれていることと実際におこっていることが、あまりに違っているようにおもうのです。これは、被害妄想でしょうか。


・コンピュータが導入されて、合理化で業務の簡素化もすすんでいるといわれています。ペーパーレスの時代ともいわれています。ところが、実際に、そういう名目で、たとえばウェブ上でのあたらしい手続きの方法が導入されると、どうしても、以前よりも、ややこしくなっている気がしてなりません。わたしの、気のせいでしょうか? たとえば、むかしだったら出張するときでも、書類一枚書いて会計に提出すればよかったのですが、いまでは、ウェブ上で旅費を所定のアプリで調べ、それを書き込み、旅先の宿泊施設の費用をホテルのHPで確認できるアドレスまで添付し、さらにある部署にいって承認をしてもらい、最後にその書類をようやく会計に提出するのです。しかも、わたしが苦手なせいもありますが、そのコンピュータ上の処理がとんでもなくややこしく、一度たりともすんなりいったことがありません。おそらく「簡素化」以前と比較して、少なくともわたしは、ひとつの書類提出に10倍の時間はかかっているように体感しております。そもそも、パソコンで作成した書類も結局、プリントアウトして、印鑑を押して、提出させられたりして、結局、そこは前と変わらないどころか、むしろめんどうな過程が増えているし、それに、いっこうにペーパーレスもすすんでいるようにおもえません。それどこか、ペーパーは増殖していくいっぽうです。いまでは、コンピュータによる合理化とか簡素化といわれると反射的にぞっと寒気が走るようになりました。心身にどこか、疾患があるのでしょうか。


・現代はテクノロジーの発展がすごいといわれています。それがどうしても信じられないのです。というのも、ちょっと前まで、2001年ごろには宇宙旅行ができてる感じじゃなかったですか? 宇宙ステーションもないし、それをコントロールしている感情をもったロボットもいません。空飛ぶ自動車も飛んでいないし、それどころか飛行機はいつのまにか音速を超えなくなってしまいました。ということは、人類の経験する速度はむしろ減速しているのではないでしょうか。癌もハゲも、あるいは風邪すらも、特効薬がまだあらわれません。タケコプターとはいいませんが、それに近いものすらないのはどういうわけでしょう。それなのに、パソコンがキーボードなしにタッチで操作できるとか、新発売の携帯電話のディスプレイが広くなって余白がなくなったとか、曲がるとか、付属カメラのレンズが二つになったとかで大騒ぎしているのが、どうしてもバカバカしくおもえてしまいます。こんなじぶんは、誇大妄想のひねくれものなのでしょうか。


・この世界に不必要なことをしているとしかみえない、なにをやって暮らしているのかもよくわからない、金儲けのために法を犯したらしい「元犯罪者」の起業家が、マスコミでやたらとえらそうにしているのが、わかりません。いっぽうで、この世界にとってだれもが必要としているようにみえる仕事——たとえば保母さん保父さんのような——をしているひとたちがいます。ところが、この不必要なことをしているようにしかみえないひとは、必要とされていることをしているひとたちよりも大金を稼ぎ、しかもその大事な仕事をさげすむようなことをいいます。とても不条理におもえます。じぶんは、時代遅れなのでしょうか。


・コラボやグループワーク、プレゼン、自己点検、自己評価などなどで、「想像力」を養い、「創発性」なるものを促進し、ときに「生きる力」などというものをつけさせると、いわれています。ところが、ミーティングも課題も拘束時間も、そしてペーパーワークもやたらと増え、だれもが疲弊しているようにみえます。まったく効果がないどころか、そうした「想像力」とか「創発性」のようなものを、封殺してまわっているようにしかおもえません。こういうものが導入されるや、日に日にみんなの顔が浮かなくなっていくようにみえて仕方がないのです。しかし、こういうものを考案して導入させるエリートたちが、まさか、アホにもわかりそうなそんな矛盾に気づかないことがあるでしょうか? やっぱり、現場のわれわれの無能が問題なのでしょうか。


・どうしても書類書きが苦手です。じぶんは、決してそれを望んだわけではありません。むしろ、そういう仕事がいやだからこそ、「クリエイティヴ」が売りの仕事に就いたはずなのです。なのに、なぜこう事務仕事が増えるのか、毎日が苦痛で仕方がありません。そのせいか、注意しているつもりですが、締め切りは忘れる、日時はまちがえる、数字がちがっている、といったことで叱責される日々です。他のみなさんも、おなじ境遇なのに、スマートに対応しているようにみえるため、ますます、自己嫌悪がつのります。これほどの愚か者もあまりいないにちがいありません。この世に、わたしの居場所はないのでしょうか。


・なにかイベントのあとに、いつのまにか、ゴミを拾うのがやたらともてはやされるようになりました。これが日本人の美徳だとも、いわれます。しかし、わたしはそれをみるたびに、ぞっとします。そういう「いいひと」は、なにかあると、おそろしいとおもうのです。こういう現象の背景には、たぶん、ひとに迷惑をかけてはいけないとか、ルールを守ることがなにより大事だというひとが増えていることがあるのではないでしょうか。そういうひとが増えていることにも、なにやらおそろしくなってしまいます。わたしは、心が汚れているのでしょうか。

 

こういう悩みを、本書が、解決してくれるわけではない。しかし、それは決して、あなたの責任ではないことは、雄弁に語ってくれるはずである。


 本書は、David Graeber, The Utopia of Rules: On Technology, Stupidity, and the Secret Joy of Bureaucracy, Melville House, 2015の全訳である。
 予告されながら延び延びになっている、マーシャル・サーリンズとの共著『王たちについて(On Kings)』がいまだ刊行されていない[現在すでに公刊されている。以文社より近刊予定]ので、2017年10月の現時点での最近著となる。


 著者を一躍「国際的ブレイク」にみちびき、また、本人いわく、イングランド銀行の貨幣史認識も一変させた——かもしれない——ほどアカデミズムを超えて話題を呼んだ『負債論』から一転、本作は主要に現代を対象に、ラフで、手がかりにとりあげる素材も多種多様、だが、わたしたちの日常のなかの、だれも相手にしようとしない「つまらない」、しかし、そこにこそわたしたちの世界を解き明かす核心のひそむ「灰色」で覆われた領域を、劇的におもしろく、かつ、おそらく、同時代のほとんどだれよりも深くえぐりだしてみせた。

 原題をそのまま日本語にするならば、『規則のユートピア——テクノロジー、愚かさ、官僚制の秘かな愉しみについて』になる。そのままでは、日本語圏の読者には内容が伝わりにくいこともあり、メインタイトルについては韓国語訳を参照して『官僚制のユートピア』(仏語訳は『官僚制』である)に変更した。それにあわせて、サブタイトルも本書中のキーワードを利用して手を加えている。

 いつものように、各頁であざやかな常識転覆をみせてくれる本書を読むならば、かれのこのスタイルの独自性をかたちづくる要因が、その問いの立て方にあることが感じられる。いわないお約束になっていることに——正確にいえば、なんとなくだれもが黙従していることに——あらためて問いを立ててみせることで、ただよう空気の色合いそのものを一変させ、わたしたちの当のふるまい自身を解明すべき謎に変えてみせるのである。

 たとえば「空飛ぶ自動車」がなぜまだSFのままなのかという問いは、おそらく、多数のひとの意表をつくものであろう。訳者自身も、第二章のオリジナル論文については本書公刊以前に読んで、その意表をついた問いと常識転覆的な応答に、一読して仰天した。ソヴィエト連邦の数々のたいてい失敗に終わった壮大なプロジェクトを、テクノロジーという視点から「再評価」するなどという発想は、それまで寡聞にして聞いたことがない。しかもそれを、反官僚主義的「想像力」を世界の根源に位置づけるアナキズム的視点からやってみせるのである。

 おそらく、グレーバーがここであげているいくつかの理由——予測のペースが速すぎた、非現実的であったなど——をあいまいに混合させたまま、ほとんどのひとが、現在の「テクノロジーの驚異」なるものを、なんとなくそういうものだとみているのだろう。そこにグレーバーは、過去からの人間のまなざしを導入し、そのまなざしに託しながら、わたしたちの日常に根づいたゲームを根源的に揺さぶってみせるのである。「世界のどこでも超高速でアクセスできる図書館と郵便局とメールオーダーのカタログの合体にすぎないものを、きみたちはもてはやしているのか」。

 現在のまどろみから覚めたまなざしで提示された、このいわば「過去からの」問いから、資本主義あるいは資本主義的市場とテクノロジーの関係、あまりに自明化された資本主義とイノベーションのかたいむすびつきが断ち切られる。資本主義は、その本性からテクノロジーの発達やイノベーションとむすびついているわけではない。それどころか、資本主義は官僚制と必然的にむすびつくことで、イノベーションをひんぱんに封殺する。こうして、大戦直後からはじまった、官僚制化された資本主義のもとでのテクノロジーの展開の抑圧、より正確には、「詩的テクノロジー」の官僚制的テクノロジーへの従属の過程は、現在のわたしたちのネオリベラル資本主義にいたって頂点に達するとみなされるのである(ここには、イノベーションと資本主義という論点に対して興味深い視点が提示されている)。

 もう一点、本書もやはり、グレーバーの思考の顕著な特徴をなしている「両義性」に充ちていることは指摘しておきたい。原題のサブタイトルに「官僚制の秘かな愉しみ」とあるように、本書は第三章にいたって、わたしたちがひそかに抱いている官僚制への愛情にたどりついている。すなわち、ここで官僚制という現象は、ゲームとプレイの振動——それにしてもこの区分から、わたしたちがいま遭遇する相当の現象の意味がみえてこないだろうか——という両義的場面にまで突きつめられ、この地点で、再構築すべき官僚制批判の出発点が示されるのである。

 このかん『負債論』についての反応のなかで、誤解とおもわれるものの大半が、この両義性につまずいたものだった。だが、グレーバーの読書において欠かすことのできない態度が、この両義性につきあうことである。そして、その読書の経験は、日々「両義性」への感性を摩耗されているなかで、わたしたちの思考を鍛えてくれるはずである。その意味で、グレーバーのテキストは、「人類学的思考」の醍醐味を、今日、親しみやすいかたちで、もっともよく示すものであるともいえるだろう。

 上下左右、どこをみても「秩序派」的感性に浸食され、増殖する規則によってありとあらゆる時空間が埋め尽くされていく日本社会が、規則のユートピア、官僚制のユートピアとしては、世界の先端を走っているのはまちがいない。もともと、マクロには、近代化以来(あるいはもしかすると幕藩体制以来)の独特の強力な官僚制、ミクロには、既存秩序への服従の表明以外の意味をほとんどもたない無内容な規則へのフェティシュ——たとえば校則——のあったところに、「全面的官僚制化」の波が押し寄せてきたのである。そのおそるべき帰結を、いまわたしたちは経験しているわけだ。

 しかし、わたしたちの悩みは、世界の悩みでもある。本書を読むならば、日本社会が決して特別におかしくて、世界から孤立しているわけではないことがわかるはずだ。「左派」が「官僚制の最悪の要素と資本主義の最悪の要素の悪夢のごとき混合物」しか想像できず、的を外してはいるものの、それでも右派が「官僚制批判」を旗印にし、革新のイメージを独占しつつあるのもおなじである。あるいは、世界的な再起の努力や再興の機運をものともせず、いまさらの「リベラル化」の果てに消失しかけているというところは少し異なるかもしれない。このことは、人びとの日常からの反官僚制的エートスの消滅の傾向や、反官僚制的エートスやその倫理、あるいは論理を自覚的に保持したり発展させたりする領域の、これもまた消滅の傾向が、日本社会ではとりわけ徹底しているようにみえることと相関しているかもしれない。日本社会における「全面的官僚制化」の具体的様相については、今後の探求が必要だろうが、いずれにしても、本書は、官僚制批判の再開という、わたしたちにとっても切迫した課題をも示唆するものである。

 そうした状況介入的な意味をおいても、本書は、現代の数少ない官僚制論として、その「数少ない」という事態もふくめて説明してみせた、傑出した研究書であり、また、歴史を通してみても、数ある官僚制論のなかで、その洞察と根源的な批評性において、きわだってすぐれた仕事のひとつであるといえよう。

 『負債論』が、その広大なスケールと高密度の記述、そして、そのひらめくような発想と挿話の積み重ねもあいまって、「明快であるが困難」といったおもむきの特異な厄介さをもっていたのに対して、本書についてはそういうことはないとおもう。したがって、ここでは解説のようなものは、これ以上つけくわえない。とにかく読んでみて、愉しんで、刺激を受けたなら、そこからあれこれ考えて、思考や行動にとって使えるとおもったら役立ててほしい。

 

[以下は本書でご確認ください。ウェブページで公開するにあたり、一部内容に改変を加えてあります(訳者)]。

官僚制のユートピア
テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則


デヴィッド・グレーバー(酒井隆史 訳)

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