『パラサイト』はなぜ社会的不平等を描いた映画ではないのか
──
神の建築とクレイジーキルト

 

 

 

デヴィッド・グレーバー&ニカ・ドゥブロフスキー
(片岡大右訳)

『パラサイト 半地下の家族』Blu-ray&DVD発売中/発売・販売元:バップ
Ⓒ2019 CJ ENM CORPORATION, BARUNSON E&A ALL RIGHTS RESERVED

 

批判、構造、希望──訳者まえがき

 

 以下に読まれるのは、デヴィッド・グレーバーとニカ・ドゥブロフスキーによる映画『パラサイト』(ポン・ジュノ監督、2019年)のレヴューの日本語訳である。段落分けは訳者と編集部の判断で原文よりも増やしている。タイトル(原文は無題)と見出しは訳者による。

 

 ニューヨークを拠点とする文芸誌『n+1』への寄稿として執筆された本稿は、コロナ禍の余波で掲載の目処が立たないために、著者らによって「みんなの人類学」のページ中に、PDFのかたちで先行公開されることになったものだ。

 「みんなの人類学」とは、アーティストやクリエーター向けのクラウドファンディング・プラットフォーム「Patreon」上に2人が開設したページで、この人類学者とアーティストのカップルが行う様々な共同作業の成果が無料公開されているけれども、有志はパトロンとなって、月極の支払いによって彼らの試みを支援することができる。ご関心の向きはぜひ支援の輪に加わっていただきたい。訳者自身は月5米ドルの支払いによって、彼らから〈そうする必要もないのにわたしたちを助けてくれる素晴らしいひと〉の称号を得ている。

 

 映画評の話題に戻ろう。「『パラサイト』はそれ自体が驚くべき建築作品であり、独特のあり方で実に美しい」──このように述べることでポン・ジュノ作品の傑作性を認めつつも、著者らはそこにいっさいの希望が見出だせない事実に不満げな様子だ。そしてこのレヴューは、この希望の不在という事実から出発しつつ、「批判」(criticism、もちろん「批評」と訳すこともできる)の役割をめぐる啓発的な考察を展開している点で、優れた映画評の枠にとどまらない意義を持っていると言える。

 

 批判はしばしば、何らかの全体的な構造の析出と結びつけられる。個々の事象の表面にとどまることなく、その基盤をなす大きな枠組みを露呈させること。たしかにそれは、批判の重要な役割のひとつだろう。それでは、本稿が『パラサイト』を「社会批判の外見」を持つにすぎないと論じるのは、構造の把握が不十分だということを意味しているのだろうか。そうではない。むしろ著者らは、この映画がすべてを厳格に構造に従わせすぎていること、そのため登場人物に自律的な──構造から相対的に独立の──行動の余地をまったく残していないことをもって、批判の不足とみなしている。

 

 批判は、単なる構造の暴露にとどまっていることはできない。批判にはまた、堅固なものに見える構造のそこここに余白や空隙を探り当て、人びとが自律性を発揮することで新しい何かを生み出していけることを──つまり希望の現実性を──示唆することができる。そのとき、わたしたちが生きる社会は、緊密に設計された単一の構築物というよりも、多様な人びとの声が織りなす乱雑で、豊かで、自由なクレイジーキルトのような何かに見えてくるだろう。

 

 『パラサイト』におけるポン・ジュノの発想は、ほとんど正反対のもののように思われる。自由で創意に満ちたもののように見えた貧しい一家の企みが、結局は彼らを既定の役割へと押し戻すことで終わるこの作品の展開が、グレーバーとドゥブロフスキーにとって残念なものに感じられたのは無理もない。

 

 もちろん、2人の著者が認めているように、このことは『パラサイト』の傑作性を必ずしも損なうものではない。それにまた、この映画がいかに登場人物たちの行動を厳格な構造に従属させているのかを様々な細部に即して指摘する本稿は、「驚くべき建築作品」としての同作を愛する人びとにとっても大いに啓発的なものであるはずだ。単に一本の映画評として考えても、著者らの最終的な評価への同意・不同意を越えて、広く読まれるに値するレヴューだと思う。

 

 なお、単一の構造に還元されないものとして社会をとらえるという本稿の立場が、デヴィッド・グレーバーの全仕事を一貫して支える立脚点であることを指摘しておこう。日本語訳が刊行されたばかりの『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)でも、資本主義は「全体化するシステム」ではないという最初期からの観点が改めて強調されている(この点については、本稿の訳者の「未来を開く――デヴィッド・グレーバーを読む」『群像』2020年9月号を併せて参照されたい)。

 

2020年7月31日 片岡大右

 

建築家という神

 映画批評家たちは満場一致で、ポン・ジュノの2019年作品『パラサイト』を社会的不平等をめぐる見事な省察として受け止めているように見える。彼らは間違っている。これは社会的不平等をめぐる映画ではない。いや、そうではあるのだけれど、それはほとんど二次的なことでしかない。『パラサイト』は神学的な映画だ。ただしそれが基盤とする宗教は、基本的に監督自身によってつくり出されたもので、わたしたちを見捨てたある神に関わっている。

 この映画のなかで、神の位置を占めるのはひとりの建築家だ。この建築家の設計した邸宅に、裕福な一家が住んでいる。完璧で、広々とした、光にあふれ、神的な邸宅。わたしたちが古い白黒写真に写る建築家の顔を見るのは一瞬のことにすぎないけれど、彼の存在は映画全体を通して感じられる。

 この映画は、2つの建築的平面において展開される。この2つの平面を、登場人物たちは果てしない階段を伝って行き来する。ほとんどつねに、貧しい人びとは降りて行く。豊かな人びとは上って行く。

『パラサイト』Blu-ray、フランス版(左)とイタリア版(右)の限定スチールブック(写真提供:訳者)

 

社会批判の映画?

 『パラサイト』というタイトルの両義性は、冒頭から明らかにされている。映画が始まるとすぐ、わたしたちは「半地下」に住む一家に出会う。Wi-Fiから遮断されたばかりのこの一家は、貧しいながらも愉快な愛すべき人びとであるように見える。そしてその直後、文字通りのパラサイト、つまり一種の虫が映し出されるのだ。それに先立ち、彼らの住む猥雑な界隈の道路を燻蒸消毒するために、害虫駆除業者が姿を見せていた。一家の父は息子に、窓に近づかないようにと指示する。そうすれば無料で、自分たちの住まいに寄生する虫たちを殺してもらえるというわけだ。ところがその結果、家族全員がガスを浴びてむせてしまうことになる。これはつまり、父親はまだ気づいていないけれど、彼とその家族もまた、ほんとうのパラサイトだということだ。彼はまだ、自分たちがすでに地獄にいることを知らない。映画が進むにつれ、この事実に目をつむることはできなくなっていく。

 こうした指摘から出発して、多くのひとがそうしているように、『パラサイト』を資本主義社会に向けられた社会批判の試みとして分析することもできるだろう。恐るべき──とは言え潜在的には覆すこともできる──経済条件がいかにして人びとを分断し、2つの異なった生物分類のように見える何かに仕立て上げて、ある人びとをゴキブリに変える一方で、他の人びと(建築家の天上的な創作物のうちに住まう作中の一家のような)には神々のごとき生活を送ることを許すのか。この作品を、こうしたことを物語るものとみなすこともできるわけだ。

 けれども繰り返すなら、このような分析は正確なものとは言えない。この映画は、単に類似性を示唆する以上のことをしている。登場人物たちはそこで、神々と虫たちにほんとうになったかのように扱われるのだ。もっとも、並外れて卑しい虫たちであり、このうえなく哀れな神々ではあるけれども。

 冒頭に出てくるパラサイトは、「stink beetle」(ニオイムシ)と呼ばれる。匂いの主題は以後も映画を通して繰り返し現れるが、匂いを嗅ぐのはつねに金持ちの側だ。彼らは貧しい側の誰かの何かを嗅いで、それを耐えがたく、不快で、気味悪く感じずにはいない。さらにのち、富裕な一家の父が虐殺のさなかに立ち止まり、貧しい一家の〔訳注:実際には後出の「幽霊」の〕匂いを不快そうに嗅ぐまさにその時に、貧しい一家の父はついに平静を失い、彼を殺してしまう。

 

希望の不在

 映画のプロットは表向き、貧しい一家の計画的な策略をめぐるものだ。彼らは一連の策略を通して、富裕な一家の使用人として職を得ていく。けれどもこのプロットの展開は、より大きな文脈のなかに置かれている。貧しい人びとが入り込むのを受け、状況に「強いられて」、誰が天界入りを許され誰が追い出されるのかの判断を下すのは、つねに金持ちの側なのだ。

 彼らは神のように見える。下層に身を置く人びとから見るなら、彼らはたしかに神である。けれども彼らが神であるのはまったく、自分たちの周りで起こっていることにほとんど何も気付かないという完全な無能力ゆえのことだ。おそらく最も印象的なのは、この邸宅の照明がもう何年も前から点滅によってモールス信号を発していたのに、誰も気付かなかったという事実だろう。

 こうしたすべては、表面的には社会批判の外見を持つ。それに監督はどうやら、彼が観客に提示する社会のありさまを、それほど喜んでいるようには見えない。けれども、この作品の成果を厳密に「批判的」なものだと考えるのは難しい。批判とは結局のところ、物事が今とは別のかたちで組織されてもいいのかもしれない、という可能性を示唆するものだ。そこから転じて、現在の秩序はある意味で間違っている、という意識が生まれる。現在の秩序は変えられる、と思わないのであれば、批判といっても虫に文句をぶつけるのと同じようなものだろう。

 世の中のありさまをこんなにも完全に自然なものとして描き出す映画は、結局は反動的なメッセージを送ることしかできない。じっさい、これこそはまさに、この映画がやっていることだ。ここにはまったく希望がない。貧しい者たちは決まって裏切りあい、金持ちの厚意を得ようとする。虐げられた者たちのあいだの連帯の呼びかけは、つねに退けられてしまう。人間性がわずかにきらめくとしても、それは嘲られるか、はねつけられるか、何の役にも立たないか──さもなければ、ひどい暴力によって罰せられて終わる。

 

空間的な決定論

 この作品はほんとうのところ、人間を描いた映画ではまったくないのだとさえ言えるかもしれない。いずれにせよ、人間的基準に即して判断を下されうるような生き物を描いた映画ではないだろう(繰り返しになるけれど、ひとはゴキブリに対して道徳的判断を下したりはしない。あるいは幽霊に対してだってそうだ)。これは結局、建築構造(アーキテクチャー)をめぐる映画なのだ。プロットの建築構造、という意味でも、住人たちがそのなかを動き回る物理的構築物、という意味でも。

 後者の意味での建築物、つまり富裕な一家の美しい邸宅と貧しい一家の古びたスラムは、対抗関係に置かれた二つの存在として一対をなすのではなく、単一の迷路として提示される。この単一の迷路のなかを、人びとは決まったやり方で動き回るようプログラムされている。上と下に。光と闇のなかで。それは連結部や窓を穿たれ、異なった匂い、異なった階層を備えた、単一にして複雑な宇宙だ。そのため空間と空間はここで、人間関係におけるようなまったくの内密さをもって結びついている。

 この作品では、人間相互の関係はそれほど内密なものではない。ところが登場人物たちは、空間とのあいだにはこうした内密な関係を取り結んでいる。この映画の主題のひとつは、いかにして空間が、また物質が(物語の主要キャラクターのひとつは、文字通りの石である)、人間の運命を決めてしまうのかを示すことであるようだ。こうしてこの作品では、誰も──登場人物はもちろん、たぶんわたしたち人間は誰も──、特定の空間構造のなかに住うことで自分の内側にすでに構築されてしまった役割から、逃れ去ることはできないのだということが、示唆されるに至る。誰かを天国に、別の誰かを地獄に置くのもまた、この空間構造である。

『パラサイト 半地下の家族』Blu-ray&DVD発売中/発売・販売元:バップ
Ⓒ2019 CJ ENM CORPORATION, BARUNSON E&A ALL RIGHTS RESERVED

 ピエール・ブルデューの仕事のテーマのひとつは、わたしたち人間が活動に際して用いる象徴的コード、何が正しく何が適切なのかをめぐる直感、あまりに深いところで自分の一部となっているのでその存在を意識することさえないようなあらゆる習慣や感情が、おおむね、空間の内部を動き回る一連のプロセスを通して内面化されているということだ。あるいはより正確に言えば、同じ文化的性向を厳密に共有する人びとによって生み出された空間の建築構造の内部を経巡ることで、そうしたすべては内面化されていく。

 中世の大聖堂のなかを歩くことは、ひとつの宇宙論全体を吸収することだ。そのような宇宙論がそこにあるなどとは決して意識することなく、ひとは頂上と底辺、許容されるものと不可能なもの、わたしたちが望む空間とわたしたちを恐れさせる空間についての感覚を身につけていく。伝統的なアルジェリアの家屋のなかを歩くことは、一連の象徴的図式をわがものとすることだ。上下や乾湿、冷熱や男女の対立……。こうした一連の対立図式が、「乾き」と「湿り」の観念それ自体と同じくらいに自然なものとみなされていく。

 わたしたちはみな、象徴をめぐる何らかの性向から逃れることはできない。豊かな者と貧しい者は実に異なった性向を備えている。これこそは、豊かな者が豊かであり続け(彼らは自分たちの同類に囲まれていると居心地よく感じるので)、貧しい者が、たとえ金や好機にありついた場合にさえ、決まって欠乏を抱えた状況に立ち返ることの主な理由のひとつだ。『パラサイト』では、階級と機会獲得に関するこうした空間的決定の論理が、このうえなく厳格なものとなっている。

 

虫たちだけの宇宙

 最初のうちは、わたしたちは風俗喜劇の定番キャラクターを見ているような気持ちにさせられる。勤勉な一家と陽気な父、抜け目ない主婦、芸術家肌の妹、あれこれと気を配る息子。けれどもこうした印象は、観客に仕掛けられた罠のようなものだ。こういう物語であれば、あれこれのもめごとのあとには歌と踊りと和解で終わるのに決まっていると誰もが期待してしまう。

 ところが、『パラサイト』はやがて、ホラー映画であることが判明する。そうして訪れる結末は、悲劇の主人公を襲う宿命のように過酷なものだ。大量殺人、そして永遠の幽閉。しかし監督は、陽気な展開への期待を持たせることで、この家族がそれほどいいひとたちでもないという居心地の悪い事実を、わたしたちがゆっくりとしか理解できないように仕向ける。

 彼らがそれほどいいひとたちでもないのはなぜかと言うなら、それは(彼ら自身、酒を飲んで騒ぎながら裕福な一家の気前のよさについて語りあう場面で認めていることだが)、彼らが単純に、いいひとであるために必要なだけの財力を持たないからだ。しかも監督はその一方で、映画を見るわたしたちがこの貧しい一家の人びとの運命をわがことのように感じずにはいられないような場面づくりをしていく。

 たぶんここにこそ、恐怖の本質がある。最も恐ろしい怪物とは、結局、わたしたち人間をその一員に変えてしまうような存在なのだ(吸血鬼、狼人間、ゾンビ……)。そしてたぶん、誰にとっても、その一員になってしまうのが最も恐ろしい存在とは虫だろう(例えば映画『ザ・フライ』)。虫とは、不快で人間的意思を欠き、しかもきわだって脆い生き物だからだ。それゆえ、自分がずっと虫であったのにそのことを知らずにいた、という事実に気づくような状況とは、まさしく悲劇である。われこそはアガメムノンと思っていたのに、神々はそんな人間を、虫けらのようにひねりつぶしてしまう(このように考えてみた場合、カフカの『変身』はこの主題を最も独創的に展開した作品だと言えるかもしれない。この物語を通して、ヨーゼフ・Kがほんとうにゴキブリに変わってしまったのか、それとも単に、ある日突然、ゴキブリになってしまったと確信しつつ目覚めたにすぎないのか、どちらなのかはまったく不明確なままなのだから)。

 虫であることとは、自分がつくったのではない空間のなかを人間的意思もなく這い回るだけの機械のような存在であることを意味するのだとしよう。そうであるなら、この映画の登場人物はみな、何らかのかたちで、卑しむべき虫なのだと言える。半地下に住む貧しい一家のみならず、神に選ばれし者たち、あの鈍感な富裕な一家もそうなのだ。彼らは貧しい一家の時にかなりあからさまな策略を見抜けず、そのため自分たちの生活を支える使用人たちの正体に気づかないばかりではない。この一家は、自分たちが地獄の真上に住んでいるという事実すら知らずにいる。

 これは、作品世界の真の神(建築家)が、一家が住むこのうえなく美しい住まいのすぐ下につくっておいたものだ。建築家はハルマゲドンに備える防空壕を用意しておきながら、それを新たな所有者たちに伝えようとはしなかったという事実が判明する。「ひとは時として、こんな場所の存在を認めるのはきまりが悪いと感じたりするものです」、前任の家政婦は言う。地獄をつくってしまったことに恥じ入っている神というものを、どのように受け止めるべきだろうか?

 たぶん『パラサイト』の作品世界のなかで「人間性」と言えるような何かを持ち合わせていると主張することが許される唯一の人物は、まさにこの建築家なのだ。

 

地獄の2つの区画

 やがてこの地獄に、ひとりの呪われた悪魔めいた幽霊が押し込められていることがわかる。死に損ないの中年男の姿をした幽霊だ。彼がここに身を落ち着けることになったのは、妻がこの邸宅の家政婦をしていたからでもあり、借金とビジネス上のトラブルと年金制度の欠陥のためでもあるけれど、結局のところは、野心の完全な欠如を彼自身がどうすることもできなかったからだ。彼は地下から上の様子を窺い、選ばれし住人たちが階段を上るたびに照明を点滅させる。それはつまり、彼はこの家の建築構造のなかに、事実上ひとつのメカニズムとして組み込まれているということだ。

 地獄のもうひとつの区画──つまり同じ都市の貧しい郊外に目を移そう。そこでは、貧しい一家の半地下の住まいが、最初は窓際を通りすがる人びとの立ち小便の標的とされ、最後には下水道からの洪水のために完全に浸水してしまう。そしてこの貧しい一家の父は、当初は栄達を目指すマキァヴェッリ的策略に加担するものの、結局は息子に対して、自分が地下室の悪魔となんら変わらない存在であることを認める。というのは、彼もまた、ほんとうのところ何の計画も持っていないからだ。企てられた計画は、どれも無に帰してしまう。この事実は何を意味しているのか?

 結果はこうだ。第一の悪魔が地獄から姿を現し、流血の惨事のなかで息絶えるその時、父はこの悪魔の位置を占め、地獄に永遠にとどまる定めとなる(息子は父を継いで、半地下のほうの地獄で一家の長となり、いつか彼を救い出すことを誓うけれど、わたしたちはみな、そんなことは不可能だとわかっている)。新たな所有者がこの〈天国〉を手に入れる。このドイツ人の一家は虐殺について聞かされていないし、前所有者と同様、地下に何が潜んでいるのかを知らないまま、邸宅で暮らしていく。地下の悪霊はひょっとすると、ある日突然暴れ出して、彼らみなを殺してしまうかもしれない。

 

クレイジーキルトの一片か、建築を構成するブロックか?

 批評家たちはある意味で正しい。『パラサイト』はそれ自体が驚くべき建築作品であり、独特のあり方で実に美しい。それでも、わたしたちがこの建築作品を通り抜け外に出ながら、希望の不在と幾分かのめまいを感じたことにはそれなりの根拠があると思う。これは神学的作品であり、モラリティの不可能性をめぐるモラル的ドラマである。というのも、この映画は、自らつくり上げた建築に何が起こるのか、取り立てて気にかけているようには見えない神の仕事をめぐる物語なのだから。彼ははっきりとした理由もなしにただその地を去り、邸宅を売り払ってしまい、そこに住まう者たちが予め定められた構造に従って生きることになるのを放っておく。そこにある構造を、彼自身、少しばかり厄介なものだと感じてはいたのだけれど。

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 そうしたわけで、この作品が社会的不平等に関する批判的省察として歓迎されているのは、なかなか皮肉なことのように思われる。監督の初期作品(例えば『グエムル』)と比べてみても、この作品はむしろ降伏の身震いのように感じられるのだ。そのことは、比較的陰鬱な省察として読まれてきた過去の様々な作品と比べさえすればはっきりする。そうした作品はどれもほぼ同様に、プロットの全体的な建築構造から抜け出すための何かを提出していた。

 ドストエフスキーの「地下室の手記」や『罪と罰』は、社会批判の諸要素を見事に含んだ豊かな伝統のなかで創作されているものだが、その主人公たちは、耐えがたいほどに悲しく暗鬱な都市のなかに閉じ込められ、気の塞ぐ居酒屋で日々を過ごし、果てもなく続く汚れた運河に沿って歩く。コロレンコの「地下の子どもたち」やゴーリキーの『どん底』では、主人公たちはいずれもひどいスラムのなかで苦しみ、半ば気の狂った存在になってしまう。こうした展開は、『パラサイト』と同様のメッセージを送っているようにも思われる。違いは、これらの作品の登場人物は、単に構造のためにだけ存在しているのではないということだ。

 このことが読者を促して、都市の内部で様々な声が織りなすクレイジーキルトに自己を重ねていくことを可能にする。豊かな人びとと貧しい人びと、怪物たちと天使たちの声。バフチンがのちに強調したように、彼らの発話はそれぞれが独立した宇宙であり、互いに衝突しあうとともに、作者と議論を交わしている。

 ディケンズの小説についても言えることだけれど、批判的な質というものはおおむね、登場人物のあり方に関わっている。登場人物の非常に多くがまったく断固として独自の存在となって、彼らそれぞれが少なくとも潜在的にはただ自分だけでひとつの宇宙を体現している時に、批判的な質が生じるのだ。

 『パラサイト』では、登場人物が自律的存在であることを想定させるあらゆる要素は(娘はアーティストの卵、息子は辛抱強く誠実……)、単にプロットの流れを推し進めるための道具にすぎないことが明らかになる。それらは建築を構成するブロックであり、それ以外の何物でもないのだ。

 そこではすべてが建築を支えているのだから、豊かな者と貧しい者の関係は結局のところ、敵対的というよりも相互依存的なものとなる。貧しい者を構成するすべての側面は、ここではただ豊かな者を食い物にするのに役立つものでしかなく、その一方で豊かな者は、生活のために貧しい者に依存している。こうした意味で、この映画は小説よりも詩に似ている。ニコライ・ゴーゴリは自作『死せる魂』を一編の詩作品とみなし、ただ小説形式に仕立て上げられているにすぎないのだと述べたものだけれど、『パラサイト』についても同様のことが言える。だとしても、これは痛ましい、救済の余地をいっさい残さない絶望的な詩作品だ。これではまるで、かつて想い描かれたポストアポカリプスの世界、ゴキブリ以外の生き物のいないそんな世界がすでに到来していたかのようではないか。これまでのところ、世界がそんなことになっていると完全に気づいた者は誰もいないのだけれど。

著者紹介
デヴィッド・グレーバー(David Graeber)
1961 年、ニューヨーク生まれ。文化人類学者・アクティヴィスト。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学人類学教授。

ニカ・ドゥブロフスキー(Nika Dubrovsky)
1967年、ソビエト連邦・レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)生まれ。アーティスト・ジャーナリスト。現在はロンドンとベルリンを拠点に活動している。