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「国籍」をめぐる植民地主義と現代の課題

──著者が語る朝鮮籍をめぐる問い・後編

 

 

鄭栄桓

 

 

編集部まえがき

 

 2022年1月に小社より刊行した鄭栄桓『歴史のなかの朝鮮籍』に関する、著者による自著解説の後編をお届けする(前編はこちら)。

 本インタビューが実施された2023年は、関東大震災より100年という節目を迎える年でもある。当時、震災直後の混乱の最中で、多くの朝鮮人が虐殺されたが、今日、東京都知事や内閣官房長をはじめ、こうした歴史的事実をなかったかのようにする言説が政府・行政において発せられるに及び、歴史責任の問題は、あたかも「歴史戦」言説に回収されるような事態に至っている。

 前回の『歴史のなかの朝鮮籍』の全体に関する解説に続いて、インタビュー後編では、関東大震災から今日の歴史戦に至るまでの、日本の歴史責任の問題について視座を広げ、語っていただいた。

 

 

何が変わり、何が変わらなかったのか

 『歴史のなかの朝鮮籍』は1971年に朝鮮国籍書換運動が一段落したところ本論を終えますが、現在はそこからさらに半世紀以上が過ぎています。この間に変わったことと変わらなかったことがあります。

 まず1982年に出入国管理令が出入国管理及び難民認定法へと改正されます。これは難民条約への加入を前提とした法改正でした。このとき、残された問題であった韓国国籍ではない朝鮮人の在留資格について、永住を認める措置が取られました。いわゆる「特例永住」です。ただし、この段階では日韓条約でも子孫の問題は未解決でしたので、バランスを合わせるために、子どもたちの法的地位の問題については後に話し合って解決するということになりました。韓国籍者の子孫の在留資格については1966年の日韓法的地位協定発効から25年以内、つまり1991年までに再協議することになっていました(「91年問題」)。こうして在日朝鮮人の法的地位問題は再び1980年代から90年にかけて日韓間の議題となります。

 ただ、このときも問題は日韓両政府の間でだけ議論されたわけではありません。1980年代には指紋押捺拒否闘争が空前の拡大を見せます。特に若い世代の朝鮮人やキリスト者の外国人の当事者や日本の市民の支援者たちが、従来の運動とは異なり形態で外国人の人権問題の抜本的な再検討を日本政府に訴えます。こうした下からの運動抜きに「91年問題」を理解することはできません。

 前回お話しした1970年代の田川市の事例は、こうした指紋押捺拒否闘争とも繋がる側面があります。自治体の組合の人々、つまり朝鮮人からすれば、窓口の向こう側にいる人たちとの間での連帯の問題です。もちろん『歴史のなかの朝鮮籍』でも書いたように、田川市長の動きには一筋縄ではいかないところもあるわけですが、一見繋がらない朝鮮国籍書換運動と指紋押捺拒否闘争の接点を考えることは重要だと思います。

 結果として日韓の協議では従来のような韓国籍に限った永住許可付与という方式は採られませんでした。1991年に成立した入管特例法は国籍により在留資格を分けず、「平和条約による国籍離脱者」というカテゴリーを設けて、これらの人々とその子孫に永住許可を認めました。国籍と在留資格のリンクが取り外され、代を継いで永住許可が継承されることになったのです。こうして朝鮮籍者の不安定な在留資格の問題は、国籍とは切り離されるかたちでひとまず「解決」されたわけです。永住者に限り指紋押捺制度も撤廃されました。

 しかし、当事者の要求がすべて認められたわけではありません。例えば、退去強制の対象から除外するという要望は認められませんでした。「退去強制される可能性のない外国人」という存在を認めることを法務省は強く拒みました。彼等にとって外国人という地位の本質は、逆に言えば日本国家の外国人に対する権力の根源には、まさにこの「送還可能性」があるわけですから。

 また、変わらなかったものとして、日本と朝鮮民主主義人民共和国の国交の不存在、植民地支配の過去の未清算がある。前編でお話ししたような、金英達さんが言う「二重にねじれた変則状態」もまた、今現在も続いているのです。

 

「無国籍」というアイデンティティの主張

 朝鮮籍者の在留資格が国籍問題と切り離される形で「解決」されたことは、朝鮮籍者をめぐる議論のあり方にも少なくない影響を及ぼしてきました。具体的には、朝鮮籍者を「無国籍者」を位置づける、しかも法的地位というよりも「アイデンティティ」の表現として「無国籍」という言葉を使う見方の登場です。

 かつて朝鮮籍の問題は、「祖国」をめぐる問題と結びついてきました。朝鮮籍を維持してきた人々には、朝鮮民主主義人民共和国を自らの「祖国」とみなす者のほか、韓国政府を自分の「祖国」とみなさない、あるいはいずれの政府も認めないという立場の人々がいました。ただ最後の立場であっても、あくまで統一朝鮮を「祖国」とみなす立場からの朝鮮籍維持という観点であった。作家の金石範氏などは「無国籍」という言葉を用いることはありますが、実際には統一された祖国というイメージが非常に強い。

 しかしこうした従来の見方とは異なる「無国籍」論といいますが、南北両政府のみならず朝鮮半島の社会との距離感から、これをアイデンティティとしての「無国籍」と表現する見方が出てきている。例えば2021年に刊行された『朝鮮籍とは何か』(李里花編著、明石書店)は、韓国政府がどのように朝鮮籍を扱っているのか、国際法上にではどのような国籍として位置付けられるのか、当事者たちは朝鮮籍をどのようなアイデンティティとして見ているのかなどを検討していますが、その際にこの論集に寄稿した人々がしばしば念頭においているのは、こうした種類の「無国籍」論です。

 「アイデンティティとしての無国籍」という議論は、無国籍研究の視点からは少々特殊な事例になります。というのも、基本的にこれらの研究は「無国籍」の発生をいかにして防ぐかという点に主眼があるからです。実際、今日の世界で「無国籍」であるということは、多くの場合無権利状態と同義です。ゆえに多くの無国籍者は、国籍を、より具体的には権利の束としての国籍を求めていく。本書で扱った例でいえば、日本国籍を保持していることを証明しようと、自身の母を無国籍者であると裁判で主張したケースがまさにこうした方向でした。

 一方で近年の言説のなかでは、あえて「無国籍」として自らを位置づけようとする朝鮮籍者がいる。ここには朝鮮民主主義人民共和国を忌避する感情も作用していると思いますが、何より大きいことは特別永住制度の創設により在留資格が一定程度安定したことでしょう。1980年代以前に同じ事を主張することは難しい。無権利状態の肯定になりかねないからです。ですから、統一された母国の国民として位置付け、そこから生じる権利性を要求する。あるいは現実に存在する朝鮮民主主義人民共和国の公民と自分を位置付けて、韓国政府や日本政府からの介入を排除しようとする。自らを「祖国」の国民と位置付けることで、自らを守ろうとした。そういう意味では、「アイデンティティとしての無国籍」を語れること自体が、これまでの在日朝鮮人をはじめとする人々――多くの場合それは「祖国」の民であろうと求めた人々です――の、池上的な国籍観に抵抗する闘争の歴史に多くを負っているのです。

 民族の独立や南北統一を求める運動の歴史は、ナショナリズム批判の流行のなかで最近ではあまり顧みられなくなっていますが、私はそうした見方には賛同できません。1940年代から1970年代の運動は、当事者たちの側から権利としての国籍を求めていく動きであり、権利としての在留を求めていく動きだったと思いますから、こうした実践や言説の蓄積というもの掘り起こしてみると、まだまだ発見があると思います。それを掘り起こしながら、今後の法律論に接続していく必要があるでしょう。

 『歴史のなかの朝鮮籍』では、前回取り上げた池上努の書籍については言及していませんが、このような池上的国籍観に対して、人々が具体的な実践のなかで、どういうふうにノーを突き付けてきたのか、実に豊かな実践の層があると思います。歴史学の強みとして、その層を可能な限り深く掘り下げ、その人たちの文脈や背景を再構成するということが必要かと考えています。

 

植民地主義とレイシズム、そして家父長制

 視点を日本の側に移して、『歴史のなかの朝鮮籍』における朝鮮籍をめぐる問いや問題関心と、戦前以来の植民地主義の問題との繋がりに触れざるをえません。戦後の日本における「朝鮮人」という法的範疇は、大日本帝国における異民族統治の道具である「戸籍」と密接な関係をもっているからです。そして戸籍は常に権利から朝鮮人を排除し、民族を管理する際に使われてきました。

 例えば、本書の序章でも触れたとおり、植民地期には本籍地の移動が原則として禁じられていました。しかし戦時期になると、必ずしも反植民地主義の立場を取らない朝鮮人の側から「これは差別ではないか」という声が出てくる。「一視同仁」「内鮮一体」で自分たちはこんなに天皇のために協力しているのにおかしい、ということですね。名目としては「内鮮一体」ですから、朝鮮人も日本人もみんな天皇の子どもであるという理屈になります。しかし、こうした「一視同仁」的立場からの戸籍による区別の撤廃論すら、結局実現することはない。

 それどころか、戦時期の日本政府(内務省)は、戦時強制連行を含む在日朝鮮人の急激な増加をうけて、内地に本籍を移す際のハードルをより高く設定しようとします。具体的に内務省は、外国人が日本国籍に帰化する際の基準と同程度のハードルを移籍の際に課そうとしました。日本のなかで定着し、日本式の生活習慣を持った完全に日本人化した人ではなければ、本籍を移動してはいけないという基準です。戦時期に在日朝鮮人の数が増えていき、日本人と朝鮮人の間の婚姻も増大した現実があり、そのなかで、いかに「民族的日本人」のラインを守るかということを内務省は考える。それは、まさに「一視同仁」という建前の裏で作動するレイシズムの論理なのです。

 そうした意味で「単一民族社会の神話」は、別に戦後から出てきたわけではない。植民地期、さらには戦時期の発想の延長線上に戦後の在日朝鮮人に対する排除というものがあると私は考えています。一部には戦時期の「多民族帝国」化した状況のなかに、戦後日本の単一民族神話とは異なる可能性を見出す論者もいますが、私はむしろ両者の連続面を見た方がいいと考えています。

 その際に見落としてはいけないもう一つの問題は、家父長制とジェンダーの問題です。戦後になって、朝鮮人を様々な権利から排除していく際に、戸籍という手段を用いた結果、朝鮮人男性と法律婚をした日本人女性も「朝鮮人」として扱われて同じく権利から排除されることになった。平和条約発効の際に国籍喪失をする「朝鮮人」にも、こうした日本人女性が含まれた。

 もし植民地時代、朝鮮戸籍に入った日本人男性が多く存在したならば、おそらく日本政府はこうした措置は採っていなかったでしょう。戸籍によって日本国籍喪失のラインを引いてしまうと、日本人男性は外国人になってしまうわけですよね。統治する側にとってそれは許容できなかったのではないか。逆に、朝鮮人の「家」に入った日本人女性が、「国」の構成員から除外されることは特に問題視されなかった。そういう意味では、レイシズムと家父長制の両者が非常に重要です。

 もちろん戦時期に朝鮮人女性の「家」に日本人男性が入る、つまり婿入りすることは極めて例外的でした。制度的な障壁が高かったからです。背景には兵役の問題があります。兵役法が朝鮮に施行されるまでは、本籍地が朝鮮だと徴兵の対象にはならないため、徴兵逃れのために婿入りする、つまり偽装結婚するのではないかという恐れがあったからです。このため徴兵適用年齢を過ぎないと朝鮮人女性に婿入りすることはできなかった。だから、日本人女性が朝鮮人男性の「家」に入るというケース等に比べて、日本人男性が朝鮮人女性に婿入りするケースは極少数でした。この結果、朝鮮に本籍がある日本人の圧倒的多数は、女性ということになったのです。この人々は1952年に日本国籍を喪失し、また、一部の人々は帰国事業の際に朝鮮民主主義人民共和国に「帰国」しました。日本政府はこうした日本人女性に対しては、ほとんど何も考慮せずに政策を推進しました。

 大日本帝国、そしてそれを継承した日本国にとって、国籍の帰属は戸籍、そして「家」という制度の強い影響を受けたのです。

 

関東大震災と虐殺否定論の問題

 植民地主義の問題を考える際、戦時期のみに視点を限定してはいけません。例えば今から100年前の関東大震災時の朝鮮人迫害と虐殺の問題も重要です。解放後の在日朝鮮人にとって最大の過去の清算問題の一つは、関東大震災における朝鮮人虐殺の問題でした。例えば金子文子と共に大逆罪で捕まった朴烈が戦後に釈放された際に集まった人々は、日本政府に対して関東大震災の真相究明を求めています。また、朝鮮人連盟は、各地で関東大震災の真相究明の大会を開き、聞き取りも行いました。

 1947年には、千葉県の船橋に関東大震災の犠牲同胞慰霊碑が建てられます。現在は馬込霊園にあります。この慰霊碑は非常にはっきりと軍閥が朝鮮人と社会主義者を殺したと書いている。加害者を明記した例外的な慰霊碑です。国家責任を追求していく動きが、この解放直後の空間のなかで、非常に盛り上がっていき、日本人の社会主義者、共産主義者と連携しながらこの慰霊碑を建てました。除幕式は船橋市の職員など行政側も参加しています。こうした反植民地主義的な運動や意識の拡大が、『歴史のなかの朝鮮籍』に登場する朝鮮人たちの背後にある思想的基盤を認識するうえで、とても重要だと思います。ナショナリズムという文脈も重要ですが、反植民地主義という文脈もまた、非常に重要な意味を持っていると思うのです。

 この時期の朝鮮人の国籍論も、反植民地主義を抜きには理解できません。例えば韓国系の在日朝鮮人たちのなかでも、講和条約に際して日本国籍を選択する、という主張には異論が多かった。その背景には、韓国併合は不法であるという認識があります。併合は不法であるから、自分たちは日本国籍になったことはない、ゆえにそれを「選択」するという議論は誤りである、というわけです。今日では日本の単一民族神話を補強する発想だったと批判的に言及されることが多いのですが、併合を不法とみなす反植民地主義的なナショナリズムの高揚という文脈をきちんと見ないといけない。

 そのなかで重視された過去の清算の問題というのが、関東大震災なのです。震災直後の日本政府は、朝鮮人にも一部暴動を起こした人がいた、という主張を繰り返した。流言蜚語は完全に否定されるわけではありませんでした。このため、日本の庶民の間でも、「暴動を企んだ朝鮮人がいた」という被害妄想が、事実であるかのように定着してしまった側面があります。また、例えば震災の翌年である1924年9月には横浜で、震災1周年を機に朝鮮人が日本人に復讐しようとしているというデマが流れます。朝鮮人からすれば、そうしたデマの流布自体が恐ろしい。だから恐れて横浜から避難する。こういう記事が残っています。こうした戦前の言説は戦時期まで続き、同じように空襲の混乱が生じたときには、関東大震災のときと同じように朝鮮人が日本人を襲うのではないかという流言が発生する。朝鮮人側としては、そういうふうに自分たちを恐怖している日本人に恐怖するわけです。

 日本の敗戦後にようやく、こうした状況を変えようという動きが公然と可能になる。ただ、調査した人の回顧が残されていますが、1940年代の聞き取りは非常に困難を極めたそうです。朝鮮人側の聞き取りはできたけれども、日本人側の聞き取りが非常に難しかった。事件から20年ちょっとしか経過しておらず、当時20代で自警団だった人はまだ40代ですから、口を開くにはまだ時間が必要だった。ようやく1960年代から本格的な学術調査・研究が始まって、文献調査や文献資料集の刊行などが進み、今日では震災直後の政府当局による発表自体への批判、政府当局が事実として発表した内容への批判的検証が可能になっています。1963年には、姜徳相さんの最初の関東大震災に関する論文が発表され、その2年後に朴慶植さんの『朝鮮人強制連行の記録』が出版されています。

これらの論文や著書は共通して日韓条約を批判している。やはり、韓国と日本の間で、歴史的責任を無に帰そうとしていることへの、抵抗としての歴史研究なのです。そういう意味では、『歴史のなかの朝鮮籍』の後半で扱われた時代と、こうした関東大震災に関する研究は同時代の出来事なのです。

 1990年代に入ってようやく、韓国側がこの歴史問題について積極的になりますが、それ以前は日韓対立というよりも、日韓でこの歴史問題を封じ込めてしまう動きがあったのです。それに対して研究者、特に市民的な在野の研究者たちが一つひとつ事実を掘り起こしていきました。特に、在日朝鮮人の多くは、大学での職務を得られなかったため、市民運動や市民的な在野研究者として活動していました。こうした人々による批判の矛先というのは、日本政府だけでなく、韓国政府に対してもあったと思います。

 

「国益」の言説に回収される植民地支配責任の問題

 関東大震災時の朝鮮人虐殺に関する否定論は、こうした人々の調査・研究の蓄積を全面的に否定するものです。東京都知事を筆頭に、責任ある立場の人々が否定論があたかも有力な学説であるかのような姿勢を示す。こういう状況が生まれること自体が、在日朝鮮人の生命や権利にとって非常に危険なことだと思います。

 もちろんこうした動きは突如としてあらわれたものではありません。1990年代以降の日本の加害責任を認めまいとする歴史修正主義運動の延長線上にあります。今日、「歴史戦」という言葉が大手を振って使われていますが、国家というものは基本的には自国が有利になるように外交交渉を進めるものであるという前提に立ち、よって韓国側が主張している歴史問題は、彼らの国益のために主張しているものであって、つまり真実とは関係がないというように、近年、歴史の問題を「国益」の問題に回収してしまう傾向が顕著に出てきています。そして保守派に限らず「リベラル」を自認する人々もこうした認識に同調していく。

 そこには、前編・後編ともに繰り返し述べてきた池上的国家観と通底するものがあります。歴史的事実の問題を全て「国益」の問題に還元してしまうのです。そこには、歴史責任を追求して事実を調べてきた在日朝鮮人たちの仕事にしても、朝鮮総連と関わっているからとか、民団と関わっているからということで、実は朝鮮民主主義人民共和国の手先、韓国の手先だと、国家に紐付けしてそれで理解したかのようにしてしまう。自らの加害から目を背ける言い訳ばかりを探し、批判者を徹底的に迫害する。この結果、日本の人々は1990年代に本格的に始まったアジアの被害者からの責任追及の声に応じることに、完全に失敗したのです。

 全く馬鹿げていると思わざるをえないのは、韓国のベトナム戦争時における性暴力や民間人虐殺の事実を指摘することで、日本に対する植民地支配や戦争責任の追求を無化・相対化できる、と考えている人々がいることです。「民衆」あるいは「社会」という視点が一切ないですし、何より当時の自民党政権がベトナム戦争における米軍の行動を一貫して支持してきたこと、日本もまたベトナム戦争の当事者であることを無視している。

 韓国民主化の過程で、韓国の国家が国民に対してどんな扱いをしてきたのか、暴力をふるい、嘘でそれを隠してきたかを追求する動きが盛り上がる。1980年に起きた光州民衆抗争についてもそうですし、朝鮮戦争時の民間人虐殺も同様です。そうしたなかで、ベトナム戦争時の韓国軍の民間人虐殺を明らかにし、被害者に謝罪・賠償すべきとする運動も出てくる。こうした人々は、同時に日本軍性奴隷制問題の責任を追及する運動に尽力している場合は多いのです。

 韓国の現代史のなかで、国家の暴力に対して非常に批判的な視点を、多くの犠牲を払いながらも人々が獲得していきました。だからこそ、韓国が外部に対して行った国家暴力についても非常に敏感であるし、男性中心的な国家・社会が韓国の女性たちに行使するようなジェンダー暴力に対しても、非常に広範な批判的世論が巻き起こっています。近年の韓国におけるフェミニズムの高まりはその一例です。そういう社会のなかでの国家の暴力に対する認識の深まりをきちんと考えなければならない。

 本当に薄っぺらな「歴史戦」言説のなかで、苦しい現代史のなかで、人々がひとつずつ掴み取っていったものが無視され、侮辱されている。もちろん韓国社会のなかにも、こうした日本の言説に賛同しようとする人々もいる。現在の韓国政府が徴用工問題に関して、本来なら日本の企業が払うべき慰謝料を肩代わりすることで、日韓の関係を「正常化」しようとしたことなどは、その表われでしょう。

 しかし、それに抵抗する人びともいることを忘れてはならない。しばしば日本のマスコミは韓国国内で「分断が深刻化している」といった表現を使いますが、私はこうした抵抗や対抗を安易に「分断」と表現するべきではないと思います。むしろ日本社会は日本の加害責任を否定する者以外の力が弱すぎる。歴史修正主義に批判する声を生み出す力が、もとからそう強くはありませんが、1990年代から2000年代を経てさらに弱くなってきてしまった。日本の歴史責任をめぐる言説が、「国益」という言説に完全に回収されてしまったところに問題があったのだろうと思います。

 

再び朝鮮籍について、残された課題

 最後に、もう一度朝鮮籍の問題に戻り、残された課題について整理したいと思います。金英達氏がかつて指摘した、在日朝鮮人をめぐる「二重にねじれた変則状態」の背景には、朝鮮半島の政府が二つに分裂している状況(南北分裂)と、在日朝鮮人の在住国である日本の政府が、韓国政府のみを承認している状況(片面的国交)がありました。

 第一の変則性により、本国の二つの政府から、韓国国民であり共和国国民であると複合して規定され、しかもそれが両立しない。結果、在日朝鮮人は韓国国民とも共和国国民とも主張しうる状況が生じる。一方で、第二の変則性により、日本政府が共和国を承認していないことから、日本においては共和国国籍の実効性がない。つまり前者の解決は南北関係に、後者の解決は日朝関係に依存するわけです。

 まず前者からみてみましょう。例えば、韓国政府が朝鮮籍をどのように認識しているかが問題となるわけですが、朝鮮籍者は韓国の在外同胞法のいう「在外同胞」から除外されています。「外国に居住し、大韓民国国籍を有さず、かつ外国国籍を取得していない『同胞』」という存在をこの法律は想定していないからです。このため、朝鮮籍者は韓国入国の際には、南北交流協力法に基づき「旅行証明書」の発給を受ける必要があります。証明書の発給は政権の意向に左右される要素が今でも多く、このため朝鮮籍者の韓国自由往来は不安定です。他方で朝鮮籍者は帰化手続に拠らず韓国国籍を得ることが可能であるため、「外国人」とみなされているわけでもありません。一方、朝鮮民主主義人民共和国は朝鮮籍者には旅券を発給していますが、韓国籍者にはどうかというと、どうやら現在の運用レベルでは、韓国旅券を取得していない者に限り旅券を発給しているようです。これらの問題をいかにして「解決」していくのか、統一的な在日同胞向けの旅券を南北が協議して発給するのか、などの課題が残されています。

 次に後者の問題は、日朝間の承認、あるいは国交正常化の際に朝鮮籍者の国籍がどうなるのか、という問題と関わります。現在は未承認国であることを理由に、朝鮮民主主義人民共和国の旅券の有効性を日本は認めていません。国交樹立後には朝鮮旅券は有効なものとなるはずですが、共和国公民を自認しない朝鮮籍者の扱いはどうなるのか、という問題は残ります。また、朝鮮籍者の「外登上の国籍」の扱いについても、国交正常化後は「朝鮮民主主義人民共和国」という記載が可能になるはずですが、一般的に特別永住者証明書や在留カードの国籍・地域欄は国名から政体(**共和国等)の名称を除き記載されるケースが多いため、この慣習に従えば「朝鮮民主主義人民共和国」は「朝鮮」として記載される、ということになる。ただ、場合によっては日本政府が「北朝鮮」表示を導入し、「朝鮮」と「北朝鮮」をさらに分ける、という可能性もありうる。私としてはすべてまとめて「朝鮮」とするのがよいと考えます。

 これらの問題の解決はいずれも容易ではありません。しかしこれまでの歴史のなかで当事者たちから強い反発を受けてきた政策、つまり池上的な外国人観・国籍観に基づくような政策を反復することは避けなければならない。植民地主義と分断のなかで生じた暴力への反省にもとづき、何よりも当事者たちの意思、そして尊厳をふまえた「解決」が図られていくべきだと思います。そのためにも『歴史のなかの朝鮮籍』のなかで扱った在日朝鮮人たちの「国籍」をめぐる歴史的経験が、一人でも多くの人々に知られることを願っています。

著者紹介

鄭栄桓(チョン・ヨンファン)

明治学院大学教養教育センター教授(歴史学)。専門は朝鮮近現代史・在日朝鮮人史。著書に『朝鮮独立への隘路 在日朝鮮人の解放五年史』(法政大学出版局、2013年、第13回林鍾國賞受賞〔朝鮮語版〕)、『忘却のための「和解」 『帝国の慰安婦』と日本の責任』(世織書房、2016年)などがある。