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人生の時間とその後──展覧会「クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime」に寄せて

 

転載に当たって──長崎県美術館での展示について

 

 以下に読まれるのは、『図書新聞』2019年8月17日・第3412号の1・2面に掲載された「人生の時間とその後──あらゆることが起こりうるのだということを知っている芸術家、クリスチャン・ボルタンスキー/「クリスチャン・ボルタンスキー──Lifetime」展(国立新美術館)に寄せて」を、同紙の許可を得て転載するものである(作品の出展に関する事実関係を2点修正)。

 

 大阪・国立国際美術館(2019年2月9日〜5月6日)から始まったこの美術家の大回顧展は、東京・国立新美術館(6月12日〜9月2日)へと巡回したのち、10月18日より第3の会場、長崎県美術館に移っている(2020年1月5日まで)。
 本稿は、東京会場の作品配置に沿った展覧会評のかたちを取りつつ、この類まれな芸術家の軌跡を、ボルタンスキー家の特異な歴史と2人の兄、とりわけ次兄の社会学者リュックとの関係を折りに触れ強調しながら提示しようと試みたものだが、「Lifetime」展の長崎への巡回に合わせてウェブ掲載するに当たり、この最後の会場の展示風景について、先立つ二会場との対比において、若干の感想を書き留めておきたい。

 

 両者と比べるなら、長崎会場の展示は、何よりひとつの不在によって特徴づけられる。大阪と東京では入口近くに配されていた最初期(1969年)の映像作品《咳をする男》(東京では同時期の《舐める男》と併映)が、取り除かれているのだ。
 言語学者となった長兄ジャン=エリーが激しく咳き込み血反吐を吐く様子をひたすらとらえたこの数分間の短編映画は、好悪も評価も超えたところでとにかく見る者聞く者に強い印象を与えずにはいない作品で、大阪でも東京でも、鑑賞者の注意を引きつけ盛んに言及されることになった。
 けれども、この作品におけるあらわな表現主義は以後に引き継がれることはないのだから、芸術家のその後の展開を尊重する限りにおいて、まっさきに《咳をする男》を語る人びとがこれほど多いというのは、いささか均衡を欠いた矛盾的状況だといえなくもない。
 とはいえ、本稿で強調されるように、「センチメンタル・ミニマリスト」を自称するボルタンスキーの芸術が、最初期とは方法を変えつつも一貫して、感情という同じ人間的次元に向き合ってきたことは事実だ。だからこそ彼は、この未熟な、というべき初期作品をあえて回顧展の入り口に置き、自らの出発点を再確認しようとしたのだと思われる。

 

 長崎におけるその不在は、その意味では残念なことだ。しかし見方を変えるなら、全体の均衡を逸するほどに強烈な《咳をする男》(と《舐める男》)の印象にとらわれることなく展示に向き合えるということでもある。
 国立新美術館では、鑑賞者は会場入口で、《心臓音》の響きとともに不穏な咳き込みに迎えられた(なお大阪では、この映像作品の音声はヘッドホンで聞くようになっていた)。長崎県美術館では、入口付近ですでに、心臓の鼓動と鈴の音──2点の《アニミタス》から発せられる──の交響が、訪れる人びとを包み込んでいる。
 「すでに」、というのは、先行2会場では数百の風鈴の合奏が鑑賞者の耳を奪うのは順路の半ば以降のことにすぎなかったからだ。長崎でも《アニミタス》2点は順路後半に置かれているのだが、展示室が入口に近いために、音だけは聞こえてくるのである。
 こうした意味で、比較的小規模な空間内に作品を──なお出品点数自体は他会場と同水準──凝集させたこの最後の会場では、最初期からの展開をたどるという観点が多少とも周縁化される一方で、冒頭からボルタンスキー芸術の一種の総合的イメージが提示されているように思われる。

 

 なお、長崎での展示初日に行われたアーティスト・トークで、ボルタンスキーは本稿の筆者の質問に答えて、《咳をする男》(と《舐める男》)の不在が会場の規模の小ささに起因していること、そのためより最近の作品への集中を選んだことを証言したのち、これら最初期の映像作品と以後の作品の関係について語った。
 「ずっとずっと前につくられた」これらの作品は「大好き」なのだが、しかしその一方、それらは「現在の作品の内部に全面的に属しているわけではない」。一種の「悪夢」を描いた《咳をする男》は「病気の若者の映画」であり、「若者の叫び」であって、最初期のこの段階から、今では「〈アニミタス〉の静謐さ」にまで達したのだ。そこでは「叫びではなく、「その後」の静けさ」が問題となる。彼はこのように、自らの軌跡を簡潔に要約した。

 

 ボルタンスキーはまた、別の質問者から長崎という場所の選択について問われて、この町が彼にとって「特別な何か」を持っている理由を2つ挙げた。第一に、長崎は「偶然という問題」を提起する。どうしてこの町であって別の町ではなかったのか、どうしてこのひとが死んで別のひとは生き延びたのか。
 第二に、長崎は「人類の残酷さの証拠のひとつ」である。しかし興味深いことに、そこでは米国の行為が告発的に言及されるのではなく、むしろ「わたしが大好きな日本人たちも、中国で恐ろしいことをした」として、被害者と加害者の入れ替え可能性が強調されるのだった。きわだってボルタンスキー的なこの問題含みの主題については、本稿でも取り上げている。

 

 長崎をめぐる応答の締めくくりでは、「ちょっと楽観的になるために」としてプルースト『失われた時を求めて』の一挿話──妻を失くした不幸な男が晴れた日の庭に連れ出され、喜びのなかで悲嘆を忘れる──が紹介された(『スワン家のほうへ』冒頭のこの挿話は、他のインタヴューでもよく言及される)。

 

 「わたしたちは人生とは悲劇的なものだと知っている。けれども幸いにして、それを忘れることができるのです。」

 

 悲劇の深みとわかちがたく共存するこの「軽さ」(あるいはむしろ「軽薄さ」)の次元もまた、本稿で取り上げるように、ボルタンスキー作品の本質に属している。

2019年10月28日 片岡大右

 

「キリスト者」という名のユダヤ人

 ナチス・ドイツによる占領下のパリ、大邸宅の立ち並ぶグルネル通りの一角で、近隣に聞こえるほどの夫婦喧嘩が夜中に始まる。医師である夫──オデッサ難民の息子のユダヤ人──は失踪し、コルシカのカトリック的ブルジョアジーを出自とする妻は離婚の手続きを取る。
 彼女のもとに残された2人の息子のうち、まだ2、3歳のリュック=エマニュエルは父の突然の不在に苦悩する。けれど9歳上の長男ジャン=エリーは、母に打ち明けられた秘密を共有して、パリ解放の時まで父を守るため力を尽くすだろう──偽装された喧嘩と出奔ののち、彼は床下での潜伏生活を始めていたのだ。
 「でも時々は出てきたらしい。だって僕をつくったんだからね」──1944年9月6日、前月の〈解放(リベラシオン)〉の直後に生まれ、クリスチャン=自由(リベルテ)と名づけられた第三子は、父母の冒険をこのように振り返っている(『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』佐藤京子訳、水声社、2010年、第1章。以下、美術史家カトリーヌ・グルニエを聴き手とするこの自伝的著作の引用に際しては、数字で章を示す。なお後掲『隠れ家』によると、父は狭隘な空間に身を潜めていたにせよ、つねに床下にいたわけではないようだ)。

 まずは戦後に作家となった母の小説につづられ、ついで世界で最もよく知られた現代美術家のひとりとなる三男によって繰り返し語られたのち、彼の甥のジャーナリスト、クリストフ──ブルデュー以後のフランス社会学を代表する存在となった次男リュックの息子──により新たに小説化されるに及んで(『隠れ家』、2015年のフェミナ賞を受賞)、ボルタンスキー家の歴史は20世紀フランスの伝説としての地位をたしかなものとしたといってよい。
 戦後の一家は、なおも危険が去っていないかのように──またポリオを患いひとりでは動けない母のためもあって──決して単独では外出せず、邸館の中央部と左翼を数階にわたり占有していながら夜は全員が同じ部屋で寝るという特異な日々を過ごす。
「〔両親の〕友人たちの80%は、収容所からの帰還者か生き残りのユダヤ人ばかりで、ほとんどが共産主義者だった」(1)。母ミリアム(筆名アニー・ロラン)もまた、出自社会への幻滅を胸に共産党に入るが、それでも一家は毎週日曜に教会に出かける。ただし「ミサの間中、みんなで車の中にいた。一時間一言も喋らずにミサが終わるのを車の中で待っていた」(1)。
 戦前に進んでカトリックに改宗していながらも教会に足を踏み入れようとはしない父エチエンヌの特異な敬虔さ──既成の制度的宗教の枠組みに収まることのない一種の神秘主義──に、「キリスト者」と名づけられた息子は強い印象を受ける。いずれにせよ、クリスチャン・ボルタンスキーは、ホロコーストの記憶に取り巻かれながらも自らのユダヤ性に向き合うことなく、また兄たちと異なり、共産党はもとより広義の左派の政治文化に身を浸すこともないままに、この奇妙な──「閉じこもったというよりひとつに溶け合った」(『隠れ家』)──家族のなかで生きていく。そもそも彼は、10歳の頃には学校に行くのをやめてしまうのだ。「こんなに理解のある家庭に生まれていなかったら、たぶん施設送りになっていたでしょう」(『ラ・ヴィ』2010.1.21)。

 

「かけがえのないことと滅びうること……」

 「なかなかいいよ」(1)──粘土のオブジェをリュックに褒められて、13歳の不就学児は芸術家になろうと決める。練習したものの画業は諦め、映像とインスタレーションからなる最初の個展「クリスチャン・ボルタンスキーの不可能な人生」を開くのは、1968年5月のことだ。ほとんど革命的な事態を前にしての周囲の喧騒にもかかわらず、当時の状況からの影響をのちに問われた老芸術家は「全くない」と答えて、政治への関与を芸術活動にとっての「気晴らし」にすぎないとみなし差し控えてきた自らを、あえて「反動的」と称している(3)。
 大阪の国立国際美術館に続き、現在東京の国立新美術館で開催中の回顧展「Lifetime」(秋からは長崎県美術館に巡回)を訪れるなら、《出発》(2015年)の電光掲示に迎えられつつ、このデビュー当初の作品の一部を目にすることができる。
69年の短篇映画《咳をする男》は、身体を震わせ血反吐を吐くジャン=エリーをドキュメンタリー風の映像のもとに捉え(なお言語学者となったこの長兄は、同年の《なめる男》にも出演)、ただただ不気味な印象を残す。
 コンセプチュアル・アートとミニマル・アートの全盛期におけるこの生々しい表現主義の発露が、その後に引き継がれることはない。けれどもボルタンスキーによれば、やがて採用される形式主義的諸手段によって自覚的に「冷まされた」にせよ(6)、「センチメンタル・ミニマリスト」(『ザ・ビリーヴァー』2014.3.12)を自称する彼の芸術は以後も一貫して、感情を核とするものであり続けた。例えば、初期作品以来連ねられるビスケットのブリキ缶は、ジャッド風のミニマリズムに近い印象を生み出す一方で、幼年期と結びついた「感情的負荷を帯びた物体」としても受け止められる、といったように(『パーケット』22/1989)。

 やはり入り口付近でわたしたちは、最初期の粘土作品を見つめる。幼い頃の所有物を、記憶に頼り、壊れやすい素材を用いて復元しようとするこれらの試みは、「プルースト的」(3)と称されていた時期の芸術家の傾向を代表している。記憶とその想起が、基底的な表現主義と並び、以後の諸作を貫く主要テーマであるのはいうまでもない。
 けれども注目すべきは、ここでの努力が、彼が生きてきた環境の特異性を回復させるのではなく、ごくありきたりの《長靴》(70年)や《椀とスプーン》(71年)に向かっていることだ。そしてこの一般性への志向は、71年の《D家のアルバム》によって、彼自身の幼年期からの解放を実現する。広告業者だった友人ミシェル・デュラン──この名字はフランスで最も典型的なものひとつ──の家族アルバムを利用したこの作品は、現実の諸個人によってたしかに生きられたものでありながら、ほとんど誰のものでもありうるような典型的な生活風景を提示している。
 ずっとのちの2003年、ボルタンスキーはこの旧友のギャラリーで、制作の狙いを振り返るだろう──「一番興味があったのは、社会的儀式、幸福な瞬間、聖体拝領、結婚といったもののイメージでした。強烈で幸福な瞬間、ただそれだけ」。
 個々人によって強度の感情をもって生きられた瞬間が、しかし同時に儀式的な制度性によって枠づけられた集団的かつ匿名的な性格を帯びているということ。すぐれてボルタンスキー的なこの両義性の問いは、じっさい、《D家のアルバム》において最初に明確に提起されたのだといえるだろう。
「Lifetime」の東京会場では、1971年のこの作品を《青春時代の記憶》──様々な人びとのありふれた写真からなる2001年の作品──と向かい合わせに展示することで、数十年にわたる探究の持続性が示唆されている。
 これらの作品を眺めるわたしたちの耳には──入場前からずっと──、会場内のスピーカーから発せられる誰かの《心臓音》(2005年)が響いている。入り口で配布された資料によれば、これは「クリスチャン・ボルタンスキーの心臓音を使用した作品」だ。そしてすぐそばに掲げられた電光カウンターは、《最後の時》(2013年)に至るまで彼が生きていく時間を秒単位で刻んでいる。
 とはいえ、芸術家自身の生と分かちがたいこうした作品は、もちろん、他人の人生の諸断面を匿名的な一般性のもとに提示する諸作と対立しているわけではない。《心臓音のアーカイブ》(2010年)のプロジェクトが明らかにしているように、一人ひとりの心臓の鼓動音は驚くほどに異なっており、しかしそのことはほとんど何も意味しない。そして一人ひとりの生の時間のかけがえのなさは、それを比較可能な数値へと還元することを妨げるものではない。
 「わたしたちはみなが同じであり、みなが異なっている」(前掲『パーケット』)。素材を提供するのが他人の人生であれボルタンスキー自身の人生であれ、問われているのは変わらず、個としての特異性を保ちつつも、ある全体性の内部の取り替え可能な一要素でもあるという、社会を生きる人間に固有の両義性である。
 「わたしたちはかけがえのない存在なのですから、相互に取り替え不能です。けれどもわたしたちは取り替えられてしまう。こうして人生は続いていくのです」(前掲『ラ・ヴィ』)。

 この点で、彼の関心が、社会学者である次兄のそれと交差していることを指摘しておこう。クリスチャンが、近代芸術の前提をなす個人の特権性に依拠しつつもそれを集合のなかでの無名性へと開いていくのに対し──なお彼によれば、「果たされるべき運命を担いつつも、地上においては何ものでもない」という意味で、「ロマン主義的芸術家とユダヤ人のイメージには関係がある」(『パーケット』)──、リュックのほうは、集合性から出発する彼の学問分野の要請を尊重しつつも、そこで還元されがちな個人の単独性を考慮に入れうるような理論構築を企てている。
 「兄のリュックと話をすることは、僕にはとても役立つ。〔…〕普通の人なら書物を通して習得するような思考の展開を僕に促してくれるからだ」──ボルタンスキー家の末弟はこのように証言しているけれど(7)、兄弟の対話の恩恵は双方向的であるようで、じっさい、リュックの2004年の著作『胎児の条件』(小田切祐詞訳、法政大学出版局、2018年)では、「謝辞」においてクリスチャンとの議論の意義が強調されている。
 取り替え可能な一般性と個々人のかけがえのなさのあいだの緊張を、兄が胎内の生命とその中絶可能性に注目しつつ論じたのと前後して、弟は同じ緊張を、とりわけ生命の根源としての心臓に注目しつつ改めて主題化していく。
 1970年代以降、彼の作品がつねに問いかけてきたのは、「かけがえのないことと滅びうることのあいだの緊張」(『ラ・ヴィ』)というこの主題にほかならない(なおフランス語では、2017年に社会学者アンヌ・ソヴァジョによる二人の並行的伝記が刊行されている)。

 

「わたしはショアの芸術家ではなく……」

 7歳から65歳までのボルタンスキーの肖像が代わる代わる映し出されるカーテン──《合間に》(2010年)──をくぐり抜け、わたしたちは再び、他の人びとの運命に関わる諸作品に向き合う。あるいはそれらに取り囲まれ、それらによって構成されるひとつの環境のなかに身を置く。
 大きな空間内に展示された作品群は、二点(ともに2000年の《往来》と《三面記事》)を除き1985年から1990年までのものであり、米国での突然の成功の端緒となった連作〈モニュメント〉からの数点(85~87年)、ホロコーストの記憶と暗示的に結びついた〈プーリム祭〉数点(87~90年)と〈シャス高校の祭壇〉一点(87年)を含んでいる。
 〈モニュメント〉で明確に打ち出された宗教的性格は、「特定の宗教ではなく皆に共通する宗教性といったもの」(10)として意図されていたにもかかわらず、当時からユダヤ人の歴史と結びつけられがちだった。
 ボルタンスキーは、すでに引いた89年のインタヴューで、自作がとりわけ「米国とイスラエルでは、ホロコーストと結びつけられることが多い」ことに困惑している。例えば、70年代のフランス地方都市の少年たちの写真を用いた《モニュメント(ディジョンの子どもたち)》(86年、非出展)は、「ニュー・ヨークでは、まったく全員によって、強制収容所で死んだ子供たちの写真を使ったものだと解釈された」(『パーケット』)。

 たしかに彼自身、父の死(84年)を機にユダヤ的アイデンティティに向き合うとともにホロコーストの歴史性を意識して、87年以後に取り組まれた〈シャス高校〉および〈プーリム祭〉の連作では、それぞれウィーンとパリの30年代のユダヤ人の子どもたち──その少なからずはやがて収容所を経験したはずの──の写真を用いている。
 けれどもほんの数年で、この種の暗示は放棄されてしまう。今回出品されている《死んだスイス人の資料》と《174人の死んだスイス人》(ともに90年)は、この再転換の明瞭きわまりない宣言として制作されたものだ。
 「スイス人を選んだのは、彼らが歴史を持っていないからです。死んだユダヤ人──あるいは死んだドイツ人であっても──を使ってこの種の作品をつくるというのは、おぞましくも胸のむかつくことでしょう。けれどもスイス人には死ぬべき理由がない。だから彼らは誰でもありうる、どんなひとでもありうる。そんなわけで、彼らは普遍的な存在であるのです」(97年の作品集、T・ガーブとのインタヴュー)。
 ユダヤ人のように死の観念と歴史的に結びついていなくても、ひとはやはり死ぬ。「あるひとは癌で死に、別のひとは自動車事故で死ぬ。理由も説明もありはしません」(『ラ・ヴィ』)。理由なき死を死んだというこのことのために、「こうした死者たちはある意味で、いっそうの恐怖を感じさせる。死んだスイス人はわたしたちなのです」(『パーケット』)。
 「Lifetime」の東京会場では、〈モニュメント〉から〈シャス高校〉と〈プーリム祭〉を経て《死んだスイス人の資料》に至る5年間の諸作が、ひと連なりの広々とした空間を構成する2室にまとめられている(《174人の~》は別置)。そこではおそらく、ホロコーストとユダヤ性の主題の改めての相対化が演出されているのだといってよいだろう。

 とはいえホロコーストの経験は、以後の彼にとっても、いわば乗り越え不能の地平であり続けているように見える。ただしボルタンスキーはそれを、この地平の内部に住まうすべての人間が分有する経験の限界を画すものとみなし、わたしたちの日常を浸す基本的な環境として全般化するのである。「わたしはショアの芸術家ではなく、ショア以後を生きた芸術家です。あらゆることが起こりうるのだということを知っている芸術家、ということです」(『ラ・ヴィ』)。

 

「万聖節、つまりあらゆる人間は聖人……」

 彼によれば、そこで明らかになったことのひとつは、加害者と被害者の分ちがたさ、両者の等価性である。ナチスの蛮行は、わたしたちと同じ普通の人びとによって担われた。そうであるなら、彼ら加害者を被害者と区別すべきではないのかもしれない。
 芸術家はこうした考察を、カトリックの宗教伝統のまったく独自の再解釈を通して展開している。〈モニュメント〉の連作以降、彼は万聖節を意味するフランス語「トゥーサン(全聖人)」のうちに、「あらゆる人間は聖人であるという考え」を読み取るようになる。たとえ状況のなかで怪物となろうとも、だから結局のところ、「全ての人間は許され、人間は皆聖人」なのだという(9)。
 他の出品作のなかでは、磔刑図の凡庸化の試みとみなしうる《コート》(2000年)、そしてとりわけ《ヴェロニカ〔たち〕》(1996年)が、こうした発想を色濃く反映したものといえるだろう。後者にあっては、半透明の四枚の布それぞれから、救世主ならぬ女性たち自身の顔がぼんやりと浮かび上がる。彼女たち自身が──おそらくは、ボルタンスキー的に捉えられたすべての人間と同じ資格で──神の映像なのである。

 こうして、悪に傾いた者を含めすべての人びとのうちに聖性を認める立場から、ボルタンスキーは、パリのユダヤ芸術歴史博物館のために《1939年のサン=テニャン館の住人》(98年、非出展)を制作するに当たり、「建物の門番がユダヤ人を密告した人だったら?」という依頼主の懸念を退けて、非ユダヤ人を含めた当時の全住人の名前を用いることができた(9)。
 ホロコーストの主題系を離れてより一般的にいうなら、「誰もが被害者であると同時に犯罪者」であると彼は確信している。それにまた、「犯罪者の顔」など存在しないのだ。「写真を見て誰が犯罪者で誰が被害者かを当てようとすると、ほとんどの人間が間違える」(13)。
 今回の会場では、《三面記事》──悲劇的な諸事件の記事から切り取られた写真を、加害者・被害者の別なく並べたもの──が〈プーリム祭〉ほかと同じ部屋に展示されているのは、こうした分かちがたさを強調するために違いない。

 「悪はわたしたちみなのうちにある」(『ル・モンド』2008.7.22)──倫理的判断を宙づりにしかねないこうした信念は、ところで、彼の次兄を苛立たせ、二人の主要な対立点のひとつとなっているらしい。
 「リュックは皆同じ価値を持っているという僕の考えに大反対なんだ」(9)。この点で興味深いのは、社会学者が93年の著書『距離を介した苦しみ』を、息子クリストフ──当時『リベラシオン』の中近東特派員だった──と弟に捧げていることである。
 メディアを介して伝えられる遠隔地の痛ましい出来事を前にして、いかに応答すべきかを論じるこの本を書きながら、リュック・ボルタンスキーは「弟クリスチャンのことを考えずにはいられなかった」のだという。「彼の作品の大部分は、美的な自己満足に陥ることなしに、絶滅という事実を考察しているのだ」。
 とはいえこの弟が、「表象の世界」から「行為の世界」への困難な移行を論じる兄の情熱を、全面的に共有しているとはいいがたい。最近の発言を引こう──「ショアについて、スターリンについて、知っていた人びとはなぜ声を上げようとしなかったのかと問われます。でも現在のわたしたちだってシリアについて知っている、難民について知っている。それでは人びとは何をしているのか、わたしは何をしているのか? 何もしていないわけです」(『フィナンシャル・タイムズ』2018.3.30)。
 それでも、彼が人間と社会をめぐる問いかけを、「美的な自己満足」と無縁なところで行ってきたことはたしかだ。様々な局面で判断を異にしているのかもしれない兄弟が、それでも根本的な何かを共有し対話を維持している事実には、心打たれるものがある。

 

「天国でも地獄でもなく……」

 〈モニュメント〉以後数年間の展開に焦点を当てた空間を後にし、《幽霊の廊下》(2019年)に進み出ると、その先の広がりには漆黒の《ぼた山》(2015年)が構えている。
 大量の黒い服の堆積からなり、アウシュヴィッツを漠然と連想させるこの不穏な塊は、当初はベルギーの旧炭鉱複合施設グラン・オルニュの現代美術館のためにつくられたもので、危険と隣り合わせの炭鉱夫たちの運命を示唆しながらも、結局のところはあらゆる人間に対し分け隔てなく、しかし偶然のように降りかかる終焉の出来事を体現している。
 「世界は残酷だ、でももっと悪いものがある。それは神です」(『リベラシオン』2010.1.30)。ボルタンスキーは、とりわけパリのグラン・パレでの第3回「モニュメンタ」/《ペルソンヌ》(2010年、非出展)の展示の機会に、この理由なき殺戮の力について大いに語った。
 けれども彼は、過酷さのこうした認識を、意表をつくような朗らかさで釣り合わせている。「強制収容所のなかにだって人生はある。わたしはかなり軽い人間です。軽さこそは最も素晴らしい」(同)。なるほど、今わたしたちが身を置いているこの広大な空間にしても、闇と陰鬱によってすべてが支配されているのではない。

 《ぼた山》の周囲の中空に浮かぶ《スピリット》(2013年)たちは、不吉な冥暗とは対照的な白さを湛えている。地表に意識を戻すなら、そこここに控えた彼岸の番人たちが、誰かが近づくのを待って《発言する》(2005年)のが聞こえる。
 「教えて。光が見えた?」「聞かせて。苦しんだの?」その口調は優しい。しかしこの空間の明るみは、何より、中央に据えられた《ぼた山》の左右それぞれの手前に設置された二つのインスタレーションから発せられている。左手の背後には、《アニミタス(白)》(2017年)が広がる。〈モニュメント〉ほかを展示する空間においてすでに響いていた鈴の音の連なりは、この映像の音声である。
 ボルタンスキーの新しいプロジェクトの第一作、《アニミタス(チリ)》(2014年、東京会場には非出展)は、標高四千メートルのアタカマ砂漠──世界で最も乾燥した土地であり、圧倒的な星空で知られる──に、彼が生れた日の現地の星座をなぞるように風鈴を設置して、13時間にわたりビデオに収めたものだ。これら数百の風鈴は一つひとつが「小さな魂」であって、だからこの作品は、この場所にピノチェト独裁期に密かに埋められた多くの政治犯を弔う霊廟でもあった。
 「Lifetime」東京会場に出品された第三作、《白》に舞台を提供したのは、ケベックのオルレアン島の雪原である。この一連のインスタレーションが現出させるものを、芸術家自身はこのように定義している──「天国でも地獄でもなく、たんに滅びの場所といいましょうか。わたしたちの存在は滅んだ、けれども悲しいことではない。そこはただ、待機する場所なのです」(『エレファント』2018.4.17)。

 歓喜に満ちてはいないけれど、悲痛さの支配とも無縁の、奇妙に静謐な場所。〈アニミタス〉連作に先立ち、「モニュメンタ」のインスタレーションの《その後》(2010年、非出展)を描いたマック/ヴァル(ヴィトリー=シュル=セーヌ)の展示は、すでに死後の世界を静かな世界として描いていた。けれども大きな違いは、ダンテを踏まえつつ「辺獄(リンボ)」として語られるこの世界が(例えば『フィガロ』2010.1.9)、暗がりに閉ざされていたことだ。
 「Lifetime」の──あるいは〈アニミタス〉の──提示する明るみに浸された死後の世界は、だからいわば《その後》の「その後」として、2010年のヴィジョンからの転換によってもたらされたのである。
 ボルタンスキーは、2016年に《その後》から《アニミタス(チリ)》への変化を問われて、このように答えている──「ええ、今はわたしはもっと楽天的になっています。たしかにこれまでは、リンボを思いながら仕事をすることが多かったのですが」(『アール・アプソリュマン』誌の《プレーヌ・ニュイ》特集号)。

 ところで、このリンボの観念もまた、クリスチャンとリュックの兄弟を結びつける要素だ。何しろ二人は2006年にシャトレ劇場で、劇的カンタータ《リンボ》を共に上演している(台本リュック、空間演出クリスチャン、作曲フランク・クラフチック、照明ジャン・カルマン)。
 ボルタンスキー兄によれば、現在のヨーロッパの歴史状況──地獄行きを免れてはいるが天国からは遠い──を形容するのに、この中間的な待機と選択の場ほどにふさわしいものはない。憂鬱に身を浸して生きる今日の欧州の人びとは、約束された幸福を思い出さなければならない。それゆえ彼は出版された台本(弟が写真を提供)の自作解説で、「リンボを記憶し、それに抵抗しよう」と呼びかける。
 こうしたところにわたしたちは、この学識深い社会学者が保持している、集団的な「解放」への、さらには「ユートピア」と呼びうるものへの志向性を認めることができるわけだけれど、弟のほうはといえば、このようなヴィジョンにはもっとずっと懐疑的である。「ユートピアが恐ろしいのは、解答を持っているというところです」──彼はこうして、ポル・ポトの、キリスト教の、共産主義のユートピア志向が多くの人命を犠牲にした事実に戦慄する。
 共産主義者の母や友人たちの存在にもかかわらず、また彼自身、アトリエを構えるマラコフ──パリ近郊のこの町では、1925年以来共産党市政が続く──では同党に投票していることを明言しつつも、クリスチャン・ボルタンスキーはユートピア思想の典型としてのこの政治運動の歴史的破綻を見定める。しかしそのうえで、彼は最後に留保を付け加えるのを忘れてはいない。「けれどもその一方、ユートピアがなかったら、人間的な何かも失われてしまいます……」。それでは、どうすればよいのか。「唯一の出口は、問いを投げかけることです」(前掲『リベラシオン』)。

 

「答えを持たない礼拝堂」

 もう一方のインスタレーション《ミステリオス》(2017年)は、まさにこの問いかけの企てにほかならない。パタゴニア──南米大陸最南端のこの地は、《白》のケベックと対になって、それぞれ人間的生存の北限と南限を象徴している──の浜辺を舞台として、芸術家は鯨──時の始まりを知る存在とされる──との無謀な対話の試みを作品化したのである。
 ボルタンスキーは、とりわけ1990年代までの仕事において、具体的な人間の写真を素材とし、人間たちが織り成す社会という地平の内部で、かけがえのなさと取り替え可能性の緊張に焦点を当ててきた。けれども、自らの死の間近さを自覚するなかで、彼の関心はこの人間的地平を離れ、人生の時間のその後に向かうようになる。
 「わたし自身についての何かをつくるのではなく、神話をつくること」(前掲『エレファント』)。漆黒の死を中心に据え、無数の魂たちを象徴する風鈴と鯨の鳴き声を模倣するラッパが響きを交わすこの空間──人間の尺度を超えた世界を見事に形象化したもの──では、入場前から耳に届いていた心臓音はかき消されてしまっている。

 けれども、《ミステリオス》の奥に進み、《来世》(2019年)のネオン・サインの下をくぐり抜けるわたしたちは、鈴の音が遠ざかるのに伴って、再び心臓の脈動に包まれていく。やがて《到着》(2015年)が告知される。
 こうしてわたしたちは、「答えを持たない礼拝堂」──先行するイスラエル博物館での「Lifetime」開催(2018年)を機になされた動画インタヴュー(RVPP)で、ボルタンスキーは自らの展覧会をこのように定義している──の外に出る。心臓音はまだ聞こえている。

著者紹介

片岡大右(かたおか だいすけ)

1974年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。批評家、フランス文学・社会思想史。
著書に『隠遁者、野生人、蛮人――反文明的形象の系譜と近代』(知泉書館、2012)。訳書にリュック・ボルタンスキー『批判について――解放の社会学概論』(法政大学出版局、2019年11月末発売予定)など。
https://researchmap.jp/disk.kat/